いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「常連客」になる才能がない

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会社帰りに家の近くで行ってみたかったお店に3軒に立て続けに満席を理由に断られ、仕方ないとはいえ流石にテンションが下げながら松屋に流れ着く。今トンテキ定食を食べているところである。

みんなの食卓でありたい松屋である。なかなかの大風呂敷を広げたコピーだけど、いい線をいっていると思う。

松屋に入ってみて思ったけれど、チェーン店が繁盛しているのは必然だと思う。個人店3軒に断られた直後だということもあるけど、快適だ。その快適さはどこからくるのかというと、徹底した客への「無関心」だと思う。

松屋の店内では「サービス向上に努めております」と録音した女性の声が延々流れているけど、そんなことしなくていい。むしろ、今のままでいい。放置されたい。向上すんな。個人店にないチェーン店の魅力は、客が徹底的に個体性を剥奪されているところだ。

もう38になったが、いまだに初めての個人店を訪れるのは緊張する。あれは、チェーン店と逆に1人の人間、個体として識別されることへの緊張感なんだと思う。とくに、バイト募集などの張り紙で「人材」ではなく「人財」などと書く、「いらっしゃいませ」の声が大きい個人店はだいぶストレスを要する。

一方、松屋なんて最近ではタッチパネルが導入されたことでさらに「無関心」が加速し、文字通り客が番号で呼ばれるようになってきている(正しくは番号で呼ばれているのは持っている食券の方だけど)。あれがよくない、のではない。あれぐらい放って置かれる方が居心地がいいのだ。

 

有名な「燃料補給のような食事」という絵画がある。飲食店と思しきカウンターで、画一的な表情の店員が、自動車にガソリンをつぐような器具で客の口に食事を注いでいるような光景を描いた絵だ。作者の真意はわからないけど、飲食チェーンに対してのかなり否定的なニュアンスが伝わってくる。けれど、僕は、「そういう画一的な扱いを受ける方が居心地がいい人だっているんだよ」と反論したい。

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人間、38歳にもなると、自分について分かったことがある。「常連客」には向いていないということだ。

少し前までは、近所に行きつけの店を作って、あわよくばそこの「常連客」になりたいというスケベ根性がまだあった。入ったら「ああ、今日はちょっと早いね」なんてマスターに言われる、そういうコミュニケーションが発生するような「常連客」、いいじゃない。

でもね。だめなのよ。いくら同じ店に通っても「常連客」に自分はなれない。せいぜい「よく来る人」止まり。

なぜなのか。最近気づいたのは、それは相手の問題ではないということ。「常連客になりたい」とは言いつつも、実は「放っておかれたい」「放置されたい」というオーラを放っていたのだろうと思う。誰が悪いということではなく、自分に「常連客」になる才能がなかったのだ。なれないことをするもんじゃない。

 

今後も個人店は行く。おいしい店が多いからね。でも、「常連客」になることは諦めた。

ところで、松屋の期間限定のトンテキは本当にうまい。帰路で、これまたチェーンのコンビニ・ファミマでスイーツを買って帰る。これまたうまかった。

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