- 作者: 菅付雅信
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/02/26
- メディア: 新書
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TwitterやFacebookといったソーシャルメディアの普及によって、“物理的には”初対面の間柄でも、認識的には初対面ではないという間柄が増えた。会うより先にネット上での振る舞いをつうじ、互いにどんな人となりかを理解した(気になった)上で会うようになってきているからだ。
本書のいう「中身化」とは、まさにそうした「ソーシャルメディアの爆発的な普及にともなって急激に進む『個人と集団の可視化』」(p.146)を指す。もはや後戻りできないというそうした社会をいかにして生きるか、という提言の書だ。
第1章と第2章では、主に欧米の識者、当事者の見解や著者自身による現地取材をもとに、ソーシャルメディアによる「中身化」で、外見の優先度が低下しつつある現状を示唆し、イメージ(外見)ではなく、本質的な言葉が重視される消費、行動などの文化的潮流を紹介する。
その上で第3章から、日本でも広がる「中身化」の流れと、そうした社会でいかにして生きていくか、という方策を練る。
新書レベルにそこまで求めるなという話かもしれないが、どうも「中身化」という言葉の使われ方があいまいで、イライラさせられる。
芸能人がその行動を無断で他人にソーシャル上に書かれることと、ユーザー本人が好き勝手に自分のことを書きたてるのは大きく違う。でも本書はそれを、一緒くたに「中身化」とラッピングしている。
「中身化」という表現そのものにも誤解を与える要素があり、本書を総合すると「中身化」というのはその人の「内心」というより、ソーシャル上で見えるその人の一部分でしかない。
しかも、それは「中身化」には程遠い。たとえば、Facebookをみてみよ。あれだけ虚飾にまみれたメディアもないだろう。みんなが自分のみられたい自分を着飾り、「中身」なんてどこにもありゃしない。「いかに自分をよく見せるか」というセルフブランディング()合戦である。そのどこが「中身」なんだ。
とくに終盤は、梅田望夫的なネットあげ↑あげ↑文体(個人的には「開国ぜよ!」文体と読んでいる)がキツいが、そんな風に画一的なネットの使い方を決めてしまう方が、欧米で始まっているという「(イメージでなく)本質の競争」と同じくらい、窮屈にみえてしまうのである。
そもそも、「中身化」はネットの使い方の問題にすぎず、使うにしてもROM専(読むだけ)という方法があるし、書くにしても自分について書かなければいいだけの話で、最悪ネットから離れればいいのである。そのどこに、「人生の作品化」などと息巻く必要があるのだろうか。
著者はインターネットのやりすぎである。