いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「Mリーグなんてただの“運ゲー”じゃん」と絶望した俺が不死鳥のごとく蘇るまで

本ブログでも何度かは書いていることだが、ここ数年麻雀にハマっている。麻雀は自分でプレイするのも楽しいし、プロが打っているのを見るのも楽しい。

しかし、そんな麻雀について考えれば考えるほど、麻雀への「愛」、とくにMリーグなどの競技麻雀への「愛」が揺らぐようなことが起こってしまった。それは、麻雀というゲームが抱えている本質的な要素について。

■ 麻雀の強さは「長い目」で見ないと分からない

※ここからしばらく麻雀に詳しい人なら「知ってるわ」という話が続きます。

麻雀を打ったことがある人なら分かることだが、半荘を1回打ったところでその人が強いか弱いかどうかなんて分からない。麻雀の勝ち負けは多分に運も作用してくるため、そう簡単には決められないのだ。

よく言われている話だが、麻雀の実力は同じ打ち方で2000半荘(※1試合とほぼ同義)ほど打って初めて分かる、と言われている。一方、以前、最高位戦日本プロ麻雀協会所属のプロ雀士で、Mリーグ・赤坂ドリブンズ所属の園田賢は、You Tube番組に出演した際、麻雀AIに同じ打ち方で5000半荘打たせたあと、さらに5000半荘打たせたところ、全く結果が異なっていた、という話をしていた。

感情のない機械が、文字通り機械的に同じ打ち方で5000回という途方もない回数を打ったとしても、結果が安定しなかった。つまり、5000半荘打っても実力値が定まらなかった、というのだ。

これは、麻雀という運と向き合わざるを得ないゲームにおける「下振れ上振れ」がとても長いスパンで起こり得る、ということを意味している。

 

プロ野球首位打者の話を例に出してみよう。もし、ズブの素人でもなにかの奇跡で1打席目で1安打できるかもしれない。記録では1打数1安打で夢の「10割打者」だ。では、彼が「首位打者」になれるかというと、なれはしない。「規定打席」というものが存在し、ある一定の打席数を超えなければ首位打者には認定されないのだ。

麻雀の世界にこれを置き換えたとする。打ち手の実力が決まるとされる「2000半荘」を「規定打席」とするならば、競技麻雀の大会やリーグ戦のたった数百半荘の結果など、そのほとんどは「規定打席未達」ということになる。

Mリーグについて考えてみると、2023~24シーズンは各チーム96試合。ほぼ100試合、いや、「たった」100試合なのである。Mリーグはレギュラーシーズンのあと、セミファイナル、ファイナルという短期決戦へ舞台を移す。しかし、なんのことはない。そもそもレギュラーシーズンも合わせたとしても、Mリーグは麻雀における「短期決戦」なのだ。

Mリーグだけではない。各プロ団体のリーグ戦だって、ほとんどは1シーズンで100半荘にも満たないだろう。「規定打席未達」である。つまり、怒られるのを覚悟でいうならば、Mリーグを始めとする競技麻雀のほとんどは、麻雀のゲーム性からすると「運だめし」に近いものがある、ということなのだ。

麻雀を好きになって、好きだからこそいろいろ勉強してさらに好きになった末に、この「真理」に行き着いてしまったとき、足元がグラグラ崩れていくような感覚に陥った。麻雀はたしかに面白い。やるのも見るのも面白い。時間を吸い取られていく。しかし、Mリーグや麻雀最強戦などの「超短期決戦」という名の「運だめし」の勝った負けたでいちいち一喜一憂をする意味は本当あるのか? 誤解を恐れずいえば、「たったその試合数で優勝を決めることって、不毛ではないですか?」、という気分になってしまったのだ。

■ 麻雀界は将棋界になる夢を見るか

この辺の話題について、最近読んだ麻雀プロ・黒木真生さん(以下敬称略)の著書『誰が麻雀界をつぶすのか』でも触れられていて、面白かった。

麻雀関連の書籍というと、戦術本や教則本、点数計算の本などが大半だが、本書はそういった著書とは一線を画し、メディアとの関わり方やファンのあり方、さらに麻雀界隈のゴシップ、とりわけここ最近のそれに触れているため、麻雀界、特にぼくのように「符計算もおぼつかないがMリーグは見ている」という層(そんな人いないだろ、と思うなかれ。実はけっこういるのだ)は絶対楽しめると思う。

本書の中で、今まさにここまで論じてきた「(麻雀の実力を測るにはあまりにも試合数が少ない)Mリーグなどで勝っただの負けただの盛り上がる意味があるのか?」という話題に触れられている箇所がある。「麻雀界が将棋界を模倣するのはナンセンス」という章だ。

黒木は、将棋界に憧れている人が麻雀界の中に少なからずいると指摘する。要は「プロと名乗る人たちが『プロとして戦い続けること』だけで食べていける」という環境への憧れだ。章のタイトルのとおり、黒木自身は麻雀界の将棋界化について「ナンセンス」だと否定的で、さまざまな理由を上げているが、その1つとして麻雀は「誰が強いのかわかりづらい」という小節で、「2000半荘」の問題に触れている。少し引用しよう。

 真面目な話、大会のたびに2000回ぐらいやれば強い人のカタマリが形成されるだろう。(…)

 だが、2000回という数字を見てどう思うか。毎日10試合やっても200日かかるのである。そうなると、1試合ごとの視聴にハラハラドキドキはなくなるだろう。数字の上下で緊張感が走ったりするかもしれない。麻雀を見ているというよりは、株とかFXの値動きを見ているような調子である。

 このようなシステムの「プロ麻雀界」に多数のファンがつき、それを「宣伝媒体」として価値を見出した企業がスポンサードしてくれれば、麻雀は将棋の世界に近づけるかもしれない。だが「多数のファンがつく」というところで挫折する。100%無理である。理由は面白いと思う人が少ないからだ。こういうものは自分が参加してはじめて面白いのであって、ただ見ているだけでは「退屈な数字の上下」でしかない。

p154

麻雀界が、将棋界と同じように「誰が強いか」を明確に示すために対局数を2000の大台にまで増やしたとしたら、今度はエンタメとして成立しなくなる。つまり、企業がスポンサードする価値のある宣伝媒体ではなくなってしまう。あちら立てればこちらが立たぬ、というわけだ。

「毎日10試合」とあるが、日頃、各団体のリーグ戦などの放送対局4半荘(ないし5半荘)を昼間から夜までにぶっ続けで見ている物好きな人なら「10試合」がいかに非現実的で途方もない数字かが分かるだろう。残念ながら、黒木の指摘はかなりリアリティがある。2000半荘についてくる「ガチ勢」はたぶん少数派だ。

■ 将棋には将棋のよさ。麻雀には麻雀のよさ

黒木はそうした麻雀界にはびこる将棋界への憧れを否定した上で、将棋には将棋のよさ、麻雀には麻雀のよさがあると指摘する。

どっちが勝ちでどっちが劣るとか、そういう話でもない。麻雀には麻雀の良さがあって、それは強い順番に人をランキングして並べることではない。2000回やらないと無意味と言われている中で、たった半荘1回にいろんなものを賭して戦う人の姿を見て、我がことのように喜んだり泣いたりしてくれるファンがいる。麻雀最強戦も、そういった世界観があって成り立っている。この矛盾こそが麻雀の良いところではないだろうか。

 麻雀は楽しいし、理不尽だし、意地悪だ。でも、その不条理を楽しめるのが雀士の懐の深さではないか。囲碁や将棋のように「強いものが勝つ」という残酷さの代わりに「強いのになぜか負ける」という残酷さを選んだわけだから、将棋の世界への憧れやこだわりはいったん置いて、どうやったら麻雀をもっと楽しんでもらえるかを考えるべきだろう。

p156-157

そうなのだ。「こんな麻雀の実力が測れない短期決戦で勝った負けたをやる意味がある?」と思いながらも、現にそのあとも、相変わらずMリーグなど競技麻雀の結果一つで我がことのように手に汗握っていることに気づく。

麻雀の理不尽さ、そして無情さ――それらを煎じ詰めたような代物が、たった半荘で「最強」を決めると謳っている麻雀最強戦だろう。麻雀をしていて1半荘で一度もいい手が入らなかった、なんてことはいくらでもある。そんな麻雀の性質を知っていてもなお、やり直しなし、待ったなしで「最強」という称号を争うのである。こんな理不尽で不合理で無情な話があるだろうか。

でも、そうした自分の「理性」の訴える声になんて耳を貸さず、最強戦の泣いても笑っても1半荘に釘付けになっている自分がいる。

麻雀はドラマの宝庫だ。切る牌の選択一つ一つが積み上げていくドラマ、喰い流れによって生まれるドラマもあれば、「たられば」の海へ流れ去っていくドラマもある。卓を囲んだ4人の思惑が、意図せず絡み合い、予想だにしない結末へ連れて行ってくれる。それが面白いのだ。

だから「意味があるのか?」という自分の立てた問いに対しての答えは「そんなことはどうだっていいんだよ。麻雀は面白いしMリーグは面白いんだよ」。

■ 麻雀の“最強”とは「王と大谷、どっちがすごい?」みたいなものかもしれない

くどいが、麻雀は楽しい。しかし、麻雀に没頭すればするほど、麻雀の理不尽さに精神をやられる回数も増えていく、この皮肉。もはや「惚れた相手が悪かった」と嘆くしかないのかもしれない。

では、麻雀における「最強」とはなんなのだろうか。もしかするとそれは、野球で言う「王貞治大谷翔平、どっちがすごい選手だろう?」みたいな議論なのかもしれない。どちらも球史に名を残す偉大な選手だが、どちらがすごいかなんて簡単に決められるわけがない。プレーした時代が全く違うし、環境も違う。「もし大谷がまだ日本でプレーしていたら王の868号を超えることはできたのか」という議論も、彼が海の向こうへ行ってしまったから推測の域を出ない。

ここまで書いてきたとおり、麻雀では実力を知る上で2000半荘が必要とされ、さらに細かいルールの違いさえある。そんな麻雀で「最強」が誰かなんて簡単に決められない。麻雀における「最強」も、「王と大谷のどっちがすごい?」と同様に、雲をつかむような話なのかもしれない。

Mリーグ新シーズン開幕 注目は愚直な“実力至上主義”のあのチーム

今日からMリーグ2023-24シーズンが始まる。

今シーズンのMリーグで個人的に注目するのは新生ドリブンズだ。優勝した初年度はともかく、過去4シーズンで「Mリーグは実力だけでは勝てない」と痛いほど思い知らされたにも関わらず、愚直に「実力」のみで新メンバーをスカウトし、巻き返しを誓う彼らの頑固さが、吉と出るか凶と出るのか。

それから、そんなドリブンズと設計思想が全くちがう、新チーム・BEAST Japanext。そして自分が応援しているTEAMS雷電。昨シーズン、チーム解体の危機からファイナル初出場をつかみ取りはしたけど、最後は悔しい思いをした分、今季初優勝するドラマのお膳立ては整ったと思っている。

 

日本のビジネス界の風雲児、藤田晋が立ち上げたMリーグ。彼が前出の番組に出た際にその苦労を語っていた。


麻雀好きであると同時に凄腕の打ち手としても知られ、最強位を獲ったことでも知られる彼だが、そんな彼を持ってしても麻雀、とりわけ雀荘の収益構造には絶句していたのを覚えている。日本屈指のビジネスマンから見ても、元来麻雀とは「儲からないもの」なのだ。

そんな藤田が一念発起して立ち上げたMリーグに今、ようやく火が付き始めている。それは、ほとんど何もない無人島でかき集めた木片を必至に擦って擦って擦った末に煙の中にかすかに見えた種火のようなものかもしれない。その種火を絶やさぬように、できればもっと大きな炎にできるように、一ファンとして微力ながら見守っていたい。

ヤマもオチもない…でも確実に大切なことを「言いよどむ」映画『アシスタント』

映画館で配られていたポスター。観終わった後に見ると多面的な意味が浮かび上がってくるいいアートワーク

観終わって、まだ観ていない人に説明しようとするときになって、気づく。あれ? あの映画は何を描いたんだろう? ヤマもオチもなかった…と。でも、それは「つまらなかった」という意味ではない。むしろヤマやオチがなかったことで生じる、観終わったあとのモヤモヤした気分それ自体が、この映画の用意したギフトのような気がする。

 

本作『アシスタント』は、あるエンタテイメント企業でアシスタントとして働き始めたばかりのヒロインのある一日を淡々と描く。カメラは片時も彼女から離れない。さながらそれはドキュメンタリーのようだが、監督が、かの「ジョンベネ殺害事件」の当事者にフォーカスした映画で知られるドキュメンタリー出身の監督というのも納得できる。

伝わってくるのは、ヒロインの就くアシスタントという補助職に対する社内の「軽視」である。決してそれは「差別」でも「蔑視」でもない。そのレベルにまですら行ってない、そんなことすらする必要がないと言わんばかりに、彼女が存在自体を軽んじられている雰囲気がある。彼女自身はそんなことにはめげず、業務と業務の間を取り次ぐような補助の仕事を懸命にこなしている様が描かれる。

 

そんな中、ヒロインは不運にも社内の絶対的な権力者である「会長」の機嫌を損ね、激しく叱責されてしまう。どがつくほどのパワハラである。自身を人格否定する電話口の男の怒声を、唇をかみしめながら受け止めるヒロイン。それが終わったあたりで、いそいそと集まってきて、頼んでもいないのに謝罪メールの添削をしてくる同僚男性たちがこっけいだ。かつてネット編集者・中川淳一郎氏が、「我々が真面目に働くのは『怒られないためだ』」という名言を残しているが、怖い上司のカミナリを巧みにかわすのもサラリーマンのテクニックなのである。と、ここは見ながらうなづいてしまった。

 

そんな社内のone of themにまだなりきれていないヒロインは、ある「不正」を嗅ぎ分ける。でもそれは、会社に長くいる者からしたら、日常過ぎてもはや不正と感じられないような不正だ。ヒロインが意を決してそれを上司に報告に行くが…。彼女を待っていたのはあまりに非情な結末だった。

 

一番早く出社して、会社の電気が消えるまで働き詰めだった彼女。酷い怒られ方もしたし、今日も会社の人は自分の目を見て会話してくれなかった。ただ、それは「あまりに劇的に酷い一日」ではなく、せいぜい「あまりよくない一日」止まりだ。でも、これが金太郎飴のある切った断面の一つだとしたら? この「あまりよくない一日」が以降も延々と続いていると考えたとき、ゾッとするすごみがある。 かつて『世にも奇妙な物語』で放送された名作「懲役30日」と同じ怖さである。

 

映画の終盤。ヒロインはその日、誕生日だった父親に対して、お祝いの電話をかける。ヒロインの今の状況を知らない父親は、競争率の高い企業に入れた娘をほめたたえ、最後に「お前なら“上手く”やれるよ」と声をかけて電話を切る。果たして父親のいう「上手くやれる」とは、どういう意味なのだろう。それは、「お前ならその会社を上手く正せる」「この試練を乗り越えられる」という意味なのだろうか、それとも「お前もその会社の風土に順応できる」「one of themになれる」という意味なのだろうか。ファストフード店を出て、とぼとぼと家路につくヒロインのラストカットを見て、そんな風に考えてしまった。

たとえば『SHE SAID/シー・セッド その名を暴け』が提供したような、白黒はっきりした分かりやすいことを言い切らない。本作『アシスタント』は常に「言いよどむ」。しかし、その「言いよどみ」が、鑑賞者の思考を加速させずにはいられない。

「常連客」になる才能がない

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会社帰りに家の近くで行ってみたかったお店に3軒に立て続けに満席を理由に断られ、仕方ないとはいえ流石にテンションが下げながら松屋に流れ着く。今トンテキ定食を食べているところである。

みんなの食卓でありたい松屋である。なかなかの大風呂敷を広げたコピーだけど、いい線をいっていると思う。

松屋に入ってみて思ったけれど、チェーン店が繁盛しているのは必然だと思う。個人店3軒に断られた直後だということもあるけど、快適だ。その快適さはどこからくるのかというと、徹底した客への「無関心」だと思う。

松屋の店内では「サービス向上に努めております」と録音した女性の声が延々流れているけど、そんなことしなくていい。むしろ、今のままでいい。放置されたい。向上すんな。個人店にないチェーン店の魅力は、客が徹底的に個体性を剥奪されているところだ。

もう38になったが、いまだに初めての個人店を訪れるのは緊張する。あれは、チェーン店と逆に1人の人間、個体として識別されることへの緊張感なんだと思う。とくに、バイト募集などの張り紙で「人材」ではなく「人財」などと書く、「いらっしゃいませ」の声が大きい個人店はだいぶストレスを要する。

一方、松屋なんて最近ではタッチパネルが導入されたことでさらに「無関心」が加速し、文字通り客が番号で呼ばれるようになってきている(正しくは番号で呼ばれているのは持っている食券の方だけど)。あれがよくない、のではない。あれぐらい放って置かれる方が居心地がいいのだ。

 

有名な「燃料補給のような食事」という絵画がある。飲食店と思しきカウンターで、画一的な表情の店員が、自動車にガソリンをつぐような器具で客の口に食事を注いでいるような光景を描いた絵だ。作者の真意はわからないけど、飲食チェーンに対してのかなり否定的なニュアンスが伝わってくる。けれど、僕は、「そういう画一的な扱いを受ける方が居心地がいい人だっているんだよ」と反論したい。

石田徹也全作品集

人間、38歳にもなると、自分について分かったことがある。「常連客」には向いていないということだ。

少し前までは、近所に行きつけの店を作って、あわよくばそこの「常連客」になりたいというスケベ根性がまだあった。入ったら「ああ、今日はちょっと早いね」なんてマスターに言われる、そういうコミュニケーションが発生するような「常連客」、いいじゃない。

でもね。だめなのよ。いくら同じ店に通っても「常連客」に自分はなれない。せいぜい「よく来る人」止まり。

なぜなのか。最近気づいたのは、それは相手の問題ではないということ。「常連客になりたい」とは言いつつも、実は「放っておかれたい」「放置されたい」というオーラを放っていたのだろうと思う。誰が悪いということではなく、自分に「常連客」になる才能がなかったのだ。なれないことをするもんじゃない。

 

今後も個人店は行く。おいしい店が多いからね。でも、「常連客」になることは諦めた。

ところで、松屋の期間限定のトンテキは本当にうまい。帰路で、これまたチェーンのコンビニ・ファミマでスイーツを買って帰る。これまたうまかった。

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『まつもtoなかい』が“かとりtoなかい”以上に本当に見せたかったもの

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先週の『まつもtoなかい』で中居正広香取慎吾が“再会”したシーンは、間違いなく今年のテレビバラエティ史のハイライトの一つになるだろう。

 
 
 
 
 
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香取慎吾 Shingo Katori(@katorishingo_official)がシェアした投稿

もうすぐTVerの配信が終わってしまうので、もう一度見てしまった。

tver.jp

冒頭、あの松本人志をして「この世界に入って初めてよ。(2人の絡みを)邪魔せんとこっって(思った)」と言わしめたのである。あらゆる番組の空気を自身の放つ強烈な磁場で全て支配下においてきたあの男が、今から起きる現象を一歩引いてみることを予め宣言したのである。それぐらいの異常事態だった。

いや、本当にすごかった。全シーン、全秒が注目すべきなのだけど、まず印象に残ったのは、松本が2人に連絡を取り合っていたのか? と聞いた場面。

中居「連絡はどうでしょう?」

香取「どうするんですか? 僕はゲストなんで」

(…)

中居「メールは…(笑)」

松本「してたの?(笑)」

香取「別にいいんですよ。僕はゲストですし、久々にこんな場に呼ばれたんで僕は何でも話しますよ」

松本「そうっすね!」

香取「でも自分だけで勝手にバッて言うのも…」

中居「話しますよ?」

香取「全然いいですよ」

この会話の間には、中居と香取の間で言葉だけでなく幾重にもアイコンタクトが交わされたように映る。公にされていない、2人の空白の6年の間の関係性に踏み込むのか、踏み込まないのか。自分には準備はできている。でも、あなたは大丈夫ですか? 困ることはないですか? 時にすっとボケたり突き放したり、おもしろおかしく盛り上がったトークの内容以上に、本心ではお互いがお互いの現在の立場を思いやっていることが伝わるシーンだった。

 

でも、それ以上のハイライトは、香取が歌唱を披露する後半部分に待っていた。3人でのトークしたセットとは別のセットに、まず最初に松本と中居が現れた。彼らが出てきた瞬間、客席にいた観覧客が異常なほど盛り上がったのだ。その盛り上がりは、単に松本と中居という人気タレントが出てきただけでは説明しがたい、どこか「信じられないことが起きた」という半狂乱に近いものだった。

これにはわけがある。番組ではここで観覧客について「香取慎吾が出演する架空の番組の観覧としてファンクラブ会員がスタジオに!」と説明されている。つまり、彼らは香取のファンであり、そんな彼らの前に「現れるはずがない」、いや「現れてはならない」はずの中居が登場したのである。香取はその時点ではまだセットに出てきていなかったが、当然彼らには「今から起きること」がうすうす分かっている。中居と香取の2ショットが約6年の時を経て叶う。その前まで、まるで日常として享受していたのに、ある日突然見られなくなったあの光景が。ここはそういう場なのだと。半狂乱に近い盛り上がりの理由はそれだ。

ファンのなかには口元に手を当てた例の「私の年収低すぎ」ポーズのまま固まってしまった人や、まだ香取が出てきていないにも関わらず泣き出した人もいた。今まで抑えていた感情が堰を切ったように流れ出しているのだろう。カメラはそんな観客の表情をつぶさにとらえていく。

SMAPに強い思い入れのない、ごくごく一般的なテレビ視聴者として、この番組を見ていて一番感情を動かされたのはここだった。うれし涙を流すファンの姿をみて、間接的に「ああ、共演が実現して本当によかったね」という気持ちが去来する。中居と香取の共演した瞬間それ以上に、「とんでもないことが起きた」という実感が持てたというか。その意味で、この番組の作り手が観覧客を入れたというのは、勘所をよくわかっているとしか言いようがない。中居と香取を共演させるだけでなく、それをファンに間近で見せる、それに大きな意味がある。

 

一方で、ここからは推測だが、放送するフジテレビにとっても、この「共演」をファンに見せることが、ある種の「禊」になっているとも感じる。

SMAPのファンではないが、外野から見てもかの日本を代表するスーパーグループの解散までの道程は異様であり不自然だった。28年という長大な歴史を持つグループにしては、あまりにも不義理な終わり方だったと思う。

思えばあの年、SMAPの解散は徹頭徹尾ファンを締め出した密室で決まっていった。メディアを通してさまざまな憶測が流れるが、肝心のメンバーたちの肉声はほとんど聞こえてこない。一旦は存続を表明し、生放送で彼らが何が起きているのか説明するのかと思えば、口から出てきたのは強大な権力者である所属事務所の社長への謝罪と感謝。結局グループは解散に傾き、最後まで彼らの口から真実が語られることはなかった。

当時フジテレビはその「ファン不在」の展開に、『SMAP×SMAP』という彼らの冠番組を放送する形で密接に関わっていた。今回の『まつもtoなかい』が、あの年、SMAPを喪失したファンへのせめてもの償いのように感じたのは僕だけだろうか。だからこそ、ほんのごく一部であるが、悲しませたファンにその再会の場を体験してほしかったのではないだろうか。ファン不在の密室で決まった解散であるなら、彼らを再会させる時には、ファンの前でなければ、と。

 

今回の放送は、(たぶん)関係各所への働きかけ、根回し、説得などいろんな大人がかけずり回って成し遂げた仕事だと思う。今書きながらふと、2010年代以降、日本のバラエティ史に残る「再会」はすべてフジテレビが手掛けていることに気づく。松本と爆笑問題太田光の「再会」、お笑いコンビ・アンタッチャブルの「再会」、そして、今回の中居と香取の「再会」。

この3つの「再会」については、テレビのすごさをまざまざと見せつけられたし、本当にワクワクした。日頃はあーだこーだと言われがちな8チャンネルだが、彼らに期待することをやめられないのは、たまにこれがあるからなのだ。

【2022年のおすすめ映画】俺デミー賞発表!【今年もお疲れ様でした】

 

年末恒例の年間映画ランキングのお時間です。

今年は劇場、配信含めて561本を鑑賞。前年比でなんと107本も減少してしまいましたが、これは映画への情熱が冷めたわけでも、仕事への情熱が突然湧いてきたためでもござません。スプラトゥーンと麻雀のせいです。人間の1日は24時間らしいのですが、神様、どうにか拡張できないでしょうか。

ということで、その561本の中から2021年以前公開の旧作を除き、今年日本公開、配信でおもしろかったよ! という映画をご紹介。各部門賞から発表し、最後にベスト10になります。

なお、すでに配信されているものにはAmazon Prime Video→AP、U-NEXT→UNNetflixNFディズニープラスD+と表記しています。お正月暇な時におたのしみください。優しいな俺。

【目次】

 

【来年もこんなおもしろい邦画が観たいで賞】

さがす AP

MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない

愛なのに AP UN

ある男

 

【“好き”を突き詰めるってなんて素敵なんで賞】

ハケンアニメ! AP UN

さかなのこ UN

メタモルフォーゼの縁側 UN

 

【馬鹿みたいに長い映画なのに時間を忘れて楽しめるで賞】

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム(148分) AP D+

ハウス・オブ・グッチ(157分) UN

THE BATMAN-ザ・バットマン-(175分)NF

RRR(179分) 

エルヴィス (159分) UN

 

【作った人に「ありがとう!」と言いたくなるで賞】

トップガン マーヴェリック →最高の続編を作ってくれてありがとう!

ゴーストバスターズ/アフターライフ →故ハロルド・ライミスさん追悼演出ありがとう!

キングスマン:ファースト・エージェント →想像以上の“エピソード0”をありがとう!


【監督の作家性が爆発していて感動するで賞】

ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス D+ ※監督:サム・ライミ

 

【観る前は超不安だったけど、蓋を開けてみたら超おもしろかったで賞】

NOPE/ノープ AP

THE FIRST SLAM DUNK

 

【今年一番の迷作で賞(褒めてます)】

シャドウ・イン・クラウド AP UN

 

【彼女の生き方、全面的に支持したいで賞】

わたしは、最悪。

ザリガニの鳴くところ

秘密の森の、その向こう

ドント・ウォーリー・ダーリン

 

【内容もさることながら技術にびっくりしたで賞】

チェチェンへようこそ ―ゲイの粛清― AP ※出演者の安全を守るため、本人と他人の顔を合成したディープフェイクの技術に対して

 

【いろいろあったけど、やっぱりいい俳優で賞】

宮松と山下※主演:香川照之

 

【今年も韓国映画はめちゃくちゃおもしろかったで賞】

奈落のマイホーム

ただ悪より救いたまえ

犯罪都市 THE ROUNDUP

 

【おもしろかった今年配信の作品】

アテナ Athena NF

レイマン NF

我々の父親 NF

おやすみ オポチュニティ AP

Untold: 世紀のヨットレース NF

ハート・ショット NF

 

【年間ベスト10】

第1位 アテナ Athena

第2位 さがす

第3位 THE FIRST SLAM DUNK

第4位 NOPE/ノープ

第5位 スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム

第6位 RRR

第7位 さかなのこ

第8位 ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス

第9位 ザリガニの鳴くところ

第10位 メタモルフォーゼの縁側

『M-1』ウエストランド優勝にゴチャゴチャ言い出す人々に抱いた違和感

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「人を傷つけない笑い」「人を傷つける笑い」って何? 

今回のウエストランドの優勝を受けて、SNS上で「“人を傷つける笑い”の復権」「ポリコレへのカウンター」などと唱える声がある。

おさらいすると「人を傷つける笑い」とは、2019年大会決勝に初進出したぺこぱが披露したネタでのいわゆる「ノリツッコまない(相方のボケを否定しない)」を受けて流行した「人を傷つけない笑い」というワードへのカウンターだ。

この「人を傷つける笑い」「傷つけない笑い」という二元論に前々から違和感がある。そもそも、ぺこぱ登場まで「人を傷つける」「傷つけない」というアジェンダは、お笑いにおいてはほとんどあがってこなかったはず。ぺこぱ登場で突然、「人を傷つけない笑い」という言葉がまるで、お笑い界の最新トレンドのように祭り上げられたのだ。

言うまでもなく、漫才で重要なのは面白いか面白くないかであって「人を傷つける」「傷つけない」というのは副次的な要素だ。第一、「人を傷つけるかどうか」は、「受け手の捉え方やによるしかない。そんな副次的な要素が、ことほどさようにクローズアップされていたのが、謎なのである。

もう1点を付け加えると、今回のウエストランド優勝の後から「毒舌漫才」と「誹謗中傷」「ヘイトスピーチなどの差別発言」を味噌もクソも一緒くたにする言論も見受けられる。「ポリコレ」「コンプラ」という言葉もよく見るなあ。しかし、「ポリコレ」の「政治的正しさ」や、「コンプラ」の「法令遵守」という元々の意味に立ち返れば、彼らの毒舌漫才とはほととんど無関係だ。第一、もし「ポリコレ」や「コンプラ」に抵触する言葉が含まれていたら、番組中に上戸彩今田耕司が謝罪する羽目になっていただろう。だから、ウエストランドの漫才に対して安易に「ポリコレ」「コンプラ」という言葉を使う人に対して、「あ、この人ふわっとした印象で語ってんな」と判断した僕の耳は、自動的にシャットアウトする仕様になっている。


M-1』に何もかもを託しすぎるのも変!

一方、真空ジェシカやヨネダ2000といった独創的なネタを披露したコンビが最終決戦に残れず、技術的に高度だったさや香が敗れ、ある意味古典的な「毒舌漫才」が天下を獲ったことを、まるでお笑い界の停滞であるかのように嘆く声も見て取れる。さらにいえば、ウエストランドの優勝でまるで「『人を傷つける笑い』がお笑い界を跋扈(ばっこ)する」ことを危惧するような声さえ出ている。

考えすぎである。こうした光景は、社会学やメディア論の研究者が、ある作品の流行から社会の普遍的な傾向を読み解く「社会反映論」に似ている。たとえば「『鬼滅』が流行るこの時代は○○だ」「『呪術廻戦』がヒットするこの時代は××だ」みたいなやつ。こうした通俗的な社会反映論にも首をかしげるのは、そのほとんどが○○や××に当てはまらない「例外」を意識的にか無意識的にか、無視する傾向があるからだ。文章を書いている人間として、そうした「大きな物語」を広げたくなる気持ちも分かるけど、社会反映論の多くはこじつけだ。

M-1』グランプリも同様だ。優勝が計り知れない価値を持つことは、否定しない。とんでもなくすごいことだ。死ぬまで自慢できる。しかし、同時に、『M-1』優勝がお笑い界に強い影響力を持つとは思えない。マヂカルラブリーが優勝した後に一言もしゃべらず床を転がりまわる漫才師が増えただろうか。錦鯉が優勝した後に中高年の漫才師が増えただろうか。そんなことは聞いたことがない。別に『M-1』がその後の漫才、お笑い界隈の覇権を決めるわけではない。

M-1』に当初あったコンセプトを思い出してほしい。「今夜、一番おもしろいやつを決める」、ただそれだけである。『M-1グランプリ2022』で勝ったのは毒舌漫才ではない。「人を傷つける笑い」が勝ったわけではない。ウエストランドが勝ったのである。

われわれサラリーマンが森保監督から学ぶべき大切なこと

いやはや恐ろしいものを見てしまった。親のセックスとかではない。この約3週間のサッカー日本代表を巡る世論の手のひら返しの連続である。

ドイツに勝ってやれ大金星だのでかしたポイチだの言っていれば、その数日後にはコスタリカに負けて親の敵のようにボロカスに叩き、2度とサッカーボールを蹴るなとばかりにこき下ろす。その数日後にはスペインに逆転勝ちして、コスタリカ戦? なんですかそれ?という具合に盛り上がっていた。クロアチアに負けてようやく国民一億総ジキルとハイドは終わりを遂げたけど、今度は森保監督続投論が盛り上がっている。

よく思い返してほしい。アジア予選で最初にずっこけたときには森保監督について解任論さえ出ていた。なんとか予選突破はしてみたが、それ以降も森保ジャパンへの評価は、ぼくの記憶の限りではずっと低空飛行。本大会の前には一部メディアが「前回のハリルみたいに直前であえて電撃解任すれば劇薬になるのではないか…」というワクワクするようなことを書き立てていた。

短期的にみても、日本国民の森保ジャパンへの評価は手のひら返しの連続だったが、長期的にみても、今まさに手のひらを返そうとしている(いま多分、チョップの状態まできている)。

 

もともと、これまでの日本代表のW杯での成績は、最高順位がベスト16で、今回の目標はそれ以上のベスト8だったはず。付け加えると、スペイン戦後に調子に乗った森保監督が「それ以上」と目標を「上方修正」していたことをこっちは忘れていないぞ。

 

ドイツに勝とうがスペインに勝とうが、今大会はシンプルに「目標未達」だったのであるが、なんか雰囲気的に続投でもいいんじゃない? という空気になっているのが、恐ろしい。

 

…ということをここで書きたいわけではない。ぼくのようにサッカー超にわかで、むしろ、日本代表が早く負けろ、こっちはエムバペとかメッシを静かに楽しみたいんじゃい、とすら思っている不届きな人間がここで語りたいのは、サッカーのことではない。森保監督のことである。煽り抜きで、われわれ、しがないサラリーマンが、森保監督から学ぶべきことがあると思うのだ。それは、「期待なんてさせない方がいいに決まっている」ということである。

 

正直、大会前の森保監督、ひいては森保ジャパンへの期待度の低さは、なかなかのものだった。地を這うようなグラウンダーのクロスばりに、全く上を向く気配がなかった。先述したとおり、「あえての直前解任」とすら一部メディアが囁いていたほどだ。ドイツ、スペインと同組という不運もあっただろうが、森保ジャパンそのものに対して、この4年間ずーっとメディアとファンの期待値は低かったのである。

いま、メディアと世論で続投論が日増しに強まっているのは、この期待値の低さの賜にほかならない。

人は近視眼的にものを見る。相手がハードルを優雅に飛び越えている姿をみたら、「なんかこの人できそうだな」と錯覚してしまうものだ。しかし、実際はそのハードルがめちゃくちゃ低いだけだったりする。つまり、あなたが相手に設けていたハードル(期待)が低かっただけなのだ。

このように、自分へのハードル=期待は高くさせないに越したことはない。われわれも、これを各々の会社でやっていくべきなのではないか。

「こいつ使えない」「こんなに使えないものか」「おい、一体誰がこいつを雇ったんだ(たいてい自分が採用していたりする)」と、自分の期待値を底の底まで下げてそれを保っておく。あまり下げると解雇という名のレッドカードがちらついてくるから危険だが(ぼくもそれで一回退場した)、少なくとも「どーせこいつはできない」と思わせて置くことにこしたことがない。この「どーせ」はすごいカードで、反転すると「やればできるじゃないか」のカードに様変わりする

煽りでも皮肉でもない。われわれ一般の何の才能も地位も名誉もない人間が、森保監督から学ぶべきことがあるとすれば、メモの取り方などではない。現役時代から全く変わる気配のないヘアスタイルでもない。ハードルは必要以上に下げること。そのことにほかならない。