いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

「石原さとみの結婚相手は一般人であってはならぬ」という“大いなる意思”

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石原さとみの配偶者について報じるネットメディアの一例

石原さとみに対してそんなに思い入れがないため、彼女の結婚のニュースを聞いた際にも「今年はサンマが高値 回遊少なく」みたいなニュースと同じで、「ふーん」ぐらいの感想だった。

そんな事はいいとして、こういうニュースで注目されるのはお相手で、それがいわゆる「一般人」と紹介される場合、今回のようにゴニョゴニョと世の中がうごめいている。

 

石原さとみ(33)一般男性との結婚を発表|日テレNEWS24

 

石原さとみ電撃婚のお相手は “普通の会社員”、大女優が見せた “庶民的” な顔 | 週刊女性PRIME

 

当初は相手が「一般人」ということだったが、相手が大手米証券会社ゴールドマン・サックスの社員だという報道が出てから(この真偽は不明)、潮目が変わる。

 

石原さとみの結婚相手「GS社員」は「一般男性」なのか (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト

 

石原さとみ 結婚相手は「年収2000万円はあるエリート」|NEWSポストセブン

 

石原さとみ、エリート夫との出会いは連日開催していた「ハイスペック合コン」 | 週刊女性PRIME

 

石原さとみ、東大卒の夫が「複数の不動産所持」「モデルの過去」を暴かれた舞台裏 | 週刊女性PRIME

 

「一般人」「普通の会社員」「庶民的」といった表現はどこへやら。

各メディアが「石原さとみの夫」というキャンバスに、好き勝手にたくましい妄想を描き続けている。

 

VIPの結婚が報じられる度に出てくる「一般人」について、今回のように、必ずといっていいほど疑義が挟まれる。公人ではないとはいえ、いいところの坊っちゃんなんじゃないか。政治家やVIPの子息じゃないか。高給取りのスーパーサラリーマンじゃないか。

 

性別が逆転しても同じだ。男性芸能人が結婚し、相手が「一般女性」と報道されるや否や、ネットの私立探偵たちが調査を開始。終いには「プロ彼女」という新たな概念まで案出され、「一般人とはちょっとちがう枠」が設けられてしまう。

 

まるで、人気有名人の配偶者が「一般人であってはならない」という「大いなる意思」を、世論から感じてしまうほどだ。

 

しかし、こうした「大いなる意志」は、はたして、有名人へのやっかみであったり、格差社会、実は依然として存在する日本の階級社会への批判的な目線なのだろうか。

 

ぼくはそうではないと感じる。

むしろ逆だ。社会の側から、「石原さとみの伴侶が一般人であってほしくない!」という悲痛な叫びのようなものが聞こえる。すっぱい葡萄ではないが、世の中の男性みんなが「石原さとみが“一般人”なんかに振り向くはずがない! いや、振り向いてほしくない!」と思っているんじゃないだろうか。

 

どうして「石原さとみの伴侶が一般人であってもらっては困るのか」というと、もし、「一般人」を選んだとするならば、石原さとみの相手はぼくでも、そしてあなたでもよかった、ということになってしまうからだ。

でも、そうではなかった。当たり前ながら、石原はぼくも、あなたも選ばなかった。

 

ぼくらは、さまざまなステータスの集合体だ。「容姿」「年齢」「出身地」「年収」に「業界」「業種」、その他の数え切れないほどの変数の集合が「ぼく」だ。

 

もし、石原さとみが「ゴールドマン・サックスの社員だから」その相手を伴侶に選んだとしよう。あくまで仮定での話だ。

 

そうなると、「ああ、相手はGS社員だもんな。そりゃ仕方ないよ」と諦めがつくのである。「高収入」「安定性」といったタグで選ばれたなら仕方ないではないか、と納得がいく。容姿や身長、出身地など、自分にはどうにもできない変数。収入など、すぐには変えられない変数。それらが決め手ならば、石原に選ばれなくても仕方がない。

 

 

ところがもし、彼女の相手が無印の、ただの、本当の意味で「一般人」であったとすれば。そのとき、ぼくらはむき出しの、「人間としての魅力」=モテ力にさらされていることになる。

 

ぼくらと大して変わらない容姿、大して変わらない年収の男が、石原さとみの伴侶に選ばれたとき。そのとき、ぼくらは、自分の「人間としての魅力」で、その伴侶に劣っていることをまざまざと見せつけられたことになる。

 

「ガール・ネクスト・ドア」という言葉がある。泣かず飛ばずだった音楽ユニットのことではない。「隣の家に住んでいるような普通の人」、転じて「庶民的な女の子」という英熟語だ。

 

もし、彼女の伴侶が「ボーイ・ネクスト・ドア」ならば、われわれの「人間としての魅力」で敗北したことをまざまざと見せつけられることになる。もし、本当の一般人であるならば、われわれの「敗北」が白日のもとに晒されてしまう。

 

そこは、「向こうはゴリゴリのJ1のトップチーム、こっちは草サッカーなんで、対戦すらしてませんよ」とシラを切らなければならない。だからこそ、セレブリティの結婚報道のたび、「一般人であってはならぬ」という社会的な圧力がかかるのでないか、とぼくは思っている。ぼくらは、有名芸能人が一般人と結婚するたび、「向こうはJ1、向こうはJ1」と自分に必死に言い聞かせている状態なのだ。

 

ただし、シングルの人に対して、この話には悲しいオチがある。

相手がVIPであろうとなかろうと関係ない。恋人や配偶者がいないかぎりは、どちらにせよ、あなたが「人間としての魅力」=モテ力に乏しいか、あるいはまだ誰にもその魅力が見つかっていない、という事実だけは残る。それだけは、石原さとみの相手が一般人であろうとなかろうと関係ないのだ。

「片方しかない靴下」が捨てられない!

先日、引っ越した際に整理したら、片方しかない靴下の多さに自分のことが嫌になってきた。

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捨てられない片方だけの靴下たち。特に真ん中のあいつ


もともと物を捨てられない性格なんだけど、特に、片方の靴下という存在にはめちゃくちゃ弱い。

片方だけの靴下に比べたら、男としてのプライドとか、会社への忠誠心とか、大人としての節度なんてポイポイ捨てられるもんだ。

それぐらい、片方しかない靴下はぼくにとって捨てるのが大変な難物だ。


靴下としての機能、輪郭ははっきりと保ちながら、相方と別れてしまったばっかりにその存在意義を失ったかわいそうな者たち。ああ無情。


引っ越すときに洗濯機を動かすので、そのときに大量の「失踪者」たちが洗濯機の裏から出てきて、離散カップルが大量に「再婚」してくれるのではと期待した。

けれど、洗濯機の裏からは新しい「片方だけの靴下」が大量に出てきただけで、結果「片方しかない靴下」がさらに増えてしまっただけだった。


うちの靴下の棚の中は、もはや使えるペアの靴下より、片方だけの靴下の方が2倍も3倍も多いぐらいだ。

 

どうして片方しかなくなった靴下を捨てられないのか。それは、ぼくの中にいる島田紳助師匠のせいだと自分では睨んでいる。


捨てられないとは言っても、たまには、本当に本当に断腸の思いで片方だけの靴下を捨ててしまおうと決心することもある。


ゴミ箱の前まで靴下を持っていくのだが、すると、ぼくの心の中の紳助師匠が完熟マンゴーを片手にやって来て、鼻をクンクン鳴らしながら「生まれてきたときから一緒で、最後まで添い遂げる靴下のペア、めっちゃ素敵ヤン?」と一言言って、去っていく。ゴミ箱に靴下を落とそうとしていたぼくは、そこで思い留まり、靴下を摘んだ手を引っ込めてしまうのだ。


本当にたまに、「失踪者」が見つかってしまうことがあるだけに、捨てられないというところもある。

 

長い間ペアを作れなかった靴下を「再婚」させられたときのスッキリする気持ちは無上だ。


そういうときも心のなかに紳助師匠がやってきて目に涙をためながら、「我々スタッフ一生懸命、一生懸命探しました。靴下さんの相方さん…見つかりましたよ」。


反対に、もしも、もう見つからないと思って「片方だけの靴下」を捨ててしまっていたら…当然、もう片方が見つかっても再婚は果たせない。


「もし、いつか相方が見つかってしまったらどうしよう」。その不安から、片方だけの靴下を捨てられない。

 


片方だけの靴下が多すぎることに頭を抱えていたとき、女の子から「もういっそ、靴下を全部黒に揃えればいいじゃない」と提案されたことがある。


なるほど、名案だと思った。片方しか見当たらなくても、黒同士ならもともとのペアではなくても、他人から見て変には見えない、そう、「仮面夫婦」ができる。これはうまくいくと思った。

 

それ以降、靴下を買うときはとにかく黒で揃えた。何かなんでも黒。

しかし、黒の靴下ばかりがそこそこ増えてきた頃、ぼくの目論見がとんでもなく浅はかであったことが露呈する。


同じ黒の靴下でも、メーカーが違えば、細部は変わってくる。例えば色にしても、黒っぽい黒があれぼ、青みがかった黒や、薄い黒もある。生地のざらつき感にも特徴があるし、厚みが違ったら左右の履き心地は微妙に違がう。


つまり、同じ黒で合わせるだけでは意味がない。やっぱり、同じときに買った同じ靴下でなければ意味がなかったのだ。

 

黒が激増したおかげで靴下の「再会事業」はそれまでベリーハードモードだったのが、エクストリーム・ハードモードにランクアップした。それまでは見た目ですぐに同じか違うかがわかっていたのが、似たような黒の靴下の山から、似ていそうなものを目を凝らして、「これとこれが、ペア…なのか?」としなければならなくなったのだ。もはや元彼と似たような年収、年齢、職業の男に言い寄られてるけど、元彼が忘れられずシングルの婚活アラサー女子状態である。

 

「ちょっと色は違うけど、これぐらいならペアにしていいか…」と、本来は別々の黒靴下で「仮面夫婦」を作りたくなる誘惑にかられることもある。

けれど、そういうとき、ぼくの中の紳助師匠がやってきて「最後まで添い遂げる靴下のペア、めっちゃ素敵ヤン?」と諭すのだ、いつもより強めに、ぼくを威圧するように鼻を鳴らしながら。


片方だけの靴下を再会させてあげたい。だから捨てられない。こういう性格なもんだから『ニュー・シネマ・パラダイス』も『マディソン郡の橋』も『ラ・ラ・ランド』も好きなのだが、映画のカップルたちは別れても、ぼくの家の靴下たちは全部、運命の相手と添い遂げてほしいものである。

 

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岸部四郎を追悼 『ガキ使』“落とし穴回”を説明する東スポにモニョッたので訂正してみる

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岸部四郎が亡くなった。

もうずい分前からメディアで見ていないので「過去の人」といえばそれまでなのだが、それでも一抹の寂しさを感じてしまうのは、『ガキの使いやあらへんで』での通称「落とし穴回」が脳裏にあるからだろう。ぼくにとって岸部さんといえば、これなのだ。

借金で首が回らなくなり、自己破産。メディアの表舞台から姿を消した当時の岸部さんが「元金持ち」という絶妙な鼻持ちのならなさ、セコさを武器にプチ復活していたのも、この回があったからこそといっても過言でもない。『ガキ使』とダウンタウンが岸部さんを「再定義」したのである。

 

ぼくだけではない。ツイッターで「岸部四郎 ガキ使」あるいは「岸部四郎 落とし穴」と検索すれば、無数のツイートがあることからも、「落とし穴回」が多くの人にインパクトを残していたことがうかがえる。ソフト化されておらず、現在、正規のルートでは視聴することができない18年前も前に放送された映像が、である。

 

そんな中、東京スポーツがこの『ガキ使』の「落とし穴回」について好意的に紹介する記事をアップロードしていた。

好意的ではあるのだが…その記述が、絶妙に絶妙に、スポーツ紙にありがちなバラエティの誤読というか、絶妙にモニョモニョする、背中がくすぐったくなるような「ミスリード」をしているのである。

 

この記述を読むだけでは、あの名作「落とし穴回」がサブくなってしまう。その危機感から、ここに訂正する記事を上げておきたい。

お笑いを解説するほうがサブいのでは? という指摘はごもっともで、これを書く時点でぼくも「サブい」のである。しかし、自分のサブさを犠牲にしてでも、これは訂正しておかなければなるまい、という「使命感」から下記を記しておきたい。以下、お笑いオタクがすさまじい早口で話していると脳内で想像しながら読んでもらいたい。

 

東スポは下記のようにこの企画を説明している。

 なかでも2002年放送の日本テレビ系「ダウンタウンガキの使いやあらへんで」の〝ドッキリ企画〟は「神回」との呼び声も高い。

 これはウソ企画で呼び出された岸部さんが、行く先々で落とし穴にハマっていくというもの。計4度も落とされた岸部さんは次第に壊れていき「俺を誰や思うてんねん! 元金持ちやぞ!」「もう、カネしかないなあ!」などと名言を連発。最後はロケバスの中でプロデューサーとギャラ交渉するのだが、あのダウンタウンの2人が笑いをこらえるのに必死なほど、〝笑いの神〟を身に宿していた。

 

まず、この回の説明で使われている「ドッキリ企画」「ウソ企画」といったワーディングが、この書き手の理解を根本的に疑わざるを得ない。

 

番組では「ドッキリ」などという説明は一度も説明していない。別に、『ガキ使』メンバーのダウンタウン、ココリコ、山崎邦正(現・月亭方正)は岸部さんをドッキリで落とし穴に落とします、と事前に宣言していたわけではない。

あくまでも番組では、『ガキ使』メンバーが「男と男の手料理対決」という素朴なロケ企画をしているという体(てい)なのだ。

そこに、ゲストの岸部さんが呼び込まれるのだが、なぜか落とし穴に落ちてしまう。どうも、前の番組で作られた落とし穴がそのまま放置されていたらしい。驚いた『ガキ使』メンバーが岸部さんを助け出すが、なぜか岸部さんだけがまた別の落とし穴に落ちてしまう。怒る岸部さんをなだめて、ロケを再開するも、やっぱり岸部さんだけ落とし穴に落ちて…という展開だ。

 

「ドッキリ企画」と評したことに先に疑義を挟んだが、なにもこれが「ガチ」であると言いたいのではない。逆である。これは一種の不条理なロケコントである。『ガキ使』メンバーはもちろん、当人も落とし穴に落ちることを折り込み済だろう。

 

もともと、ダウンタウン岸部四郎を“お笑い的にフォトジェニックな存在”として買っていたフシがある。その証拠に、『ガキ使』の数年前、『ダウンタウンのごっつええ感じ』において、あるゲストを使って面白い写真を撮るという対決企画が数回あり、ある回の被写体として岸部さんが招かれていたことがある。

 

そうしたお笑いフォトジェニックとしての岸部さんの魅力に、さらに自己破産という「生き様」が積み重なった。それらが合わさって「なぜか岸部四郎がなんども落とし穴に落ちてしまう」という状況が、不条理でいてたまらなく面白いのだ。

それを単なる「ドッキリ」と評されると、非常にモニョるし、背中が痒くなってくる。なにも知らない岸部さんを落とし穴に落としたリアクションが面白いのではない。「なぜか落とし穴に落ちる岸部四郎」という状況が面白いのである。そして、これが単なる「ドッキリ」であるならば、後世に語り継がれる企画になっているはずがない。

 

さらに細かい点に目を向けるなら「『俺を誰や思うてんねん! 元金持ちやぞ!』『もう、カネしかないなあ!』などと名言を連発」、こうした書き方も、ネットニュースに特有なのだが、ちょっとサブい。

これらの発言が、岸部さんの内発的な言葉である可能性もゼロではないが、「名言」と言い切るのもなにか違う。例えば、ドラマ『半沢直樹』で堺雅人がしゃべった言葉を彼自身の「名言」だと記事にしたら誰もが首をかしげるだろう。岸部さんの言葉だって、「名言」と言い切られると、それまた少し違うような気がしてくる。

 

とにもかくにも、あの「神回」は「ドッキリ」などとは企画意図、原理からしてなにからなにまでちがうのだ。

 

あーあ! サブくて気持ち悪い記事書いちゃったよ!

「ダーク・ユニバース」から決別することで傑作になった2020年版『透明人間』

 コロナですっかり劇場で鑑賞する機会が少なくなってしまったが、最近観た中で特に面白かった何作かについて感想を書いておきたい。まずは『透明人間』だ。

 

【映画パンフレット】透明人間 監督 リー・ワネル キャスト エリザベス・モス, オリバー・ジャクソン=コーエン, オルディス・ホッジ,

 

 元々は「ダーク・ユニバース」シリーズとして企画がスタートし、それを断念した末に作られた本作。

 …知らない人もいるだろうし、実際に知らなくても全く困らないのだが、「ダーク・ユニバース」シリーズはユニバーサルがブチ上げたモンスターシリーズだ。

 ミイラだとかフランケンシュタインだとか、あの手の古典的なモンスターを現代風にアレンジしてカッコよくしてシリーズ化してクロスオーバーなんかさせちゃったりしてアベンジャーズみたいにすればイケるっしょ、とカーディガン羽織ったうさん臭いプロデューサーが立ててそうな企画で、第一弾の『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』(2017)がエゲツないコケ方をして、現在は企画自体がストップしている。

 本当に「ダーク」(黒歴史)にしてどうすんだというツッコミどころはさておき、その中で『透明人間』も企画されたというが、「ダーク・ユニバース」シリーズとしての制作が断念され、紆余曲折を経て今回の『透明人間』に結実する。

 しかし、この「断念」が結果的に圧倒的に良い方向に物事を進めたのだと思う。

 というのも、本作の見せ所は旧来の「透明人間」ものとはあきらかに異質だからだ。
 
 多くの人が知っているが、「透明人間」は今まで幾度となく映像化されている。古くは1930年の白黒映画。香取慎吾が素っ裸で商店街を駆け巡る土9ドラマにもなった。CGでこれみよがしに透明人間ならぬ透明ゴリラの臓器が徐々に消えてくさまを描いた『インビジブル』もある。

 しかし、今はCGが当たり前になった2020年である。今さら「透明人間」をしたところで、摩訶不思議な映像に慣れきってしまった現代の鑑賞者の目は輝かない。おそらく、「モンスターを現代風にかっちょいい感じにすればイケるっしょ」と、迂闊な発想で進んで再起不能の複雑骨折を負った「ダーク・ユニバース」路線のまま作られたならきっと、本作も「透明人間」の描写に固執するあまり、ゲロスベりしていた公算が高い。

 

 では、本作『透明人間』はなにの描写に重点をおいたのか。それは、透明人間そのものの恐怖ではなく、本作が描くのはあくまでも透明になっても消えるわけではない“人間の恐ろしさ”なのだ。

 

 本作は、エリザベス・モス(『アス』で感じ悪い隣人夫婦を演じていた)扮するヒロインが、夫の寝てる間に必死の思いで家から抜け出し、避難するところから始まる。 夫は天才的な頭脳を持つ科学者だったが、同時に彼女を支配し、苦しめていたモラハラ夫でもあったのだ。彼女はつまりサバイバーなのだ。

 支配的な夫からなんとか逃れられたヒロイン。居場所は隠し、安全な場所のはず。しかし、いつか夫が自分を取り返しにくるかもしれない、という恐怖で彼女の頭はいっぱいで、外も出歩けない。ヒロインの恐怖は、実社会のDV、モラハラのサバイバーが感じる恐怖そのものだ。

 ここから映画は、この「今そこにいないはず夫への恐怖」に、「いまそこにいるかもしれない透明人間への恐怖」を重ね合わせる。それが見事なのだ。

 間違っても、本作は「DV」「モラハラ」というものの“風刺”や“隠喩”の類ではない。それらのような回りくどいやりかたではない。本作はDV、モラハラのサバイバーそのものを描きつつ、「透明人間」という要素を使い、よりその問題を深堀りすることに成功しているのだ。

 

 その後ヒロインは、死んだはずの夫は実は生きており、見えない姿で自分の近くにいることを確信する。

 しかし、周囲の人間(主に男たち)は彼女の言うことを取り合わない。それはまるで、女性の発言を軽んじている男性社会の構図のようにも思える。

 そして、クライマックスでは、それまでの卑劣な元夫のやり方に、ヒロインが見事な形で意趣返しをしてみせる。敵と真っ向から対峙したときのヒロインの“勝負服”が黒いドレスだったことの意味は言うまでもない。

www.bbc.com

 

 本作は、「透明人間」というホコリまみれの古典キャラクターを、現代風にアレンジして見事に蘇らせた秀作だ。「ダーク・ユニバース」と決別して本当によかった。

女が話し始めるときの3つの口癖

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女の人が話し始めるとき、「待って?」「聞いて?」「一個言っていい?」という口癖があると思う。

本当によく聞く印象がある。体感としては、100人中1億人ぐらいに言われる気がする。それぐらいよく聞く。

一方、男からこうした言い回しを聞くことはまずない。100人中マイナス100人ぐらいの体感である。

もっとも、「私はそんなこと言わない」という女性も中にはいるだろう。ここでは「一部女性」としておこう。ああめんどくせ。

 

この口癖をどうとらえればいいのだろう。女性の発言権がなかった時代の名残りなのだろうか。それとも、これは生物学的な性差として片付けられるのか?

 

どちらにせよ、経験上、この3つの口癖が飛び出したときは、「本人の中でエモい感情が湧き上がって来ている状態」であり、「面白い話が飛び出す前」の兆候の可能性が高い。コンサートで言うと、待ってましたというヒット曲のイントロが流れ出した瞬間である。

 

というわけだから、「待って?」「聞いて?」「一個言っていい?」の口癖が飛び出したときは、邪険にしてはならない。「待つよ」「聞くよ」「一個と言わず何個でも」が模範解答。でないと、面白い話を聞き逃してしまう。

 

そもそも、ネットという虚空の空間に投げられた言葉ならいざしらず、リアルの空間で「待って?」「聞いて?」「一個言っていい?」と言ってくれるのは、「言うほどの関係性」がないと始まらない。貴重であり、ありがたがらないとならない。

いずれ、ぼくが老いさらばえて、誰からも相手にされない老人になれば、「待たなくていい」「聞かなくていい」「一個も言いたいことありません」になるのである。いや、そんな言葉も投げかけられず、終わるだろう。

 

文字通り「言われるうちが華」なのだ。

最近、年をとったと感じたまさかの瞬間

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これは親譲りなのか何なのかは分からないが、結構老けにくいタイプだと思う。

父親は早死だったのでよく分からないが、そろそろ60代の母親もよく「若い」と言われるので、比較的若いのだろう。そういう遺伝子を半分は受け継いでいるようだ。

自分自身でもこの歳にしては若いと思っていたのだが、先日、「年をとった」と自覚することがあった。

 

友人と思いがけず、ビデオ通話をしていたときである。

その友達は以前長髪だったが、スマホ画面の中の彼は、自粛期間中にいつのまにか坊主頭になっていた。

ビデオ通話をしていて、ふと気になることがあった。

画面の中でしゃべっている彼の頭部、前頭葉の部分とそれ以外の部分の色あいに、薄っすらとだが確実にセパレートがあることに気づいたのである。

おそらくこれは、坊主頭の薄い部分と濃い部分のセパレートである。あばれる君の頭部で確認できる、あれ、である。


つまり、このセパレートは友人の前頭葉の部分の毛根が死滅しかけていることを意味する。もうそれは虫の息という有様だ。そう、この友達は薄毛になり始めているのだった。

 

このことがぼくにとって驚きだった。

人はいつかハゲる。それは分かっている。しかし、自分は以前、毛根は元気だし、今のところは大丈夫だ。友人の薄毛によって、自分は「いつハゲてもおかしくない世代」になったことを初めて体感を持って気づいてしまったのだ。彼がぼくより3つか4つほど年下、ということも、その衝撃度を上積みする。

薄毛になっていることを通話ですぐに本人に伝えると、友人自身は薄毛の覚悟はとっくにできていたらしく、反応は鈍かった。そのこともかえって印象的だった。


この先、こんな風にどんどん周囲の人間の「老い」を気づき、年をとったことを自覚していくのだろうと思うと、怖いようで、ワクワクもしている。

ハゲた、チン毛に白髪が生えた、わりと笑えない重い病気になった、「おじいちゃん朝ごはんはさっき食べたでしょ」になった、死んだ、などなど。続々と周囲は変化していくのだろう。

 

おそらくぼくは、周囲の人間全員の「死んだ」報告を聞くことになると思う。

なぜなら、以前にも書いたとおりぼくは150歳まで生きるのが人生の目標だからだ。

 

長く生きるのは、森羅万象をより長く「見たい」ためだ。第3次世界大戦を目撃したいし、義体化した人類が100mで3秒台を叩き出すのも見たいし、火星へのテラフォーミング計画が成功した光景も見ていたいのだ。

とにかく、全部見たい。

だからとりあえず150歳までは生きるつもりだ。

 

もっとも、こう書いているぼくの体内で息を潜めている恐るべき病巣がゆっくりと膨張している可能性もあるのだが。

 

健康診断、行こ…。

<外見>×<中身>×<環境> ルッキズムの残酷な構造をえぐるドラマ『宇宙を駆けるよだか』

www.youtube.com

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宇宙を駆けるよだか』メインタイトル

 

ネットフリックスのオリジナルドラマ『宇宙(そら)を駆けるよだか』。若いキャストが集まったいわゆる「学園モノ」なのだが、痛烈なメッセージが含まれている。

 

タイトルの「よだか」とは、おそらく、宮沢賢治の短編『よだかの星』から取られていると思われる。『よだかの星』は醜い外見で他者から疎まれる夜鷹が主人公の作品で、本作も美醜が大きなテーマとなっているからだ。

 

クラスメイトからの人望が厚く、想い人の公史郎と結ばれ、順風満帆な高校生活を送っているように見えた小日向あゆみ 。

ところがある日、クラスメイトの海根然子が飛び降り自殺を図ったところを目撃してしまい、明くる日、目を覚ましたあゆみは、然子と外見がそっくりそのまま入れ替わってしまったことに気づく。

 

■<外見>によって<環境>が変わる

いわゆる「入れ替わり系」の作品は、これまでにも数々の名作、怪作が生み出されている。故大林宣彦監督の尾道三部作の一つ『転校生』や、近年では新海誠の『君の名は。』が記憶に新しい。

 

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変わり種では、警察がマフィアのボスと顔を入れ替え潜入捜査する、ジョン・ウー監督のアクション映画『フェイス/オフ』もある。

フェイス/オフ (吹替版)

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どのジャンルの作品も「入れ替わる前と後の違いによって当事者が味わう苦難」が焦点となっている。


そんな中、本作は「入れ替わり」という設定を使い、「美醜」という問題にメスを入れる。

 

それまでクラスの誰からも顧みられなかった然子は、あゆみに入れ替わったことにより、彼女の取り巻きにちやほやされ、順風満帆なスクールライフを送り始める。

一方、然子に入れ替わってしまったあゆみは、事情を知らず、彼女のことを然子だと思っている友人たちに邪険に扱われ、孤立してしまう。

 

「いつもと同じ学校なのに…。まるで知らない世界にいるみたいだった」

 

然子の<外見>になったあゆみの視点を通して本作が伝えるのは、<外見>が変わってしまうことで、主観的な<環境>も変わってしまうということだ。

クラスのアイドル的な存在であったあゆみの<環境>と、誰にも顧みられない一人ぼっちの然子の<環境>は、同じクラス、同じ空間であろうと全くちがっていたのだ。

 

男と女の入れ替わり(『転校生』『君の名は。』)や、善人と悪人の入れ替わり(『フェイス/オフ』)とは一味ちがう。本作は、「美醜」の入れ替わりによって「ルッキズム(外見至上主義)」が支配する残酷な現実をぼくらに見せつけてくる。

 

■<環境>によって<中身>が変わる

しかし、本作『宇宙を駆けるよだか』の本当に痛烈なメッセージ性は、その先にある。

 

然子はあゆみの<外見>を手に入れさえすれば、全てが変わると思っていた。しかし、人を信じられない性格の然子は、あゆみの<外見>であっても、心安らかになることはできない。不安から周りに当たり散らし、次第に孤立していってしまう。

対する然子の<外見>になってしまったあゆみは、いち早く入れ替わりに気づいてくれたクラスメイトの俊平とともに、元通りになる方法を探るために奔走する。また、然子として学園生活を送りながらも、持ち前の性格で次第にクラスの人望を獲得していく。

あゆみの<外見>に入れ替わってみたところで、<中身>が醜い然子は、変わることはできなかった。反対に、<中身>も清く美しいあゆみは、醜い然子の<外見>になってしまったとしても、周囲の人間たちに醜さを愛嬌と読み替えてもらるようになっていったのだ。

これは恐ろしい話だ。<外見>が美しい人間は<中身>も美しい(だから、醜い<外見>に変えられても這い上がれる)、<外見>が醜い人間は<中身>も醜い(だから、美しい<外見>になっても何も変らない)、というのである。

 

 

しかし、くれぐれも、これは<外見>が美しいならば<中身>が美しく「生まれる」というわけではないので注意。

 

終盤、あゆみへの「入れ替わり」を画策した然子を追い詰め、俊平や公史郎が非難したとき、然子の<外見>を通して、厳しい<環境>を味わったあゆみは、彼女を擁護する。

 

「私は海根(然子)さんを責められない。私、誰か分かってもらえなかった。それだけじゃない。突然傷つけられて、どうしようもなく苦しくて、きっと…海根さんもそうだったんだと思う。そうなったら一人じゃどうにもできないの。強くなんていられないし正しい判断なんてできないよ」

 

数週間どころではない。生まれてからずっと。<外見>が原因で差別される過酷な<環境>にいれば、<中身>が変わってしまうのも仕方がない、あゆみはそう言う。つまり、<外見>によって生きる<環境>が変わり、また<環境>によって<中身>も変わる、というのだ。

 

ではなぜ、然子の<外見>になったあゆみは、それでも挫けることなく、自分を邪険にするクラスメートたちと新たな関係を築けるにいたったのだろう。皮肉ではあるが、それはあゆみの<外見>だったころに培われた、持ち前の前向きな<中身>があったからなのだろう。

 

あゆみが差し伸べた手を、然子は振り払う。

「ちょっと…あたしが間違ってる前提で話進めないでよ。あんたら美形はいいわよね。綺麗ごと並べるだけでそれで正義になれるんだから」

 

そして、然子の<外見>、つまり元の自分の<外見>をまとったあゆみを掴んで立ち上がらせ、俊平、公史郎らに向かって見せつけるように訴える。

 

「この顔で生まれてきても今と同じこと言えんの?」

 

口でどんな綺麗ごとを並べ立てようと、結局は<外見>がすべてを決める――それは、生きてからこれまで<外見>に苦しめられ続けた然子の心の叫びなのだ。

 

本作『宇宙を駆けるよだか』は、少し簡略化してはいながらも、<外見>、<中身>、<環境>の3要素の複雑な絡み合みあったルッキズムの絶望的な拭いがたさを見事に表現している。

 

なお、本稿ではあえて詳しく触れないが、「2人2役」という複雑な入れ替わりの設定を見事に演じきった清原果耶(あゆみ→然子)、富田望生(然子→あゆみ)の2人の演技力は圧巻だ。