いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

寺門ジモン監督映画『フード・ラック!』とかいう最強の“アイドル”映画とアンジャッシュ渡部の亡霊について

『寺門ジモンの取材拒否の店』などの番組で知られる、グルメ超人狂人ことダチョウ倶楽部・寺門ジモン初監督作、『フード・ラック!食運』をようやく観てきた。

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寺門ジモンといえば、お肉にうるせーおじさんというのが一般的なイメージだと思われるが、本作のテーマはまさにグルメというド直球ぶり。焼き肉をはじめとする食べ物への、監督の常軌を逸したこだわりが、そのまま叩き込まれたような内容になっている。ジモンの精神論を超えて、もはやオカルトの部類にはいったグルメスピリチュアリズムがばっちり堪能できる。

 

そのため、映画も監督本人と同様に暑苦しいものになっている…と思いきや、メインキャストはEXILEのNAOTO、土屋太鳳というさわやかな2人。黒烏龍茶のごとく、2人が脂ギッシュな監督の作風を分解してくれている。

 

ただ、急いで付け加えて置かなければならないのは、本作の”真の主人公”は、NAOTOでも太鳳ちゃんでもないということ。本作のヒーロー、ヒロインは何を隠そう、次々出てくるさまざまな部位の美味そうな焼き肉の数々だ。

 

ここで思い出すのが、80年代にピークを迎えた「アイドル映画」というジャンルである。

誤解を恐れずにいえば、「アイドル映画」とは、ストーリーなどは二の次で「そのアイドルをいかにかわいくスクリーンに映すか」を考え抜いた映画と定義づけられる。

そして本作『フード・ラック!』は、「焼き肉をいかに美味しそうにスクリーンに映すか」を考え抜いた、アイドル映画と言えるのだ。シーン転換のたびに肉がジュ~と焼ける映像がブリッジとして無意味に入れられる徹底ぶり。あれはアイドル映画でいう、ストーリーに関係なく差し込まれる水着シーンみたいなものだと思う。

 

ストーリーが気に入らないという人がいるかもしれないが(それでも、ピーク時の角川映画よりはかなりまともである)、この映画を観て劇場から出たあと、向かいに焼肉店があったら、間違いなく入ってしまうだろう。

ここまで胃袋を掴んでくる映画もなかなかない。ぼく自身は、上映の時間の都合で「空きっ腹で観る」というとても無謀なことをしてしまった。自殺行為である。日本で初めて「飯テロ」の死者が出たかもしれない。それぐらい、全編、美味しそうな焼き肉の描写は強烈だ。

 

そんな飯テロ映画、ならぬ飯ジェノサイド映画『フード・ラック!』だが、一つ印象的な箇所がある。

本作では、NAOTO演じる主人公と敵対するうさんくさいグルメライターを松尾諭がいかにもうさんくさそうに好演している。本作では、その彼を通して「市場が閉まる土日月にホルモンを出す店を信用するな!」という、焼き肉マニアの間では常識化したテーゼを提示される。ホルモンは鮮度が重要だから、市場が閉まる週末に客に提供する商品は、鮮度が落ちて美味しくない、というのだ。

このテーゼに、作品はある形でカウンターを返していくワケだが、この「市場が閉まる土日月にホルモンを出す店を信用するな!」という教訓、ここ最近どこかで観た記憶があると思ったら思い出した。

 

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この人、最近テレビで観ないけど、どこにいったのだろう…(※別に2人は敵対しているわけではなく、むしろ渡部はグルメタレントの先達としてジモンを師事していることは付け加えておく)。

これが本当の夫婦を超えていった先? 『1122』が『逃げ恥』に投げ返したボール

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ドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』の続編が新春のスペシャルドラマで放送される。ぼくは原作漫画こそ読んではいるが、TBSが狂ったように何度も再放送しているドラマ版を実は見たことがない。

最終回 夫婦を超えてゆけ

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しかし、そんなぼくでも一点だけ、腑に落ちないことがある。星野源による主題歌『恋』についてだ。

サビの終わりで「夫婦を超えていけ」と彼は歌う。いや、ガッキーと星野、結婚してるやん。誤解を恐れずにいえば、この作品は「結婚をハックしよう」という話であり、決して、「結婚を超えろ」という話ではなかったはず。

そういう意味で、「夫婦を本当に超えていった」その先に付いて描いているのが、今日紹介する渡辺ペコの漫画『1122』(いいふうふ)だ。
 
フリーのWebデザイナーのいちこと、会社員のおとや。30代の2人は結婚7年目。リベラルな東京の共働き夫婦らしく、対等で、穏やかな夫婦関係だ。
 
ただ一点だけ、他の夫婦と大きく違うのは、おとやが「公認不倫」をしているということ。2人はあることがきっかけでセックスレスとなり、その後、おとやが知り合った人妻の美月と不倫関係に陥ってしまう。そのことを打ち明けられたいちこは、おとやを許し、いくつかのルールを課した上で夫の不倫を黙認することにしている。

 

ここまでは、実は『逃げ恥』のまっすぐその先の延長線上を進んでいることがわかる。

「いやいや、ガッキーも星野源も不倫なんかしてないよ!」とツッコむ前に、まあ聞いてほしい。

『逃げ恥』で描かれるのは、 「契約結婚」すなわち、「結婚という制度にとりあえず入ってみたら、あながち上手くいくんじゃない?」という主張だ。

ここで、雑ではあるが理性と感情という二元論を使おう。理性が契約、ルールを司り、感情が愛情、性欲を司るとして、『逃げ恥』のテーマは、「理性(契約、ルール)が先だてば、感情(愛情、性欲)は後から付いてくる」ということだ。

 

『1122』の冒頭、「公認不倫」が描かれることも同じだ。「2人で決めたルールを守って不倫をすれば上手くいくんじゃない?」。

『逃げ恥』ファンは考えたくないかもしれないが、みくりが平匡とセックスレスになり、感情も冷めきったその後、彼女が外で運命的な出会いをしてしまったとしたら…。「契約結婚」の「修正条項」として「公認不倫」が追加されることも想像に難くない。

 

しかし、『1122』が『逃げ恥』の延長線上から逸れていくのはその先だ。

おとやの美月に対する思いは、いちこからしたらダダ漏れ。おとやの些細な言動から、次第にいちこの心はざわつき出す。

ルールを作ったはずなのに、黙認するはずだったのに、感情のひだはどんどんささくれ立ち、いちことおとやのあれだけ穏やかだった関係は、美月とのあれやこれやも巻き込みながら、どんどん険悪なものへとなっていく。

 

独断と偏見をもって書くとすれば、『1122』から『逃げ恥』に投げ返されたボールは、「理性(契約、ルール)でも制御しきれない感情(愛情、性欲)もあるよね」だ。

結局、どれだけリベラルに「合意」「容認」「承諾」で物事を進めていったとしても、どこかで必ず、自分の感情にしっぺ返しを食らう。『1122』が描くのはそうした制御不能な感情についてだ。

 

かくがくしかじかをへて、いちことおとや、2人が「超えていった夫婦のその先」とは? 7巻完結なのですぐ読み終われる。今からツタヤで借りてきて、今年の11月22日中に読み終えてほしい。

1122(1) (モーニングコミックス)

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弱く貧しい者たちを分断するものの正体 マリオン・コティヤール主演『サンドラの週末』

サンドラの週末(字幕版)

 

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映画は飾ることなく、1本の電話から始まる。昼寝から目を覚まし、受話器をとったサンドラ(マリオン・コティアール)の顔は、すぐに悲しみで歪む。彼女はうつ病からの復職を目指していたが、その電話は彼女に解雇を言い渡すものだったのだ。

サンドラの解雇は残酷な方法で決められたという。社長が16人の社員たちに、「サンドラの復職か、自分のボーナスを選べ」と投票を命じたのだ。貧しい社員たちは、16人中14人が「ボーナス」を選び、サンドラの解雇が決まってしまった。しかも、主任が、「ボーナス」を選ばなければ別の誰かを解雇するぞ、と一部の社員を脅したという噂もある。

親しい同僚が社長に掛け合ってくれて、週明けに再投票が実施されることになった。

夫も薄給のため、サンドラが復職できなければ2人の子どもたちを育てる4人の家は、住めなくなってしまう。かくして、サンドラは週末をかけて、同僚16人の説得に走ることになる。

ベルギーのダルデンヌ兄弟

ベルギーで世界的に有名な兄弟といえば、エデン・アザールアザール兄弟だと考える人がほとんどだと思うが、もう一組、ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌダルデンヌ兄弟を忘れてはならない。

カンヌ国際映画にて、パルムドール大賞、男優賞、女優賞、脚本賞、グランプリとすべての主要賞を5年連続で受賞(!!!)したというダルデンヌ兄弟がメガホンを撮った本作『サンドラの週末』は、弱く貧しい者たちの悲しい争いと、それを予め仕組んだ卑劣な制度設計についての物語。

「サンドラが正しい」わけではない

サンドラは夫や友人の助けを借りながら、一人ひとり、週末の同僚たちの家を訪ね歩き、自分の復職への投票をしてほしいと切実に訴えていく。

同僚たちの反応はさまざまだ。生活が苦しくボーナスは諦められないと拒否する者がいれば、一度目の投票で「ボーナス」を選んだことを悔いて泣きながら謝罪する者もいる。サンドラと親しかったのに、居留守を使って会うこと自体を拒む者さえいる。

美しくも儚いサンドラを演じるマリオン・コティアールの演技力に、ついついヒロインの肩を持ちたくなるところだが、ぼくらはその誘惑に抗わなければならない。

なぜならサンドラが復職したいという事情があるのと同様、ほかの同僚にだってそれぞれの事情がある。

サンドラに向かって、「ごめんなさい。でも、あなたには投票できない」と言い捨てる同僚たちも、憎むべき悪ではないのだ。

どちらだけが正しいわけでも、どちらかが間違っているわけでもない。

連帯して戦わなければならない相手によって分断されている

ここでぼくらは、「同僚(サンドラ)の救済」と「自分のボーナス」という「どちらか一つ」というゼロサムゲームを仕掛けた側こそ、見つめなければならない。

本来、弱き貧しい個人は手と手をとりあい、連帯しなければならない。1人では勝てっこないのだ。

なのに、弱く貧しい者たちは連帯するどころか、むしろいがみ合って分断されている。その状況を作っているのは、連帯して対抗すべき当のお上(本作でいう社長や主任)だ。

サンドラたちを連帯ではなく分断に向かわせた者たちは、サンドラのストーリーのクライマックスに差し掛かったところでようやく顔を出す。社長がサンドラを社長室に呼び、「社員同士でモメてほしくない」と語るのは、あまりにも滑稽で、まさに「お前が言うな」。

全編、「起きたことをそのまま撮る」というようなハンディカムによる衒いのない絵作り、シンプルな語り口はとても観やすく、テーマ設定も含めて『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)、『家族を想うとき』(2019年)のケン・ローチ監督を思い出した。嫌らしい言い方だが、カンヌ映画祭に好かれているのもよくわかる。

 

ただ一点、「なぜこの会社には労働組合がないのか?」ということだけは身も蓋もない、根本的な疑問だけは残った。

最後にサンドラに対して下された審判とは? そして、それを受けて彼女が下した決断は? ぜひ自分の目で確認してほしい。

 

ラストカットのサンドラの微笑みが印象的だ。実は彼女にとっては何も解決していないんだけどね。

サンドラの週末 [DVD]

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ウエストランドにニューヨーク “まだ売れてないお笑い芸人”YouTubeが魅力的な理由

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お笑い芸人のYouTubeがここ1年ぐらいで激増しているけれど、一口にお笑い芸人のYou Tubeといっても2種類があると思う。「売れている芸人のYouTube」と「まだ売れてない芸人のYouTube」だ。前者と後者でははっきりいって魅力がまるで違う。

 

何かが「売れている芸人のYouTube」にあって、「まだ売れてない芸人のYouTube」に足りないわけではない。事態は全く逆。「まだ売れてない芸人のYouTube」にこそあって、「売れている芸人のYouTube」にないものがある。

それは、お金がないことに対する絶望感と、売れることへの渇望だ。

 

「売れている芸人」にできないことが1つだけある。「売れないこと」だ。マスメディアに出演する枠はある程度決まっており、そこに出られているという時点で成功してしまっている。
以前、批評家の小谷野淳氏が「2ちゃんねる」について、書き込む人間が絶対使わない罵り言葉に「卑怯者」がある、なぜなら全員匿名の卑怯者だからだ、みたいなことを書いていたが、それと同じ構図で、テレビやラジオに出ている時点で「ビンボー自慢」や「売れてない自慢」はできない。そこに出ている時点で成功しているし、そこそこの収入を得ているからだ。

「貧乏話」や「売れてない頃の話」ができたとしても、それは「昔話」であったり、まだ売れてない後輩芸人などの「他人事」という間接的なものであったり、生々しさと切迫感に欠ける。

昔であれば、ラジオがその受け皿だったんじゃないかと思う。誰が聴いているんだというド深夜帯の番組を任されたところからスタートし、徐々にステップアップしていき、夜の10時や深夜1時へと「昇格」、というのが流れだった。最近だとANNの三四郎なんかがそう。

でも、深夜のお笑い芸人枠はここ最近ずーっと同じメンツだし、さらに今はあらたに「売れているYouTuber」という強敵が現れて、「まだ売れていない芸人」の枠がどんどん狭まっている。

 

「売れている芸人のYouTube」は、おもしろくないとまでは言わないけれど、はっきりいえば、テレビやラジオの延長線だ。

 

その点、「まだ売れてない芸人のYouTube」は、テレビやラジオではほとんど流れることがないコンテンツ。とりわけその魅力は、出演者が本音が露出する「フリートーク系」の動画に凝縮される。

 

ここで紹介したいのは、爆笑問題で知られるタイタン所属のお笑いコンビ・ウエストランドYouTubeラジオ「ぶちラジ」だ。

ツッコミの井口、ボケの河本からなるこのコンビ。元嫁と同じ岡山県津山市出身ということだけに興味を持ち、大して期待もせずに聴き始めたのだが、井口のひたすら他罰的で恨みがましいしゃべりと、河本のボケなのにお笑いの才能がないというキャラクターが面白く、最近仕事しながらずっと過去回を聴いている。 

 

M-1で準決勝に進出するなど、そこそこの成績をおさめ、お笑いファンでも知る人は少なくないと言えるのだが、それでも、このランクのお笑い芸人が食べていくのはかなり厳しい。 

そんな2人が自分たちの「貧困」とマジで向き合っているのが、下に貼った2017年配信の#268だ。

 

井口 普通ラジオって、「(TBSラジオ)JUNK」はもちろんのこと、「オールナイトニッポン」とか、2時間普段のことを話されるじゃないですか。

河本 近況報告とかね。

井口 いわゆる近況報告とか。こういう仕事して…海外ロケでこういうことがあった…とか。だいたいそういう話でしょ。あと、プライベートでゴルフ行って…とか。
河本 華々しい私生活。

井口 そのシステムで「ぶちラジ」をやるとなるとんでもない、おどろおどろしい内容になるじゃないですか。

河本 一般の方を下回ってるわけですからね。

井口 それがなかなかないんだよな。普通こういうのって、一般の方より上の水準の話をするわけでしょ。

 

 

 

そんな風に語りだしたこの回は、ツッコミの井口が、手違いで家賃5万円の未払いを犯してしまい、危うく追い出されそうになった、というトラブルの報告から始まる。管理会社の恩情で分割で未払い分を支払うことになったが、翌月の支払いが7万円であるのに対して、その月の給料が6万円だったという絶望的な状況だ。

 

ここから、河本が給料の少なさから夫婦喧嘩をした、などと、およそ「TBSラジオ JUNK」や「オールナイトニッポン」やでは聴くことができない、「正式に終わってる(河本)」リアル底辺ドキュメントがひたすら続く。

そして話はここから「お金がない」というのはただ単に「お金がない」という量的状況だけを指し示しているわけではない、という話題に移っていく。

 

河本 (お金がなくて)マジでイライラするよな。ずっと最近。

井口 イライラするというか何にも考えられないんだよ本当に。一回これぐらいみんななってみ? もう脳の9割9分が「お金がない」という恐怖で、家に入った瞬間震えが止まらないんだよ。それでこういう、「ぶちラジオ」とかお笑いライブで気を紛らわせてるだけですからね。

河本 大きい声出してね

井口 家に帰った瞬間、震えて、どんなに暑い日でも布団にくるまってすごさなきゃいけないわけで。

河本 関節も痛いし

井口 動けなくなって。なんかやりゃあいいんだけどやれなくなって。お金がなかったら動けない。悪循環ですよ。お金があったらもうちょっと動けるんですよ。お金があることにより身体が稼働するんですよ。お金の数ですからね、可動域って(笑)

河本 金持ちはぐにゃんぐにゃん

井口 (笑)

 

途中まで「ザ・ノンフィクション」か何かの貧困ドキュメントですかという空気感で、聴いている側もどんどん気持ちが沈んでいく内容だが、引用の終わりの方で笑いを交えることで、かろうじて「お笑い芸人のYouTube」へと再浮上する。

これぐらい金に切羽詰まっった状況の会話は、テレビやラジオでは聴くことはできないだろう。くどいようだが、テレビやラジオに出ること自体が、こうした貧する悩みから離脱することを意味するのだから。

それがなせるのは、YouTubeという、「まだ売れていないお笑い芸人」に接続できる貴重なメディアだからこそ。

 

お金という直接的な悩み以外にも、「どうすれば売れるか」という課題が、「今そこにある課題」として話し合われるのも、「まだ売れてないお笑い芸人のYouTube」の魅力だ。

iincho.hatenablog.com

 

以前紹介したニューヨークのYouTubeもらまさにそうした魅力にあふれている。昨年の「M‐1」、先日の「キング・オブ・コント」での健闘により、メディア露出が増えつつある彼らだからこそ、バラエティ番組に出演する際などのテクニカルな悩みが自然と話し合われる。「あのときこうすればよかった、ああすればよかった」という、生々しいい悔しさも伝わってくる。

それらを聴くことができるのも、「まだ売れてない芸人のYouTube」ならでは。マスメディアを通しては中々聞けない、

 

長い間、ぼくの耳は「オールナイトニッポン」や「JUNK」に毒され続けていた。今こそ聴くべきは、「まだ売れてない芸人のYouTube」から流れてくる、売れることへの渇望、お金がない事への恨み節なのだ。

人の幸せで自分の欲望を知る

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先月だっただろうか、母親と電話で話していたときに、弟に第2子が生まれたことを知った。「あんた、夕飯の唐揚げは冷蔵庫に入れといたよ」ぐらいのテンションでさらりと言われたものだから、一瞬鼓膜を通った情報の大きさが理解できず、リアクションを取るのに一拍遅れてしまった。

「お嫁さんが第2子を“妊娠した”」、ではなく、「第2子が生まれた」という事後報告だったのが、なんともウチらしいドライさである。

それだけならいいのだけど、つい先週末、関東に住む叔父、叔母とランチしたときのこと。お互いの近況報告などすませたところで、叔父から、弟が家を買ったという話を聞かされた。第2子の件と同様に初耳である。これまた、「来る時、道が混んでてさあ…」ぐらいのテンションで言うものだから面食らってしまった。叔父も「お前、知らんかったんか!?」と驚いていたが。

なぜ母親は、弟の第2子誕生を伝えた電話口で、同時に家を買ったということは伝えなかったのか、それはよく分からない。ぼくへの同情心か何かだろうか。

 

しかし、一連の出来事でぼくが最も驚いていることは、弟の幸福について聞かされて、ぼくの心がまったくザワつかなかったことだ。それはもう富士山がきれいに映る、秋晴れに恵まれた河口湖のよう。波紋一つ広がらない凪である。

そのことに、ぼく自身が一番驚いた。

 

32歳。地方公務員。妻と2人の子どもを持つ。子どもも第1子が娘、第2子が息子と、まさに一姫二太郎で理想的とされる。絵に描いた餅のような人生である。だいぶ人生すごろくは先を行かれてしまった。

それでも、嫉妬することもなければ、羨ましいとも思わなかった。別に、弟と仲が悪いわけではない。たぶん、仲はよくもなければ悪くもなく、ごく普通である。

 

このとき、弟の(一般的には)幸せな状況を知ったことでぼくの中になにも波風が立たなかったのは、端的にいって、そうした幸せがぼくの欲望ではないからだと思った。

 

例えば、ダルビッシュマエケンが同時にサイヤング賞2位になったのに対して、今この文章を読んでいるあなたは悔しがらないだろう。悔しがることができないのだ。悔しがれるのは、マー君など、彼ら2人と同じように海の向こうで切磋琢磨するピッチャーだけだ。

 

以前、同じようなことを書いたかもしれない。

iincho.hatenablog.com

 

あることについて悔しがるには、羨ましがるには、その範疇に自分がいなければならない、ということだ。

 

同じように、ぼくにとっては、子どもを作って家を買うという光景自体が、端的にいって「ほしいもの」ではないのだろう。子どもを持ちたくないという明確な意志があるわけではないし、二度と家なんか買いたくないなどとも思っていない。むしろ、子煩悩で子どもがいたら可愛がる方だろうし、いい家があったらまた買いたい。

でも、それらはぼくにとって「是が非でも叶えたい」一番の欲望ではない。

 

だからといって、それらを叶えた弟をバカにしようだとか、軽蔑しようとは思わない。これから2人の子どもを育てながら、ローンを返していく彼を、素直に偉いなあと思う。彼に対して、嫉妬だとかコンプレックスといった湿っぽい情念などは微塵も持たない、ということだ。少し変な言い方になるが、「主観的には全く心を動かされないからこそ、客観的に偉いと言える」というか。

 

人が持っているモノを直視することで、自分についてより理解できることがあるのかもしれない、と思った。人の幸せを直視することで、自分の欲望を棚卸しできるのではないか、ということだ。ぼくは、弟が“2児のマイホームパパ”になってくれた(?)ことで、ぼく自身はそれになりたいわけではないことが明確に分かった。

 

しかし、弟がどんどんすごろくの駒を進めていくことに、自分の心が凪であることは本当にいいことなのかはよく分からない。ぼくはその凪の中に浮かぶボートに乗って、立ち往生しているだけなのかもしれない。迷走である。

 

ちなみに、ここ数年で、ぼくが人に対して一番嫉妬したこと、一番羨ましがったことは何か、考えてみたら、一つだけあった。

友達がテレビ東京の『家、ついて行ってイイですか?』の取材を受けたという話を聞いた時、ぼくの心の中は伊勢湾台風並にザワめきまくった。嫉妬に震えるとはこのことだ、とその時思ったし、心の底から羨ましいと思った。残念ながらオンエアはされなかったようだけれど、もし、オンエアまでされていたら、嫉妬に狂って死んでいたと思う。

やはり、ぼくの人生は迷走しているのかもしれない。

なぜ『バチェロレッテ・ジャパン』の結末は分断を生むのか

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ここ数週間でSNSに狂乱の渦を巻き起こしていた恋愛リアリティーショー『バチェロレッテ・ジャパン』がついに先週末、終幕を迎えた。

その結末、つまりヒロインの福田萌子さんの下した「決断」について、感動している人がいれば、モヤモヤしている人もいる。

個人的には「モヤモヤ」派だが、今回はこの「萌子の決断に感動している人」と「モヤモヤしている人」と分断について考えてみたいと思う。

以下、完全にネタバレでつづっていくのでご注意。

 

真っ直ぐな物言い&自分にウソをつかない決断 女性を味方につけていった強い女・萌子

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ハイスペ男子が20数人の女性陣と旅を共にし、最終的にたった1人の妻候補を選びぬくまでを追いかける恋愛リアリティーショー『バチェラー・ジャパン』。

 

その女性版である『バチェロレッテ』の第1弾である今回は、本当にバチェロレッテのキャスティングに恵まれたシリーズだった。今作は萌子さんの属人的な魅力で引っ張っていったようなものだと思う。

全17人の男性陣と真剣に向き合い、対話し、残す(落とす)男性陣を決めていく。萌子は疑問に思ったことは男性に率直に尋ね、空気に飲まれて判断をにごすこともない。しかし、かといって、男性陣への優しさにもあふれ、ときに相手の成長するきっかけさえ促す。

 

これまでの『バチェラー・ジャパン』は、どうしても男性の個人的な「好み」に左右されて、不可解に見える判断がくだされる場面も少なくはなかった。「まじかよ!? どう見てもこの子は残すべきでしょ(落とすべきでしょ)」「最初からこの子がタイプで、この子を最後まで残すって決まっていたのでは?」というツッコミどころもあった。

ただ、そうした第三者の預かり知らない嗜好性、いわゆる「惚れた弱み」というやつが恋愛につきものであり、第三者がとやかくいってもしかたないのである。そして、そのツッコミどころも含めて『バチェラー・ジャパン』の面白みなのだと思っていた。

しかし、今回の『バチェロレッテ』によって、ぼくらはまた別の楽しみ方があることを身をもって味わう。萌子の決断には、「ああ、やっぱりこの男は残るのね(落ちるのね)」という「納得感」があり、その「納得感」がある種の「心地よさ」を伴っていた。

 

SNSを観察していると、今回の『バチェロレッテ』は、回を追うごとに番組のファンというより前に、「萌子ファン」「萌子推し」と呼べる層が、雪だるま式に増えていったような感覚がある。

そのような「萌子推し」の人々からすれば、彼女の最後の決断、つまり悩みに悩んだ末に、誰も選ばないという答えは、支持するほかないものとなる。それはこれまでのエピソードで形成された、「空気に流されず、自己決定、自己決断をする女性」という萌子像をより一層強くするものだからだ。

 

“コンテンツ”として観ていれば「何じゃそれ」

一方で、「モヤモヤしている層」がいるというのもたしかだ。

ぼくをはじめとする「モヤモヤ」している層は、おそらおく、この番組を「恋愛リアリティーショー」という「コンテンツ」として楽しんでいるのだ。

毎回出場者が脱落していき、最後に残った2人から、ついに生涯の伴侶候補が選ばれる…ーーよくよく考えてみたら、1エピソード約1時間ほど、赤の他人の惚れた腫れたに一定の興味をもちつづけられるのは、最後に待っているこの「オール・オア・ナッシング」のシステムの賜物だ。その総決算として、「さあ、いよいよ、最後の1人が決まる」というのが最終回の関心事だったはず。

そのように、「コンテンツ」として(あえていえば)「正統」な見方をしてきた人たちからすれば、その結末で「結局誰も選びませんでした」は、吉本新喜劇並にずっこけたくなる展開であるし、「なんじゃそれ」なのだ。

ちなみに、萌子さんには“前科”がある。ファイナルの2つ前のエピソードでは、ある2人の男性参加者のうち、1人を落とさなければならない、という場面が発生する。視聴者らは固唾を呑んで、どちらが落とされるのかを見守っていたが、ここでも萌子は「選べない」として落とすこと自体を拒絶。『バチェラー・ジャパン』も含めて、まさに前代未聞の展開だった。


もちろん、「萌子推し」の人々からすれば、「いやいや、結婚相手はその人自身が決めることで、真剣に悩んだ末に選べないならしかたないじゃないか」という、至極まっとうな反論が、「コンテンツとして見ている派」には投げかけられると思われる。

それはごもっともなのだが、これが「恋愛リアリティーショー」という「人生の一部を切り売りすることを出演者が了承している前提のコンテンツ」であるならば、話が少し変わってくるのではないか。

また、別に番組上で結ばれたといっても、必ずしも結婚しなくてもいいのである。事実、『バチェラー・ジャパン』で生まれたカップル3組で、結婚までいったのは1組。1/3の確率である。選ぶことが必ずしも結婚につながるわけではない

 

萌子の決断への賛否。それは、あの決断を萌子に寄り添って見てきたか、あるいは、客観的な「コンテンツ」として見てきたか、その違いなのだ。

 

でも「行き遅れ」批判はNG

ただ、これより一歩踏み込んで、SNS上では全ての男性を振った萌子への属人的な批判、というか誹謗中傷、つまり、「理想ばかりが高くて適齢期に行き遅れた痛いアラサー」という批判が始まっており、これはいただけない。

中には、『バチェロレッテ』本編にお母さん以外はほとんど出演しなかった萌子さんの家族との関係性を憶測で分析し、まるで萌子さんのパーソナリティに人間的な欠損があるかのような「分析」をする文章も出回っている。

もはやそれは怪文書のレベルなのだが、SNS上ではそれを取り上げ「的確」「鋭い」と、まるでそれが「正しい」かのように褒めそやし、その信憑性を補強する手に負えない愚か者が出てきている始末。こうした人達はつい半年前にリアリティーショーに人が殺されたことを忘れているのかもしれない。

逆に言えば、こうしたしょーもない、属人的な批判、誹謗中傷に対してこそ「それは萌子の勝手だろ」「大きなお世話」で一蹴できるのである。

「石原さとみの結婚相手は一般人であってはならぬ」という“大いなる意思”

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石原さとみの配偶者について報じるネットメディアの一例

石原さとみに対してそんなに思い入れがないため、彼女の結婚のニュースを聞いた際にも「今年はサンマが高値 回遊少なく」みたいなニュースと同じで、「ふーん」ぐらいの感想だった。

そんな事はいいとして、こういうニュースで注目されるのはお相手で、それがいわゆる「一般人」と紹介される場合、今回のようにゴニョゴニョと世の中がうごめいている。

 

石原さとみ(33)一般男性との結婚を発表|日テレNEWS24

 

石原さとみ電撃婚のお相手は “普通の会社員”、大女優が見せた “庶民的” な顔 | 週刊女性PRIME

 

当初は相手が「一般人」ということだったが、相手が大手米証券会社ゴールドマン・サックスの社員だという報道が出てから(この真偽は不明)、潮目が変わる。

 

石原さとみの結婚相手「GS社員」は「一般男性」なのか (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト

 

石原さとみ 結婚相手は「年収2000万円はあるエリート」|NEWSポストセブン

 

石原さとみ、エリート夫との出会いは連日開催していた「ハイスペック合コン」 | 週刊女性PRIME

 

石原さとみ、東大卒の夫が「複数の不動産所持」「モデルの過去」を暴かれた舞台裏 | 週刊女性PRIME

 

「一般人」「普通の会社員」「庶民的」といった表現はどこへやら。

各メディアが「石原さとみの夫」というキャンバスに、好き勝手にたくましい妄想を描き続けている。

 

VIPの結婚が報じられる度に出てくる「一般人」について、今回のように、必ずといっていいほど疑義が挟まれる。公人ではないとはいえ、いいところの坊っちゃんなんじゃないか。政治家やVIPの子息じゃないか。高給取りのスーパーサラリーマンじゃないか。

 

性別が逆転しても同じだ。男性芸能人が結婚し、相手が「一般女性」と報道されるや否や、ネットの私立探偵たちが調査を開始。終いには「プロ彼女」という新たな概念まで案出され、「一般人とはちょっとちがう枠」が設けられてしまう。

 

まるで、人気有名人の配偶者が「一般人であってはならない」という「大いなる意思」を、世論から感じてしまうほどだ。

 

しかし、こうした「大いなる意志」は、はたして、有名人へのやっかみであったり、格差社会、実は依然として存在する日本の階級社会への批判的な目線なのだろうか。

 

ぼくはそうではないと感じる。

むしろ逆だ。社会の側から、「石原さとみの伴侶が一般人であってほしくない!」という悲痛な叫びのようなものが聞こえる。すっぱい葡萄ではないが、世の中の男性みんなが「石原さとみが“一般人”なんかに振り向くはずがない! いや、振り向いてほしくない!」と思っているんじゃないだろうか。

 

どうして「石原さとみの伴侶が一般人であってもらっては困るのか」というと、もし、「一般人」を選んだとするならば、石原さとみの相手はぼくでも、そしてあなたでもよかった、ということになってしまうからだ。

でも、そうではなかった。当たり前ながら、石原はぼくも、あなたも選ばなかった。

 

ぼくらは、さまざまなステータスの集合体だ。「容姿」「年齢」「出身地」「年収」に「業界」「業種」、その他の数え切れないほどの変数の集合が「ぼく」だ。

 

もし、石原さとみが「ゴールドマン・サックスの社員だから」その相手を伴侶に選んだとしよう。あくまで仮定での話だ。

 

そうなると、「ああ、相手はGS社員だもんな。そりゃ仕方ないよ」と諦めがつくのである。「高収入」「安定性」といったタグで選ばれたなら仕方ないではないか、と納得がいく。容姿や身長、出身地など、自分にはどうにもできない変数。収入など、すぐには変えられない変数。それらが決め手ならば、石原に選ばれなくても仕方がない。

 

 

ところがもし、彼女の相手が無印の、ただの、本当の意味で「一般人」であったとすれば。そのとき、ぼくらはむき出しの、「人間としての魅力」=モテ力にさらされていることになる。

 

ぼくらと大して変わらない容姿、大して変わらない年収の男が、石原さとみの伴侶に選ばれたとき。そのとき、ぼくらは、自分の「人間としての魅力」で、その伴侶に劣っていることをまざまざと見せつけられたことになる。

 

「ガール・ネクスト・ドア」という言葉がある。泣かず飛ばずだった音楽ユニットのことではない。「隣の家に住んでいるような普通の人」、転じて「庶民的な女の子」という英熟語だ。

 

もし、彼女の伴侶が「ボーイ・ネクスト・ドア」ならば、われわれの「人間としての魅力」で敗北したことをまざまざと見せつけられることになる。もし、本当の一般人であるならば、われわれの「敗北」が白日のもとに晒されてしまう。

 

そこは、「向こうはゴリゴリのJ1のトップチーム、こっちは草サッカーなんで、対戦すらしてませんよ」とシラを切らなければならない。だからこそ、セレブリティの結婚報道のたび、「一般人であってはならぬ」という社会的な圧力がかかるのでないか、とぼくは思っている。ぼくらは、有名芸能人が一般人と結婚するたび、「向こうはJ1、向こうはJ1」と自分に必死に言い聞かせている状態なのだ。

 

ただし、シングルの人に対して、この話には悲しいオチがある。

相手がVIPであろうとなかろうと関係ない。恋人や配偶者がいないかぎりは、どちらにせよ、あなたが「人間としての魅力」=モテ力に乏しいか、あるいはまだ誰にもその魅力が見つかっていない、という事実だけは残る。それだけは、石原さとみの相手が一般人であろうとなかろうと関係ないのだ。