いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

なぜ『バチェロレッテ・ジャパン』の結末は分断を生むのか

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ここ数週間でSNSに狂乱の渦を巻き起こしていた恋愛リアリティーショー『バチェロレッテ・ジャパン』がついに先週末、終幕を迎えた。

その結末、つまりヒロインの福田萌子さんの下した「決断」について、感動している人がいれば、モヤモヤしている人もいる。

個人的には「モヤモヤ」派だが、今回はこの「萌子の決断に感動している人」と「モヤモヤしている人」と分断について考えてみたいと思う。

以下、完全にネタバレでつづっていくのでご注意。

 

真っ直ぐな物言い&自分にウソをつかない決断 女性を味方につけていった強い女・萌子

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ハイスペ男子が20数人の女性陣と旅を共にし、最終的にたった1人の妻候補を選びぬくまでを追いかける恋愛リアリティーショー『バチェラー・ジャパン』。

 

その女性版である『バチェロレッテ』の第1弾である今回は、本当にバチェロレッテのキャスティングに恵まれたシリーズだった。今作は萌子さんの属人的な魅力で引っ張っていったようなものだと思う。

全17人の男性陣と真剣に向き合い、対話し、残す(落とす)男性陣を決めていく。萌子は疑問に思ったことは男性に率直に尋ね、空気に飲まれて判断をにごすこともない。しかし、かといって、男性陣への優しさにもあふれ、ときに相手の成長するきっかけさえ促す。

 

これまでの『バチェラー・ジャパン』は、どうしても男性の個人的な「好み」に左右されて、不可解に見える判断がくだされる場面も少なくはなかった。「まじかよ!? どう見てもこの子は残すべきでしょ(落とすべきでしょ)」「最初からこの子がタイプで、この子を最後まで残すって決まっていたのでは?」というツッコミどころもあった。

ただ、そうした第三者の預かり知らない嗜好性、いわゆる「惚れた弱み」というやつが恋愛につきものであり、第三者がとやかくいってもしかたないのである。そして、そのツッコミどころも含めて『バチェラー・ジャパン』の面白みなのだと思っていた。

しかし、今回の『バチェロレッテ』によって、ぼくらはまた別の楽しみ方があることを身をもって味わう。萌子の決断には、「ああ、やっぱりこの男は残るのね(落ちるのね)」という「納得感」があり、その「納得感」がある種の「心地よさ」を伴っていた。

 

SNSを観察していると、今回の『バチェロレッテ』は、回を追うごとに番組のファンというより前に、「萌子ファン」「萌子推し」と呼べる層が、雪だるま式に増えていったような感覚がある。

そのような「萌子推し」の人々からすれば、彼女の最後の決断、つまり悩みに悩んだ末に、誰も選ばないという答えは、支持するほかないものとなる。それはこれまでのエピソードで形成された、「空気に流されず、自己決定、自己決断をする女性」という萌子像をより一層強くするものだからだ。

 

“コンテンツ”として観ていれば「何じゃそれ」

一方で、「モヤモヤしている層」がいるというのもたしかだ。

ぼくをはじめとする「モヤモヤ」している層は、おそらおく、この番組を「恋愛リアリティーショー」という「コンテンツ」として楽しんでいるのだ。

毎回出場者が脱落していき、最後に残った2人から、ついに生涯の伴侶候補が選ばれる…ーーよくよく考えてみたら、1エピソード約1時間ほど、赤の他人の惚れた腫れたに一定の興味をもちつづけられるのは、最後に待っているこの「オール・オア・ナッシング」のシステムの賜物だ。その総決算として、「さあ、いよいよ、最後の1人が決まる」というのが最終回の関心事だったはず。

そのように、「コンテンツ」として(あえていえば)「正統」な見方をしてきた人たちからすれば、その結末で「結局誰も選びませんでした」は、吉本新喜劇並にずっこけたくなる展開であるし、「なんじゃそれ」なのだ。

ちなみに、萌子さんには“前科”がある。ファイナルの2つ前のエピソードでは、ある2人の男性参加者のうち、1人を落とさなければならない、という場面が発生する。視聴者らは固唾を呑んで、どちらが落とされるのかを見守っていたが、ここでも萌子は「選べない」として落とすこと自体を拒絶。『バチェラー・ジャパン』も含めて、まさに前代未聞の展開だった。


もちろん、「萌子推し」の人々からすれば、「いやいや、結婚相手はその人自身が決めることで、真剣に悩んだ末に選べないならしかたないじゃないか」という、至極まっとうな反論が、「コンテンツとして見ている派」には投げかけられると思われる。

それはごもっともなのだが、これが「恋愛リアリティーショー」という「人生の一部を切り売りすることを出演者が了承している前提のコンテンツ」であるならば、話が少し変わってくるのではないか。

また、別に番組上で結ばれたといっても、必ずしも結婚しなくてもいいのである。事実、『バチェラー・ジャパン』で生まれたカップル3組で、結婚までいったのは1組。1/3の確率である。選ぶことが必ずしも結婚につながるわけではない

 

萌子の決断への賛否。それは、あの決断を萌子に寄り添って見てきたか、あるいは、客観的な「コンテンツ」として見てきたか、その違いなのだ。

 

でも「行き遅れ」批判はNG

ただ、これより一歩踏み込んで、SNS上では全ての男性を振った萌子への属人的な批判、というか誹謗中傷、つまり、「理想ばかりが高くて適齢期に行き遅れた痛いアラサー」という批判が始まっており、これはいただけない。

中には、『バチェロレッテ』本編にお母さん以外はほとんど出演しなかった萌子さんの家族との関係性を憶測で分析し、まるで萌子さんのパーソナリティに人間的な欠損があるかのような「分析」をする文章も出回っている。

もはやそれは怪文書のレベルなのだが、SNS上ではそれを取り上げ「的確」「鋭い」と、まるでそれが「正しい」かのように褒めそやし、その信憑性を補強する手に負えない愚か者が出てきている始末。こうした人達はつい半年前にリアリティーショーに人が殺されたことを忘れているのかもしれない。

逆に言えば、こうしたしょーもない、属人的な批判、誹謗中傷に対してこそ「それは萌子の勝手だろ」「大きなお世話」で一蹴できるのである。