いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座、直毛によるブログ。今ここに、ポスト宮根誠司を目指すことを誓います。

岸部四郎を追悼 『ガキ使』“落とし穴回”を説明する東スポにモニョッたので訂正してみる

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岸部四郎が亡くなった。

もうずい分前からメディアで見ていないので「過去の人」といえばそれまでなのだが、それでも一抹の寂しさを感じてしまうのは、『ガキの使いやあらへんで』での通称「落とし穴回」が脳裏にあるからだろう。ぼくにとって岸部さんといえば、これなのだ。

借金で首が回らなくなり、自己破産。メディアの表舞台から姿を消した当時の岸部さんが「元金持ち」という絶妙な鼻持ちのならなさ、セコさを武器にプチ復活していたのも、この回があったからこそといっても過言でもない。『ガキ使』とダウンタウンが岸部さんを「再定義」したのである。

 

ぼくだけではない。ツイッターで「岸部四郎 ガキ使」あるいは「岸部四郎 落とし穴」と検索すれば、無数のツイートがあることからも、「落とし穴回」が多くの人にインパクトを残していたことがうかがえる。ソフト化されておらず、現在、正規のルートでは視聴することができない18年前も前に放送された映像が、である。

 

そんな中、東京スポーツがこの『ガキ使』の「落とし穴回」について好意的に紹介する記事をアップロードしていた。

好意的ではあるのだが…その記述が、絶妙に絶妙に、スポーツ紙にありがちなバラエティの誤読というか、絶妙にモニョモニョする、背中がくすぐったくなるような「ミスリード」をしているのである。

 

この記述を読むだけでは、あの名作「落とし穴回」がサブくなってしまう。その危機感から、ここに訂正する記事を上げておきたい。

お笑いを解説するほうがサブいのでは? という指摘はごもっともで、これを書く時点でぼくも「サブい」のである。しかし、自分のサブさを犠牲にしてでも、これは訂正しておかなければなるまい、という「使命感」から下記を記しておきたい。以下、お笑いオタクがすさまじい早口で話していると脳内で想像しながら読んでもらいたい。

 

東スポは下記のようにこの企画を説明している。

 なかでも2002年放送の日本テレビ系「ダウンタウンガキの使いやあらへんで」の〝ドッキリ企画〟は「神回」との呼び声も高い。

 これはウソ企画で呼び出された岸部さんが、行く先々で落とし穴にハマっていくというもの。計4度も落とされた岸部さんは次第に壊れていき「俺を誰や思うてんねん! 元金持ちやぞ!」「もう、カネしかないなあ!」などと名言を連発。最後はロケバスの中でプロデューサーとギャラ交渉するのだが、あのダウンタウンの2人が笑いをこらえるのに必死なほど、〝笑いの神〟を身に宿していた。

 

まず、この回の説明で使われている「ドッキリ企画」「ウソ企画」といったワーディングが、この書き手の理解を根本的に疑わざるを得ない。

 

番組では「ドッキリ」などという説明は一度も説明していない。別に、『ガキ使』メンバーのダウンタウン、ココリコ、山崎邦正(現・月亭方正)は岸部さんをドッキリで落とし穴に落とします、と事前に宣言していたわけではない。

あくまでも番組では、『ガキ使』メンバーが「男と男の手料理対決」という素朴なロケ企画をしているという体(てい)なのだ。

そこに、ゲストの岸部さんが呼び込まれるのだが、なぜか落とし穴に落ちてしまう。どうも、前の番組で作られた落とし穴がそのまま放置されていたらしい。驚いた『ガキ使』メンバーが岸部さんを助け出すが、なぜか岸部さんだけがまた別の落とし穴に落ちてしまう。怒る岸部さんをなだめて、ロケを再開するも、やっぱり岸部さんだけ落とし穴に落ちて…という展開だ。

 

「ドッキリ企画」と評したことに先に疑義を挟んだが、なにもこれが「ガチ」であると言いたいのではない。逆である。これは一種の不条理なロケコントである。『ガキ使』メンバーはもちろん、当人も落とし穴に落ちることを折り込み済だろう。

 

もともと、ダウンタウン岸部四郎を“お笑い的にフォトジェニックな存在”として買っていたフシがある。その証拠に、『ガキ使』の数年前、『ダウンタウンのごっつええ感じ』において、あるゲストを使って面白い写真を撮るという対決企画が数回あり、ある回の被写体として岸部さんが招かれていたことがある。

 

そうしたお笑いフォトジェニックとしての岸部さんの魅力に、さらに自己破産という「生き様」が積み重なった。それらが合わさって「なぜか岸部四郎がなんども落とし穴に落ちてしまう」という状況が、不条理でいてたまらなく面白いのだ。

それを単なる「ドッキリ」と評されると、非常にモニョるし、背中が痒くなってくる。なにも知らない岸部さんを落とし穴に落としたリアクションが面白いのではない。「なぜか落とし穴に落ちる岸部四郎」という状況が面白いのである。そして、これが単なる「ドッキリ」であるならば、後世に語り継がれる企画になっているはずがない。

 

さらに細かい点に目を向けるなら「『俺を誰や思うてんねん! 元金持ちやぞ!』『もう、カネしかないなあ!』などと名言を連発」、こうした書き方も、ネットニュースに特有なのだが、ちょっとサブい。

これらの発言が、岸部さんの内発的な言葉である可能性もゼロではないが、「名言」と言い切るのもなにか違う。例えば、ドラマ『半沢直樹』で堺雅人がしゃべった言葉を彼自身の「名言」だと記事にしたら誰もが首をかしげるだろう。岸部さんの言葉だって、「名言」と言い切られると、それまた少し違うような気がしてくる。

 

とにもかくにも、あの「神回」は「ドッキリ」などとは企画意図、原理からしてなにからなにまでちがうのだ。

 

あーあ! サブくて気持ち悪い記事書いちゃったよ!

「ダーク・ユニバース」から決別することで傑作になった2020年版『透明人間』

 コロナですっかり劇場で鑑賞する機会が少なくなってしまったが、最近観た中で特に面白かった何作かについて感想を書いておきたい。まずは『透明人間』だ。

 

【映画パンフレット】透明人間 監督 リー・ワネル キャスト エリザベス・モス, オリバー・ジャクソン=コーエン, オルディス・ホッジ,

 

 元々は「ダーク・ユニバース」シリーズとして企画がスタートし、それを断念した末に作られた本作。

 …知らない人もいるだろうし、実際に知らなくても全く困らないのだが、「ダーク・ユニバース」シリーズはユニバーサルがブチ上げたモンスターシリーズだ。

 ミイラだとかフランケンシュタインだとか、あの手の古典的なモンスターを現代風にアレンジしてカッコよくしてシリーズ化してクロスオーバーなんかさせちゃったりしてアベンジャーズみたいにすればイケるっしょ、とカーディガン羽織ったうさん臭いプロデューサーが立ててそうな企画で、第一弾の『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』(2017)がエゲツないコケ方をして、現在は企画自体がストップしている。

 本当に「ダーク」(黒歴史)にしてどうすんだというツッコミどころはさておき、その中で『透明人間』も企画されたというが、「ダーク・ユニバース」シリーズとしての制作が断念され、紆余曲折を経て今回の『透明人間』に結実する。

 しかし、この「断念」が結果的に圧倒的に良い方向に物事を進めたのだと思う。

 というのも、本作の見せ所は旧来の「透明人間」ものとはあきらかに異質だからだ。
 
 多くの人が知っているが、「透明人間」は今まで幾度となく映像化されている。古くは1930年の白黒映画。香取慎吾が素っ裸で商店街を駆け巡る土9ドラマにもなった。CGでこれみよがしに透明人間ならぬ透明ゴリラの臓器が徐々に消えてくさまを描いた『インビジブル』もある。

 しかし、今はCGが当たり前になった2020年である。今さら「透明人間」をしたところで、摩訶不思議な映像に慣れきってしまった現代の鑑賞者の目は輝かない。おそらく、「モンスターを現代風にかっちょいい感じにすればイケるっしょ」と、迂闊な発想で進んで再起不能の複雑骨折を負った「ダーク・ユニバース」路線のまま作られたならきっと、本作も「透明人間」の描写に固執するあまり、ゲロスベりしていた公算が高い。

 

 では、本作『透明人間』はなにの描写に重点をおいたのか。それは、透明人間そのものの恐怖ではなく、本作が描くのはあくまでも透明になっても消えるわけではない“人間の恐ろしさ”なのだ。

 

 本作は、エリザベス・モス(『アス』で感じ悪い隣人夫婦を演じていた)扮するヒロインが、夫の寝てる間に必死の思いで家から抜け出し、避難するところから始まる。 夫は天才的な頭脳を持つ科学者だったが、同時に彼女を支配し、苦しめていたモラハラ夫でもあったのだ。彼女はつまりサバイバーなのだ。

 支配的な夫からなんとか逃れられたヒロイン。居場所は隠し、安全な場所のはず。しかし、いつか夫が自分を取り返しにくるかもしれない、という恐怖で彼女の頭はいっぱいで、外も出歩けない。ヒロインの恐怖は、実社会のDV、モラハラのサバイバーが感じる恐怖そのものだ。

 ここから映画は、この「今そこにいないはず夫への恐怖」に、「いまそこにいるかもしれない透明人間への恐怖」を重ね合わせる。それが見事なのだ。

 間違っても、本作は「DV」「モラハラ」というものの“風刺”や“隠喩”の類ではない。それらのような回りくどいやりかたではない。本作はDV、モラハラのサバイバーそのものを描きつつ、「透明人間」という要素を使い、よりその問題を深堀りすることに成功しているのだ。

 

 その後ヒロインは、死んだはずの夫は実は生きており、見えない姿で自分の近くにいることを確信する。

 しかし、周囲の人間(主に男たち)は彼女の言うことを取り合わない。それはまるで、女性の発言を軽んじている男性社会の構図のようにも思える。

 そして、クライマックスでは、それまでの卑劣な元夫のやり方に、ヒロインが見事な形で意趣返しをしてみせる。敵と真っ向から対峙したときのヒロインの“勝負服”が黒いドレスだったことの意味は言うまでもない。

www.bbc.com

 

 本作は、「透明人間」というホコリまみれの古典キャラクターを、現代風にアレンジして見事に蘇らせた秀作だ。「ダーク・ユニバース」と決別して本当によかった。

女が話し始めるときの3つの口癖

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女の人が話し始めるとき、「待って?」「聞いて?」「一個言っていい?」という口癖があると思う。

本当によく聞く印象がある。体感としては、100人中1億人ぐらいに言われる気がする。それぐらいよく聞く。

一方、男からこうした言い回しを聞くことはまずない。100人中マイナス100人ぐらいの体感である。

もっとも、「私はそんなこと言わない」という女性も中にはいるだろう。ここでは「一部女性」としておこう。ああめんどくせ。

 

この口癖をどうとらえればいいのだろう。女性の発言権がなかった時代の名残りなのだろうか。それとも、これは生物学的な性差として片付けられるのか?

 

どちらにせよ、経験上、この3つの口癖が飛び出したときは、「本人の中でエモい感情が湧き上がって来ている状態」であり、「面白い話が飛び出す前」の兆候の可能性が高い。コンサートで言うと、待ってましたというヒット曲のイントロが流れ出した瞬間である。

 

というわけだから、「待って?」「聞いて?」「一個言っていい?」の口癖が飛び出したときは、邪険にしてはならない。「待つよ」「聞くよ」「一個と言わず何個でも」が模範解答。でないと、面白い話を聞き逃してしまう。

 

そもそも、ネットという虚空の空間に投げられた言葉ならいざしらず、リアルの空間で「待って?」「聞いて?」「一個言っていい?」と言ってくれるのは、「言うほどの関係性」がないと始まらない。貴重であり、ありがたがらないとならない。

いずれ、ぼくが老いさらばえて、誰からも相手にされない老人になれば、「待たなくていい」「聞かなくていい」「一個も言いたいことありません」になるのである。いや、そんな言葉も投げかけられず、終わるだろう。

 

文字通り「言われるうちが華」なのだ。

最近、年をとったと感じたまさかの瞬間

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これは親譲りなのか何なのかは分からないが、結構老けにくいタイプだと思う。

父親は早死だったのでよく分からないが、そろそろ60代の母親もよく「若い」と言われるので、比較的若いのだろう。そういう遺伝子を半分は受け継いでいるようだ。

自分自身でもこの歳にしては若いと思っていたのだが、先日、「年をとった」と自覚することがあった。

 

友人と思いがけず、ビデオ通話をしていたときである。

その友達は以前長髪だったが、スマホ画面の中の彼は、自粛期間中にいつのまにか坊主頭になっていた。

ビデオ通話をしていて、ふと気になることがあった。

画面の中でしゃべっている彼の頭部、前頭葉の部分とそれ以外の部分の色あいに、薄っすらとだが確実にセパレートがあることに気づいたのである。

おそらくこれは、坊主頭の薄い部分と濃い部分のセパレートである。あばれる君の頭部で確認できる、あれ、である。


つまり、このセパレートは友人の前頭葉の部分の毛根が死滅しかけていることを意味する。もうそれは虫の息という有様だ。そう、この友達は薄毛になり始めているのだった。

 

このことがぼくにとって驚きだった。

人はいつかハゲる。それは分かっている。しかし、自分は以前、毛根は元気だし、今のところは大丈夫だ。友人の薄毛によって、自分は「いつハゲてもおかしくない世代」になったことを初めて体感を持って気づいてしまったのだ。彼がぼくより3つか4つほど年下、ということも、その衝撃度を上積みする。

薄毛になっていることを通話ですぐに本人に伝えると、友人自身は薄毛の覚悟はとっくにできていたらしく、反応は鈍かった。そのこともかえって印象的だった。


この先、こんな風にどんどん周囲の人間の「老い」を気づき、年をとったことを自覚していくのだろうと思うと、怖いようで、ワクワクもしている。

ハゲた、チン毛に白髪が生えた、わりと笑えない重い病気になった、「おじいちゃん朝ごはんはさっき食べたでしょ」になった、死んだ、などなど。続々と周囲は変化していくのだろう。

 

おそらくぼくは、周囲の人間全員の「死んだ」報告を聞くことになると思う。

なぜなら、以前にも書いたとおりぼくは150歳まで生きるのが人生の目標だからだ。

 

長く生きるのは、森羅万象をより長く「見たい」ためだ。第3次世界大戦を目撃したいし、義体化した人類が100mで3秒台を叩き出すのも見たいし、火星へのテラフォーミング計画が成功した光景も見ていたいのだ。

とにかく、全部見たい。

だからとりあえず150歳までは生きるつもりだ。

 

もっとも、こう書いているぼくの体内で息を潜めている恐るべき病巣がゆっくりと膨張している可能性もあるのだが。

 

健康診断、行こ…。

<外見>×<中身>×<環境> ルッキズムの残酷な構造をえぐるドラマ『宇宙を駆けるよだか』

www.youtube.com

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宇宙を駆けるよだか』メインタイトル

 

ネットフリックスのオリジナルドラマ『宇宙(そら)を駆けるよだか』。若いキャストが集まったいわゆる「学園モノ」なのだが、痛烈なメッセージが含まれている。

 

タイトルの「よだか」とは、おそらく、宮沢賢治の短編『よだかの星』から取られていると思われる。『よだかの星』は醜い外見で他者から疎まれる夜鷹が主人公の作品で、本作も美醜が大きなテーマとなっているからだ。

 

クラスメイトからの人望が厚く、想い人の公史郎と結ばれ、順風満帆な高校生活を送っているように見えた小日向あゆみ 。

ところがある日、クラスメイトの海根然子が飛び降り自殺を図ったところを目撃してしまい、明くる日、目を覚ましたあゆみは、然子と外見がそっくりそのまま入れ替わってしまったことに気づく。

 

■<外見>によって<環境>が変わる

いわゆる「入れ替わり系」の作品は、これまでにも数々の名作、怪作が生み出されている。故大林宣彦監督の尾道三部作の一つ『転校生』や、近年では新海誠の『君の名は。』が記憶に新しい。

 

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変わり種では、警察がマフィアのボスと顔を入れ替え潜入捜査する、ジョン・ウー監督のアクション映画『フェイス/オフ』もある。

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どのジャンルの作品も「入れ替わる前と後の違いによって当事者が味わう苦難」が焦点となっている。


そんな中、本作は「入れ替わり」という設定を使い、「美醜」という問題にメスを入れる。

 

それまでクラスの誰からも顧みられなかった然子は、あゆみに入れ替わったことにより、彼女の取り巻きにちやほやされ、順風満帆なスクールライフを送り始める。

一方、然子に入れ替わってしまったあゆみは、事情を知らず、彼女のことを然子だと思っている友人たちに邪険に扱われ、孤立してしまう。

 

「いつもと同じ学校なのに…。まるで知らない世界にいるみたいだった」

 

然子の<外見>になったあゆみの視点を通して本作が伝えるのは、<外見>が変わってしまうことで、主観的な<環境>も変わってしまうということだ。

クラスのアイドル的な存在であったあゆみの<環境>と、誰にも顧みられない一人ぼっちの然子の<環境>は、同じクラス、同じ空間であろうと全くちがっていたのだ。

 

男と女の入れ替わり(『転校生』『君の名は。』)や、善人と悪人の入れ替わり(『フェイス/オフ』)とは一味ちがう。本作は、「美醜」の入れ替わりによって「ルッキズム(外見至上主義)」が支配する残酷な現実をぼくらに見せつけてくる。

 

■<環境>によって<中身>が変わる

しかし、本作『宇宙を駆けるよだか』の本当に痛烈なメッセージ性は、その先にある。

 

然子はあゆみの<外見>を手に入れさえすれば、全てが変わると思っていた。しかし、人を信じられない性格の然子は、あゆみの<外見>であっても、心安らかになることはできない。不安から周りに当たり散らし、次第に孤立していってしまう。

対する然子の<外見>になってしまったあゆみは、いち早く入れ替わりに気づいてくれたクラスメイトの俊平とともに、元通りになる方法を探るために奔走する。また、然子として学園生活を送りながらも、持ち前の性格で次第にクラスの人望を獲得していく。

あゆみの<外見>に入れ替わってみたところで、<中身>が醜い然子は、変わることはできなかった。反対に、<中身>も清く美しいあゆみは、醜い然子の<外見>になってしまったとしても、周囲の人間たちに醜さを愛嬌と読み替えてもらるようになっていったのだ。

これは恐ろしい話だ。<外見>が美しい人間は<中身>も美しい(だから、醜い<外見>に変えられても這い上がれる)、<外見>が醜い人間は<中身>も醜い(だから、美しい<外見>になっても何も変らない)、というのである。

 

 

しかし、くれぐれも、これは<外見>が美しいならば<中身>が美しく「生まれる」というわけではないので注意。

 

終盤、あゆみへの「入れ替わり」を画策した然子を追い詰め、俊平や公史郎が非難したとき、然子の<外見>を通して、厳しい<環境>を味わったあゆみは、彼女を擁護する。

 

「私は海根(然子)さんを責められない。私、誰か分かってもらえなかった。それだけじゃない。突然傷つけられて、どうしようもなく苦しくて、きっと…海根さんもそうだったんだと思う。そうなったら一人じゃどうにもできないの。強くなんていられないし正しい判断なんてできないよ」

 

数週間どころではない。生まれてからずっと。<外見>が原因で差別される過酷な<環境>にいれば、<中身>が変わってしまうのも仕方がない、あゆみはそう言う。つまり、<外見>によって生きる<環境>が変わり、また<環境>によって<中身>も変わる、というのだ。

 

ではなぜ、然子の<外見>になったあゆみは、それでも挫けることなく、自分を邪険にするクラスメートたちと新たな関係を築けるにいたったのだろう。皮肉ではあるが、それはあゆみの<外見>だったころに培われた、持ち前の前向きな<中身>があったからなのだろう。

 

あゆみが差し伸べた手を、然子は振り払う。

「ちょっと…あたしが間違ってる前提で話進めないでよ。あんたら美形はいいわよね。綺麗ごと並べるだけでそれで正義になれるんだから」

 

そして、然子の<外見>、つまり元の自分の<外見>をまとったあゆみを掴んで立ち上がらせ、俊平、公史郎らに向かって見せつけるように訴える。

 

「この顔で生まれてきても今と同じこと言えんの?」

 

口でどんな綺麗ごとを並べ立てようと、結局は<外見>がすべてを決める――それは、生きてからこれまで<外見>に苦しめられ続けた然子の心の叫びなのだ。

 

本作『宇宙を駆けるよだか』は、少し簡略化してはいながらも、<外見>、<中身>、<環境>の3要素の複雑な絡み合みあったルッキズムの絶望的な拭いがたさを見事に表現している。

 

なお、本稿ではあえて詳しく触れないが、「2人2役」という複雑な入れ替わりの設定を見事に演じきった清原果耶(あゆみ→然子)、富田望生(然子→あゆみ)の2人の演技力は圧巻だ。

これが2020年の『若草物語』 グレタ・ガーウィグが仕掛けた素敵な“詐術”

「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」オリジナル・サウンドトラック

 

古典的な名作をリメイクする際には、当然ながら、超えなければならない「ハードル」がいくつかある。

ルイーザ・メイ・オルコットの超超超有名古典『若草物語』を、いま一番イケてる(死語)監督の一人、グレタ・ガーウィグと、『レディ・バード』でヒロインを演じたシアーシャ・ローナンティモシー・シャラメが再結集してリメイクした『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/私の若草物語』は、今後、そんな古典作品のリメイクについて考える上で試金石になるかもしれない。

レディ・バード (字幕版)

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4姉妹をシアーシャ、エマ・ワトソン、そして新進気鋭のフローレンス・ピューらが演じ、生き生きとした姉妹の風景を作っている。さらに姉妹たちを魅了するヨーロッパ生まれの青年ローリー役のティモシーとはしゃぐさまは、あらすじは分かっていても、観ていて楽しい作品に仕上がっている。

 

冒頭で書いた古典リメイクの「ハードル」。1つ目は「語り口」「テンポ」だ。いかに名作でも、現在の観客からしたらキツいのは、テンポやストーリーテリングが平板なことにある。本作『若草物語』も1949年版を観たことがあるが、時系列で淡々と4姉妹のストーリーをつむいでいくだけのため、言い方は悪いがかなり強烈な睡眠導入剤と化す。

 

その点、本作は心得ており、時系列を複雑にいじることで、平板な物語に命を吹き込んでいる。ストーリーはシアーシャ演じる次女ジョーがニューヨークに滞在しているところから始まり、ベスの看病で帰郷するまでの間に、回想シーンで幸福な4姉妹のときを断片的に見せていく。これが現代的で、本作を「古くて新しい物語」として蘇らせていることに成功している。

 

しかし、本作の本領は、そうした「語り口」とは別のところにある。

それが、古典の名作をリメイクするために超えなければならない「ハードル」の2つ目に関係する。それは「価値観」である。現在『風と共に去りぬ』の黒人描写が、時勢とともに絶賛クローズアップされているのだが、何事も時代的な制約は免れない。

www.cinematoday.jp

 

旧態依然とした価値観を、現代にそのまま描くことはできない。本作はその「ハードル」をいかにして飛び越えたのか。

 

<ココからはネタバレなのでご注意>

妹ベスの死に悲嘆に暮れるシアーシャ演じるジョー(作者オルコットがモデルとされている)は、思い立ち、自分たち姉妹についての物語を書き上げ、出版社に送る。

 

その後、再会したベア教授と再会し、彼と結ばれるジョー。

 

ここまでなら、既存の『若草物語』のままである。

しかし、ここで本作にはある「詐術」的なシーンが差し込まれる。送った原稿が編集者のお眼鏡にかない、出版されることになり、ジョーは編集者の元を訪れる。そこでジョーは、作中のヒロイン、つまり自分がモデルのキャラクターについて「結婚させてハッピーエンドにしないと売れない!」という編集者の意向をしぶしぶ飲み、ヒロインを結婚させることにするのだった。

 

実は、この「編集者との会話」シーンは、原作にはないという。原作は手元にないが今回試しに「1949年版」と、「1994年版」の映画『若草物語』を確認してみたが、たしかにそんなシーンはどこにもない。両作とも、ジョーの原稿はいつの間にか出版されており、彼女の伴侶となるベス教授がいかにも恩着せがましく本を持ってきて、彼女を喜ばせるのである。

 

この「編集者との会話」のシーンに、いかなる意図があるのか。

原作者のオルコットは、「女性は結婚するのが当たり前」だった当時において生涯未婚を貫き、自身の文才によって身を立て、貧しい家族を養っていたーー当時の女性としては圧倒的にマイノリティだった。そんな彼女の代表作にして、自伝的小説の『若草物語』では、彼女の分身ジョーが結婚しているのである。

 

ガーウィグの挟んだ「詐術」的なシーンが描こうとしているのは、ジョー=オルコットが、「わたしの物語」の結末において自身の意志を貫けなかったことへの悔しさ、もしくは、信念を曲げてでも作品としての爆発的なヒットという「実」を取った、というしたたかさだったのではないか。

 

どちらにせよ、「編集者との会話」のシーンが一つ挟まれたことによって、映画はより多層にも複雑化する。なぜなら、「女性の幸せは結婚」という旧態依然とした価値観は、ジョーが「強いられたもの」あるいは「あえてそうしたもの」という強烈なエクスキューズが挟まれるからである。かくして、『若草物語』は、「時代的な制約」を「制約」としてあえて「可視化する」という戦略によって、現代に蘇る。

 

この企画を知ったとき、ぼくは「今さら『若草物語』?」と感じた。なにしろ、最終的に生き残った3姉妹が全員夫をもうけ、幸せに暮らすというストーリーである。これだけ生き方の多様性が叫ばれる時代に、真正面からそのまま描くのはあまりにも窮屈だ。果たしてそれは、2020年の観客に受け入れられるのだろうか。たとえ、グレタ・ガーウィグの手腕を持ってしても。

 

しかし、見事な形でその予想は裏切られた。本作が、今後の古典リメイクに与える影響は果てしないだろう。

壮観な会社版「強さのインフレ」ケヴィン・スペーシー主演『マージン・コール』 大企業勤めの人ほど観てほしい

マージン・コール(字幕版)

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 ケビン・スペイシー主演の金融映画『マージン・コール』。舞台は2008年の大手投資会社。「リーマンショック」の爆心地である「リーマン・ブラザーズ」をモデルにしている。難しい金融の仕組みとかはあまり考えなくても観られる面白い作品だった。

 

 世界的な金融危機を引き起こすことがほぼ確定した金融マンたちの、危機が表ざたになる前の罪悪感、葛藤などが描かれるのだが、「お前ら給料いくらもろてんねん」と、文字通り自分とは桁違いの年収に閉口しているぼくからしたら、そうした感情の部分では一つも共感するところはなかった。また、本作から学べるのは、金融業という「虚業」に対する警戒心でもない。


 そうではなく、この映画は「とんでもない問題が発覚し、雪だるま式にどんどんエライ人が登場していく様」が楽しいのだ。


 新しい『スター・トレック』シリーズでスポックを演じるザカリー・クイント。彼がピーターという、いかにも下っ端っぽい下っ端のリスク管理部門の若手社員を演じているのだが、ピーターが、解雇された上司から「用心しろよ」という言葉とともに謎のUSBを受け取る。

 

 ピーターがUSBの中身を分析したところ、あらびっくり。100年以上の歴史を誇る会社が余裕で吹き飛び、さらに世界がパニックとなるレベルのリスクがもうすぐ、確実に破裂することが分かったのだ(このあたり、ボランティアだかボラギノールだか、難しい言葉が連呼されるが、とりあえず「未然に防げたけど軽視したせいで莫大に膨れ上がったリスク」だと理解しておけば良い)。


 これに慌てたピーターくん。アフター5にバーで飲みちらかしていた同僚と、眉毛なしで顔が怖い直属の上司をわざわざオフィスまで連れ戻して事態を報告。伝えられた2人も秒でこれはやばいことだと悟る。


 さあここから、社内の権力のピラミッドを縦に突っ切っていく伝言ゲームが始まる。そこそこえらいケヴィン・スペーシー演じるサムに事態が伝わり、さらにさらにサムより上のデミ・ムーアや、寒いよりだいぶ若そうな重役が呼び出され…と雪だるま式にどんどん会社のえらい人たちが担ぎ出されていき、最終的に会長が会社の屋上にヘリコプターで降臨する。


 かくして、ど深夜に会社のトップたちが会議室に一堂に会することになる。そこに、ヒラの社員なのにリスク発見者として呼ばれるピーター。まるでそれは漫画『キングダム』で、まだ一兵卒だった信の前に、名だたる将軍らが一堂に会する壮観な眺めだ。そう、これは「会社キングダム」なのだ。


 ここで興味深いのは、普段はあんなに怖そうな眉毛なし上司が、ピーターたちと身近に見えてしまうこと。全く距離は変わらないはずなのだが、彼も会社の全体像で見ればまだ下っ端で、ピーターたちと一緒に会議室では借りてきた猫のようになってしまう。あまりに強大なVIPたちが現れたせいで相対的に距離が縮まった(かのように錯覚できる)のだ。


 こうした何層にも渡る権力構造が面白いのは、いわば「強さのインフレ」だからだろう。「え!?あのベジータフリーザの怖さの前に震えて泣きべそかいてる!」と衝撃を受けた、あのときと同じである。男の子ってこういうの好きね~と言われればそれまでなのだが。


 話は少し変わるが、本作でケヴィン・スペーシーが演じるサムは、なかなか複雑なキャラクターだ。映画冒頭では、社内で大量解雇が断行され、多くの社員がクビになる。ここで、デスクに突っ伏して涙するサムが登場。大量解雇への申し訳なさで泣いているのかと思えば、どうやら違う。飼い犬が死にそうだから泣いていただけらしい。あなた何人もを野良犬みたいに即日で外に放り出してるんですけど…。ここで眉毛なし男がマジかよ、とドン引きするのだが、サムにとっては部下たちをクビにすることなど朝飯前。むしろ、解雇を免れた社員たちに「君たちは有能で、チャンスを与えられたんだ」と発破をかける材料にすらしてしまう。


 ここだけ見るとドラマ『ハウス・オブ・カード』での利益のためなら人をも殺す大統領役に近似するように見える。しかしサムは、会長が会社を守るためにある「マナー違反」を犯すことを決断した際には、真っ向から反対し、止めようとする。部下の解雇にはあんなに冷淡だったにも関わらず、だ。


 ここから、前半で起こった「冷淡に見えた解雇」はサムの性格的な気質というより、彼の能力主義を極限まで追い求めたスタイルであったことが導き出される。そして、高潔な職業倫理があるからこそ、相手が会長とて不正を見逃せなかったのだ。彼はきわめて倫理的だということだ。


 とにもかくにも本作は、権力のヒエラルキーが何層にも積み重なる大企業に勤めている人ほど面白く感じると思う。