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『竜とそばかすの姫』レビュー 説得力がない3つの理由

細田守監督の最新作『竜とそばかすの姫』を観てきた。

竜とそばかすの姫 (角川文庫)

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インターネット上の仮想空間<U>(ユー)で人々が自分の分身<As>(アズ)を操れるようになった世界を舞台で、“歌姫”Belleとして才能が開花させた田舎の女子高生・鈴。現実と<U>のギャップに戸惑いながら、Belleとして脚光を浴びていく彼女の前に、突如として現れた<U>内の嫌われ者“竜”。彼の背中のアザが気になったBelleは、徐々に心を通わせていくことになる。

 

<<以下多少のネタバレ含みます>>

細田守監督の自己言及的作品?

本来は引っ込み思案で、表に出たがらない鈴=Belleを通じて描かれるのは、「ネット上の賛否を含む多様な意見の豊かさ」、そして「他者に向けて表現を発表していくことの尊さ」だ。

Belleの歌に最初から誰もが惹かれていたわけではない。最初は難癖をつける者、批判的な者がごろごろいる、ということも描かれる。

批判の多さにビビる鈴だが、そこで彼女の親友、ヒロちゃんが「肯定しかされない奴なんてコアなファンだけな証拠」「(賛否両論ということは)半分には評価されてるってことじゃん」(大意)と勇気づける。

ヒロちゃんの言うとおり、100人が100人とも評価するような表現なんて存在しない。批判する人がいれば、評価してくれる人だっている。本作は、ネット上の豊かさを肯定しつつ、その中で表現していく勇敢さを称える。

 

ただ…少しイジワルな見方をしてしまうと、本作は「細田守監督が細田守監督を鼓舞するために作った」側面もあるのではないか、と鑑賞中に考えてしまった。

思えば、細田監督の過去作は、特に描かれる価値観を中心にして常に賛否が割れてきた。特に前作『未来のミライ』は、前々作の『バケモノの子』から興行収入がほぼ半減する惨憺たる結果に。ぼく個人的には、正直内容的にもちょっと惹かれず、恥ずかしながら劇場で寝てしまい(ごめんなさい!)、今回配信で見返すことになってしまった。

ネット上での表現に対する反応は多種多様であり、それでも臆せずに表現し続ける勇敢さと尊さ。本作が描いているメッセージの一つは、細田監督が細田監督という表現者に向けて作った映画のようにさえ思えてくる。

 

ただ、「賛否両論ということは支持している人もいるということ」というメッセージを作品の中にビルトインすることは、諸刃の剣でもある。

というのは、このセリフは『竜とそばかすの姫』というこの作品に対しての批判についての「牽制」としても作用してしまうのだ。「まあ、この作品を批判する人もいると思いますけどね」と、前もって釘を刺されたような気がして、あまり気分がよくないでないか…。本当はいい作品だったら手放しに褒めたいのに!

ということで、以下、あまり本作に乗れなかった浅ましい人間の書いた感想であり、その点を理解いただける人だけお目汚しください。

 

■ “竜”が悪いやつに全然思えない!

ぼくは本作について、特に『サマーウォーズ』以降の細田作品と同様に、あまり気持ちが乗れなかった。そして、それはいくつかの点において「説得力」を欠いているせいだと考える。その説得力の欠如について、言語化してみたい。

 

まずは“竜”について。“竜”とその正体を通して描かれるのは、「誰にも理解されなくても、誰かが理解して手を差し伸べてくれるはず」というネット上の“救い”といえる。「正義」の名のもとに断罪されようとする“竜”だったが、Bellは彼の“背中のあざ”の理由が気になり、彼の素顔に迫ろうとする。

しかし、この“竜”が説得的には思えない。というのも、「竜はこれだけ悪いヤツで、これだけ嫌われるのは自業自得」という描写がほとんどない。どうも<U>上のバトルゲームでラフプレーしていることで嫌われているようだが、それも伝聞で、直接描かれることはない。あくまでも“竜”のラフプレーはゲーム上でのことで、<U>上の誰彼かまわず襲っているわけでなく、絶対悪とは言えない。それだけに、あれだけ嫌われるというのは説得力が弱い。

劇中では、Belleとの初遭遇シーンで、ジャスティンという<As>が率いるジャスティスという自警団と戦闘し、やっつけるのだが、それも別に“竜”が悪いようには思えない。戦闘は自警団側から襲いかかってくるから起きているのであって、竜は正当防衛しているようにしか思えない。

このように、“竜”について「そりゃコイツは嫌われるわ。自業自得」というシーンが一度もないため、その後の「実は彼にはこういう事情があってね…」という展開に対してのフックがいまいち効いてこない。

■ “本人特定”だけが信頼を担保するという不自由さ

それから、ストーリー上で首を傾げたのは、“顔出し”に対する観念である。

ジャスティスの目的は、“竜”という<As>の正体、つまり現実世界での本人を白日のもとに晒すということである。

このこと自体には特に異論はない。なぜなら、ジャスティスとそれを率いるジャスティンは、劇中で「行き過ぎた正義」を司っており、「本人特定」という少々やりすぎな側面は、「行き過ぎた正義」の一つの側面といえる。言うならば、「こぶとり爺さん」におけるこぶを付けられる側の「いじわるな爺さん」の価値観を表現していると言える。

 

しかし、“竜”の正体まであと一歩までたどり着いた鈴=Belleたち。そこで今度は、鈴が自らの素顔を晒して、信頼を担保しようと動くのであり、そのことについて本作は肯定的に描いている。結局、“顔出し”や“実名”という“本人特定”が、信頼を担保するという点で、ジャスティスと価値観が一致しまっているのだ。

 

ぼくらがここ20年近い年月をかけて育んできたのは、実社会と地続きのネット社会とはべつに、実社会から切り離されているからこそ自由になれる、というネット社会のもう一つの側面ではなかったか。

細田監督は「ずっとネットを肯定的に描いてきた世界で唯一の監督」という自負があるようなのだが、その点ではむしろ、「やはりネットは現実を超克できない」という考えなのではないだろうか。『竜とそばかすの姫』での最後の展開(突如としてぼっ発したヒロインの旅!)も含め、“実社会の本人が特定されてこそネットは信頼できる”という価値観に息苦しさを覚えてしまうのである。

■ 気持ちがノレなかった一番の理由は「歌」

そして、何よりも乗れなかったのは、鈴=Belleの歌である。

しかし、この件について即座に否定したいのは、なにも鈴の声と歌唱を担当した中村佳穂さんの力量不足を指摘したいわけではない、ということだ。

彼女個人の力量の問題というより、これは歌の威力に頼った本作の難しさである。ただ単に「登場人物が歌を歌う」ことが難しいのではない。「登場人物の歌が聴衆を魅了する(物語が展開する動因になる)」という描写がつきまとう困難である。

本作を含め、「歌の威力」が物語の動因にする場合、格段に難易度があがる。なぜなら、それは「劇中の聴衆」のみならず、「作品の鑑賞者」の琴線に触れ、納得させなければならないからだ。作品が「歌の威力」に頼るのが難しいのは、そこに理由がある。今回、少なくともぼくは、中村さんの歌で「聴衆が魅了される」というストーリーに説得されなかった。

でもこれは中村さんが悪いとは思わないし、彼女に歌唱力がないというわけではない。言うならばそれは、「ジャンル」の違いだったように思える。シンガーソングライターの彼女の持ち味はやはり「作家性」であり、「味」だろう。

しかし、万人を瞬時に圧倒的に魅了するのは、もっと爆発的な声量で圧倒するタイプの歌い手ではないだろうか。例えば、そこらへんにいるようなおばはんが1フレーズ歌っただけで会場をあっと驚かせたり(スーザン・ボイル)、ケータイショップ店員が突如としてスターになったり(ポール・ポッツ)。そのほか、オリンピックの開幕式で君が代を歌ったばかりのMISIAも、初めて聞いたときは衝撃だった。もしかしたらBelleに求められるのは、そうしたたぐいの歌唱力だったのではないかと思う。

中村さんの歌は、やはりそういうタイプの魅力ではないので、だから説得力を見いだせなかったが、「歌」の感想となるともう個人の趣味趣向が強く作用するので、分からない。

 

と、このように、すごく書きにくいことを書きにくそうに書いてしまったのだが、安心してほしい。賛否があるということは半分は支持しているということだから! 細田監督、そうだよね!?

ありがとうズッコケ三人組

「お、札束くれんの?w」

たしかあれは、小一か小二の時の誕生日会だったと思う。

帰り際、友だちのオダ君がくれた包装されたプレゼントの形、大きさを見て、すぐに類推したのが札束だったという想像力は子どもとしてどうなんだとは思うが、もちろん包装紙を開けてみてそこにあったのが札束というわけはなく、あったのは黄色いカバーがかかった『それいけズッコケ三人組』の文庫版だった。

Z1それいけズッコケ三人組 (ポプラ社文庫 A 145)

わかってはいたものの、札束でなかったことに少し気落ちしながら、文庫をペラペラめくっていたぼくは、気がついたら寝る間も惜しんで夢中になって読みまくっていた。

 

知っている人も多いと思うが、『ズッコケ三人組』シリーズは、中国地方の架空の県、稲穂県を舞台に、直情型のハチベエ、博識でクールなハカセ、のんびりしたモーちゃんの小学六年生の三人が活躍する、那須正幹先生による児童文学だ。

さまざまなシチュエーションで巻き起こる、キャラクターの違う三人の掛け合いがたまらなく好きだった。児童文学だからといって、子どもじみているわけでも、大人すぎるわけでもない。子どもが背伸びしてやっと届きそうな、絶妙な距離の場所で描かれる、三人の冒険に胸を躍らせた。稲穂県のモデルが、那須先生の出身地であり、ぼくの地元・広島県であったのも、とっつきやすさに与していたのかもしれない。

 

三人は、それまで自分からはろくに本など開かなかったぼくを夢中にさせた。

親も、漫画でなく本ならば、と一冊を読み終えればポンポン次の作品を買い与えてくれた。家の本棚には、いつの間にか読み終えた文庫本がずらり。不恰好にも途中で文庫本から少し大きめのハードカバーに代わるのは、文庫としてまだ出版されていない新しめの作品にまで届いてしまったからだ。それぐらい、あっという間に読んでいってしまった。

 

ズッコケ三人組』の影響を受けて、自分で絵本を描いて、あろうことか小学校のクラスで担任教師に読み聞かせしてもらったこともある。凄まじい自己顕示欲である。タイトルは『ぼくたちの冒険』。「ぼく」が主人公で、友だち2人と冒険に出かけるストーリーで、もちろん「三人」なのは、「ズッコケ」にインスパイアされていたことは隠すことはできない。

ちなみにこの話には、「デビュー作」が概ね好評だったため、クラスメイトからの「自作に俺も出してくれ」という「出演依頼」が殺到し、断りきれずに「三人」というコンセプトは崩壊してしまった、という後日談が付いてくる。

 

大袈裟でも言い過ぎでもなんでもなく、ぼくを小説の世界に招待してくれたのは、『ズッコケ三人組』に他ならない。那須正幹先生、ありがとうございました。

シラフの女に何もできない男たちと、“名無し"で忘れ去られる女たちについて 映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』

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シラフの女に何もできない惨めな男たち

キャリー・マリガンが演じるのは、30歳のコーヒーショップ店員、キャシー。彼女はバーでぐでんぐでんになるまで酔い潰れ、案の定、鼻の下を伸ばした男が「介抱」の名目で近づいてくる。
男が狙いどおりキャシーを自宅へ連れ込み、準備オッケー。キャシーをベッドの上に倒し、体をまさぐりだす。最初は「やめて…やめて…」とかぼそく、気だるそうに声を出していたキャシーだが、男が股倉に手を突っ込もうとしたその時、豹変する。


「ワッアーユードゥーイング???」

 

キャシーの芯の入った声色での詰問。ここで男はようやく気づく。この女、酩酊なんてしてねえ! ずっとシラフだったんだ!

連れ込み男は、ここではっと我に返り、自分がいかに愚かな行為を重ねていたかに気づく。でもそれは、目の前のキャシーへの贖罪の気持ちではない。自分の家を知られた、この女は全てを覚えている、これは大変なことになっちまった…! あくまで自分の評判に対しての恐れに過ぎない。


このスリリングな冒頭のシーンは、ありふれた「無防備な女の性被害の光景」を、「シラフの女とまともな関係性も築けない男の惨めな姿」へと鮮やかに反転する。

 

若き日のキャシーは、医学生の才女で、まさに前途有望だった(プロミシング・ヤング・ウーマン)。そんな彼女が夜な夜な、この特殊な「啓蒙活動」を始めたは理由は何なのか? 彼女の過去にいったい何があったのか?

本作『プロミシング・ヤング・ウーマン』が描くのは、邪悪で無法図な男性性とそれを温存するおぞましいホモーソーシャルのメカニズム、そしてそれを叩き潰そうとする女の復讐譚だ。

復讐は切れ味鋭くスマートに

↓↓↓ここからネタバレありレビュー↓↓↓


7年前に起きた、キャシーの親友ニーナのあまりにも無残な性被害と死。偶然再会した元同級生のライアン(ボー・バーナム)からもたらされたのは、加害者で無罪放免になったアルが、医者として大成し、もうすぐ若いモデルと結婚するという胸糞悪すぎる情報。キャシーは、ニーナを死に至らしめた者たちへの復讐を決意する。

しかし本作はキャシーを通して、こうしたフィクションにありがちな「感情的なオンナによる修羅場」という、それ自体が女性の味方のフリをして既存のステロタイプを強化してしまう、というミスは犯さない。キャシーはあくまでも冷静に、スマートに復讐を成し遂げていく。

 

復讐ターンの中でも、事件を揉み消した校長(女性)の態度が印象的だ。加害者のアルが医者として大成し、講演者として母校に凱旋しているのに対し、手籠にされた上に死んだニーナは名前さえ忘れ去られていた。しかも、彼女は当時、成績最優秀者だったのに!冒頭の連れ込み男と同様に、男の出世と成功の前には、彼女たちは「誰でもいい」し、誰でもない、何でもなくなってしまう。

なお、舞台となるのが医大というのが、本邦の鑑賞者にとってはあまりにも示唆に富む構図ではないか。

 

そんな中、キャシーが唯一、男女としてまともで対等な関係性が築けそうになったライアン。2人の甘く幸福なひとときは、「実はライアンも性加害の加担者だった!」という真相のフラグがビンビンに立ちすぎており、その先はもう、どうやってキャシーを絶望に叩き落とすのか、という観点でしか観れなかったのだが、それはともかく、映画はそのあと、アルのバチェラーパーティという狂乱と怒涛のラストに突き進む。

 

どうして、キャシーまで死ななければならなかったのか。その点において、少なからぬ観客(特に女性)は、後味の悪さを覚えるのではないか。もしかするとあの結末は、「富と名声に守られた男を女が倒すには、差し違えるしかない」という今の社会情勢への皮肉かもしれない。

あるいは、ニーナがこの世を去った時点で、その7年前の時点で、すでにキャシーの心は半分死んでいた、ということのかもしれない。そうそれは、2人の名前が刻まれたネックレスのように。
ラストシーンのメールの文面に署名がなされていたのは、名前という観点で示唆的だ。校長に名前すら覚えられていなかったニーナ。キャシーがニーナとの連名の署名をメールに残したのは、彼女を「哀れな性被害者」という匿名性の闇から引き上げてあげる行為だったのかもしれない。

 

それから最後にもう一つ、終盤の胸焼けするようなホモソーシャル描写、そしてその滑稽な崩壊の描写も一見の価値あり。ぜひ劇場での鑑賞をおすすめしたい。

『100日間生きたワニ』ワニを生き返らせてまで作るべきだったか?

いろんな意味で盛り上がっているのか盛り上がっていないのか分からない、『100日間生きたワニ』を観てきた。

 

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言わずと知れた『100日後に死ぬワニ』(以下『100ワニ』)を原作とする劇場アニメで、公開される前からネット上では嵐レビューやデマなどが横行している、ある意味でいわくつき物件になってしまった。

ぼくは、ツイッター上で更新されていた原作漫画を途中からリアルタイムで追いかけ始め、大注目の中で幕を閉じた最終回、そしてその後の残念すぎる場外乱闘も一応は目撃している。あれだけSNSを追い風にして大人気となったのに、今回の映画ではSNSで逆風が吹き荒れているというのは、悲しい皮肉である。

 

今回の映画について、ちょっとかわいそうだと思うのは、『100ワニ 』終了直後からの炎上の原因となった一連の売らんかなな商業展開とは一線を画している点で、知ってる人は少ないかもしれないが、この企画は原作を気に入った監督の上田慎一郎監督発案で、大ブームになるもっと前から企画書ができあがっていた、というのだ。つまり、大ブームになって以降に食いついた企業とはまた別の流れを汲む、といえる。そこはまず押さえておきたいところ。

ましてや、本作については「本編なんて観なくていいもの」「観ずに叩いていいもの」というムードが半ば「決定」してしまっている。坊主憎けりゃで映画の本編も観ずに叩くというのは、やはりちょっと違う気がする。

 

で、昨日観てきたのである。

 

もともと、『100ワニ』を映画にするというニュースを聞いたときから、「それって難しくない??」と考えていたことがある。

『100ワニ』がツイッター上で(炎上ではない)火が付いたのは、「1日1投稿」という形式があってこそだ。原作者きくちゆうきの「創造」は漫画の内容より実はそこにある。

もちろん『100日後に死ぬワニ』というタイトルの妙もある。「100日後に死ぬ」という一見すると不穏ですらあるタイトルと、死の匂いと無縁の何気ない穏やかな日常を描いた内容のギャップ。

だからこそネット民は「本当に死ぬの?」と半信半疑に、あるいは「なぜ彼は死ぬの?」と興味を惹かれ、しだいに惹きつけられていった。興味関心は100日間をかけて雪だるま式に膨れ上がり、ツイッター上で巨大なムーヴメントになった。

「予め定められた死」に向かって1日1日近づいていくという、本来ならありえない「時系列」を生み出すことで、本作は何気ない日常に違った味わいを見出していく。その狙いは、筆者もツイッターで明かしていた。

 

ここまで書いてきたように、『100ワニ』のヒットは、ツイッターという媒体にハマったからこそ。当たり前ながら、映画は約1時間~2時間で完結するメディアである。100日かけて作り出す余韻を生み出すことは土台無理なのだ。

つまり、原作の持ち味は、映画というメディアにおいてはどうして活かしきれないのではないか、と思っていたのだ。それはたとえば、いくら上質な和牛を仕入れても、使える調理器具がたこ焼き器しかない、みたいなことではないか。この喩えが適切かどうかは定かでないが。

 

もちろん、そんなことが釈迦に説法なのは分かっている。「ワニ」ならぬ「カメ」で大ヒットを飛ばした上田慎一郎監督である。勝算がなくて企画に打って出るわけがない、と思っていた。

しかし…観た上で述べると、『100ワニ』をなぞる形となる前半は、やはり原作に比べると大きく持ち味を減じてしまっていることは否めない。なにより、カウントダウンしないので「100日」である意味がほとんどなくなってしまったし、原作が100日かけて作った「土台」を生み出すことは難しい。

一方で、皮肉というべきか、本作は「100日」という制約から自由になった後半、つまり原作では描かれなかった「ワニの死後」になってからこそ、持ち直してくる。

しかし、それは「映画にするために付け足した部分」であるからして、ある意味で当たり前の話かもしれない。

 

ここまで書いてきたように原作の持ち味が十分活かせない以上、「100日間」という制約は取っ払ってよかったのではないか、とさえ感じる。それはタイトルにも言えることで、『100日後に死ぬワニ』に比べると、『100日間生きたワニ』のなんとも言えないキレの悪さ。上田監督は「大人の事情」や「死」を避けたではないと否定しているが、ここを変えた意味はいまいち見えてこない。

 

『100日間生きたワニ』の後半で描かれるのは、いわば喪の作業だ。誰にでもいつか訪れるのが死であり、自分の死と同じように愛する人の死も必然だ。愛する人を喪った者が、いかにその喪失と向き合うか、という課題はこれまでも無数の物語によって描かれてきて、これからも描かれ続けるべきである。

ただ、逆に言うと、そうであるがゆえに、『100ワニ』を“生き返らせて”まですることだったか、とも感じてしまう。

 

上田監督は当初、本作を人間に置き換えた形での実写映画化で企画していたという。確かに、かわいらしい動物がしゃべる『100ワニ』だが、実は人間に置換することが可能である。「登場人物が動物」という点に、物語上の意味はあまりない。まあ、「100日後に死ぬ田中」とか「100日後に死ぬ渡辺」とかだったら、あそこまでの大ブームにはなっていなかったかもしれないが。

 

そういう点で、同様に動物が登場する作品ながら、圧倒されるのが『オッドタクシー』である。この映画では「登場人物が動物」ということが大いに意味を持つ。時間がなくて『100日間生きたワニ』を観に行けない、という人は、アマゾンプライムビデオでまず『オッドタクシー』を観ておこう(2週間ぶり2度目の推薦)。

 

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ほしかったものをゴミに変えていく人生

先月最終回を迎えたドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』で、松田龍平演じる八作がこういう言葉をとわ子(松たか子)にかけていた。

手に入ったものに自分を合わせるより、手に入らないものを眺めている方が楽しいんじゃない?

なるほどたしかに、オダジョーにプロポーズされ、4度目の結婚に至る寸前まで歩みを進め、悩みに悩んで辞退した直後のとわ子にかける言葉としては申し分ないかもしれないけれど、ぼくは全然そうは思わなかった。

ほしいものをほしいほしいとほしがっている時間ってそんなに楽しいものなのだろうか。ほしいものがあったら、すぐに手に入れるに越したことはないのではないか。

 

以前、作家の中村うさぎ買い物依存症になったときの顛末を書籍化したエッセイ集、たしかあれは『ショッピングの女王』か『私という病』だったと思うが、その中で印象的なことを書いていた。正確には覚えていないのだけれど、どれだけほしかった服やバッグも、いざレジへ持っていき、お会計を済ませてしまうと、すぐにゴミに変わってしまう、というのだ。

これを読んだ当時は恐ろしいものだと思っていたのだけれど、今は少し違う感想を持っている。そりゃ人生が破滅するほどの買い物依存症は困るけど、そもそも人生は、ほしかったものをお金を貯めて買って、ゴミにしていく作業なのではないか。

フロイト先生は100年近く前、快と不快の関係について興味深い説を唱えていた。彼いわく、快は「不快を取り除いた状態」なのだという。

ぼくもこの点においてはフロイト学派だ。本当にそうだと思う。オナニーを「抜く」と表現するけど、フロイト学派的にはその感覚は正しい。オナニーは不快を「抜く」行為なのだ。

ほしいほしいほしい、と思って手に入らない状態ははっきりと「不快」だ。ほしいものがあると、頭の中を支配される。あれを買ったらあんなこと、こんなことをしようという考えで頭がいっぱいになってしまう。

ほしいものが手に入るのを心待ちにする。その状態を「楽しい」と表現するのは、「(不快だから)楽しい」というマゾヒズム的な倒錯であることを忘れてはならない。

 

ほしいものをゴミに変えていく。これは資本主義側の要請でもある。

80年代に西武百貨店が展開した、糸井重里による「ほしいものが、ほしいわ。」というコピー。これは、資本主義側の要請を端的に表現した秀逸なコピーだ。

このコピーの真意を解説するなら、「ほしい(という欲求を喚起させる)ものが、ほしいわ。」となる。

しかし、このコピーには、コピーの主≒西武百貨店≒資本主義サイドのその真の欲求が、巧妙に隠ぺいされている。ぼくら消費者が「ほしいもの」を手にするだけでは彼らにとって意味はないのだ。「ほしいもの」を手に入れて、それを実際に買い、ゴミにして、また「ほしいもの」を手に入れて…「ほしいもの」を手に入れてはゴミにする、このあてどもない快と不快の点滅運動こそが、資本主義の肥させる飽くなき循環運動をもたらす。

今日もぼくがあくせく働いてサラリーを稼ぐのはほしいものをゴミに変えるためだ。将来を見据えて貯蓄したい? ふざけるな。蓄財など、この世で最も無意味でナンセンスな行為だぞ。さあ、みんなも社畜として雀の涙ほどのお金をためて、ほしいものをさっさと買って、ゴミに変えていこうではないか。

『オッドタクシー』にシビれた! それはアニメの限界ではなく可能性だった【ネタバレ】

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いや~おもしろかった。

本作について何がすごいといっているのは、「形式そのものが内容だった」という点で、3行目で早くもネタバレすれば、「登場人物がみな動物だと思いきや、主人公・小戸川の認知障害だった」ということ。「動物がしゃべる設定」=形式が、「脳に障害を負った小戸川」=内容だった、という大仕掛け。ちょっとハードボイルドな『ズートピア』かなと思いきや、映画『ファーザー』だった、みたいな。

そう分かると、いろいろな箇所にヒントが隠されているのだろうが、それらを一つ一つ見聞していくのは他のファンに任せておいて、ぼくはやはりこれが「アニメの限界」ではなく「アニメの可能性」だったことがすごいと思う。

かわいらしい動物の作画でどうしようもなくシリアスなドラマをやってみせた本作。ぼくはそれを、アニメにおいて「アニメの限界」を指し示す、アイロニカルな意図がある、と少々イジ悪く考えていた。

けれど、その予想は全くの大外れ。本作はその逆で、アニメの可能性を探る試みとさえいえる。

『オッドタクシー』と同じことは実写では不可能だろう。それは技術的な問題ではなく、違和感の問題だ。

二次元のアニメーションであるがゆえに、視聴者は何の違和感も持たず、持つことができず、作品の中に誘われてしまう。それは、2Dアニメーションが長い歴史をかけて培った、「動物がしゃべっても不思議でない」というリアリティの産物である。

『オッドタクシー』が指し示したのが、アニメの限界ではなく、アニメにしかできない可能性であるというのは、つまりそういうことだ。

 

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「ゲームは年間4本」 必死にやりくりした記憶

人と話していて唐突に、「うちはゲームが年間4本だった」という強烈な思い出が蘇ってきたので、記しておきたい。

 

「年間4本」というのは、ぼくと3つ下の弟と2人合わせて計4本を買ってもらえる、ということだ。それぞれの誕生日プレゼントと、クリスマスプレゼントである。

この年間4本というので、いかにやりくりするか。そのマネージメントに頭を悩ませていた感触がブワッと思い出されて、むせ返りそうになった。

小学2年生のときにスーファミのハードとともに「ストリートファイター2」と「スーパーマリオワールド」をクリスマスプレゼントで買ってもらった。それ以降、この「年間4本」でどれだけ頭を悩ませていたか、それがぼくにとってのいち大事だった。

 

12月に2本買ってもらえるが、そこからぼくの5月の誕生日までの5ヵ月、弟の7月の誕生日から12月までの5ヵ月、その2つの5ヶ月間を以下にして飽きずに逃げ切るか、ということに、脳のメモリーを極限まで使っていた。面白いゲームのなかでも特に面白いゲームを選ばなければならない。クソゲーなんて引くのはもってのほかである。

そんな中、ぼくにとって一生の不覚、と言えるチョイスは、誕生日に買った「ゴーゴーアックマン2」である。

GO GO ACKMAN2

買ってもらった箱をあけて、喜び勇んでプレイする。あれ? おかしい…盛り上がらない。おかしい!そんなバカな!?もっと面白くなるはずだ! いや、頼む!面白くなってくれ!

祈りは届かず、小学生のぼくでも1時間足らずで確信した。このチョイスは失敗だったと…。

あのときの悲しい気持ちは忘れられない。面白くないことと、それ以上に、「自分がクソゲーを引くなんて」という自分の選球眼のなさへのショック、そして、これで弟の誕生日月まで食いつながなければならないのか、という絶望感。

当時はまだネットなどない。新聞に挟まったゲーム屋さんのチラシ、はたまた店頭でのディスプレイなど僅かな情報から、「できるだけ面白いゲーム」を選ぶことに精魂を使い果たしていた。

 

買うゲームは面白いと同時に、「友達の間でブームになるゲーム」でなければならない。「友達の間でブームになる」ということは、よく友達が家にやってきてゲームをして遊んで帰る、ということである。「信長の野望」に当時から惹かれていたけど、1人ゲームという時点でそもそも論外であった。

小学校のときにつるんでいたH賀くんは、そういうゲームを当てるのに長けていた。中でも、H賀くんの家で大ブームになったのは「マッスルボマー」というプロレスゲームで、今にして思えばなんで流行ったのかわからないのだが、ぼくらは毎日のように放課後、5、6人でH賀くんのマンションにあがりこんでは、マルチタップをつないで4人対戦に明け暮れたものである。

マッスルボマー

H賀くんが羨ましかったのは、おそらくであるが「ゲームを買う頻度」が、ぼくよりも高かったことである。多くゲームを買うからこそ、当たりのゲームに会う確率も高かったのではないか、と思う。

別にH賀くんとぼくの家で所得階層が違ったというようには思えないのだ。今にしてみれば、どっこいどっこい。中流オブ中流だったと思うのだ。お互い。

そういう中で、なぜ彼の家には新しいゲームが次々あったのかと考えると、それは「これを買ってほしい」とねだっていたのかもしれない。

一方、ぼくは「これがほしい」とねだったことはない。あらかじめ与えられた誕生日という権利と、クリスマスという権利、その2つを握りしめて、それしか方法がないと思いこんでいた。もしかしたら、5月と言わず、クリスマスと言わずとも、「これがほしい」とねだっていたら、両親は買ってくれていたのかもしれない。

 

それから、両親がゲームをするかどうかも大きいと思う。たしか、H賀くんの家はお父さんもゲームをしていたのだ。つまり、ぼくらが興じていたH賀くんのゲームはH賀くんのお父さんのものでもあった。

うちも父親はゲームをしていたのだが、彼がしていたのはファミコンの「マリオオープンゴルフ」である。これ一本を狂ったように何年も何年もやり続けるものだから、父親発信でカセットが増えることなどない。

マリオオープンゴルフ

そうは言っても、厳密に年4本かというとそうでもなくて、なぜかふって沸いたようにゲームがもらえることもあった。

一番衝撃的だったのは、母方の祖父母がどこか海外に旅行に行って帰ってきた時である。お土産が渡すと言ってうちに寄ったのだ。

どうせどこかの国のやたら甘い、健康に悪そうなチョコか何かだろうと鷹を括って上の空でゲームをしていたぼくの目の前に、ポンと出されたのが「スーパードンキーコング2」だったのだ。

スーパードンキーコング2 ディクシー&ディディー

スーパードンキーコング」といえば、当時はまだ珍しかった3DCGのグラフィックのアクションゲームで、1が出た時には度肝を抜かれた。その最新作の2が、誕生日でもクリスマスでもない通常月にもらえるなんて!

突然降って沸いた「スーパードンキーコング2」。当時のぼくがドラミングするかのように狂喜乱舞したのは言うまでもない。我ながら「どこかの国のやたら甘いチョコレート」だと思っていたときの祖父母に対するつれない態度と、ゲームソフトだとわかった瞬間の態度のギャップには恥ずかしさを覚えた。

 

先日、ひさびさにPS4にログインして、面白そうなソフトを3本ほど衝動買いした。全部で1万円ちょっと。どれもそのあと気が乗らなくてクリアには至っていない。

それに比べて、スーファミのカセットなんて、今にして思えば7000-8000円代である。それぐらいのことで頭を悩ませば、歓喜することもある。それぐらい当時のぼくは小さな宇宙の住人だったのだけど、あの頃がたまらなく愛おしくもあるのだ。