いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【2022年のおすすめ映画】俺デミー賞発表!【今年もお疲れ様でした】

 

年末恒例の年間映画ランキングのお時間です。

今年は劇場、配信含めて561本を鑑賞。前年比でなんと107本も減少してしまいましたが、これは映画への情熱が冷めたわけでも、仕事への情熱が突然湧いてきたためでもござません。スプラトゥーンと麻雀のせいです。人間の1日は24時間らしいのですが、神様、どうにか拡張できないでしょうか。

ということで、その561本の中から2021年以前公開の旧作を除き、今年日本公開、配信でおもしろかったよ! という映画をご紹介。各部門賞から発表し、最後にベスト10になります。

なお、すでに配信されているものにはAmazon Prime Video→AP、U-NEXT→UNNetflixNFディズニープラスD+と表記しています。お正月暇な時におたのしみください。優しいな俺。

【目次】

 

【来年もこんなおもしろい邦画が観たいで賞】

さがす AP

MONDAYS/このタイムループ、上司に気づかせないと終わらない

愛なのに AP UN

ある男

 

【“好き”を突き詰めるってなんて素敵なんで賞】

ハケンアニメ! AP UN

さかなのこ UN

メタモルフォーゼの縁側 UN

 

【馬鹿みたいに長い映画なのに時間を忘れて楽しめるで賞】

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム(148分) AP D+

ハウス・オブ・グッチ(157分) UN

THE BATMAN-ザ・バットマン-(175分)NF

RRR(179分) 

エルヴィス (159分) UN

 

【作った人に「ありがとう!」と言いたくなるで賞】

トップガン マーヴェリック →最高の続編を作ってくれてありがとう!

ゴーストバスターズ/アフターライフ →故ハロルド・ライミスさん追悼演出ありがとう!

キングスマン:ファースト・エージェント →想像以上の“エピソード0”をありがとう!


【監督の作家性が爆発していて感動するで賞】

ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス D+ ※監督:サム・ライミ

 

【観る前は超不安だったけど、蓋を開けてみたら超おもしろかったで賞】

NOPE/ノープ AP

THE FIRST SLAM DUNK

 

【今年一番の迷作で賞(褒めてます)】

シャドウ・イン・クラウド AP UN

 

【彼女の生き方、全面的に支持したいで賞】

わたしは、最悪。

ザリガニの鳴くところ

秘密の森の、その向こう

ドント・ウォーリー・ダーリン

 

【内容もさることながら技術にびっくりしたで賞】

チェチェンへようこそ ―ゲイの粛清― AP ※出演者の安全を守るため、本人と他人の顔を合成したディープフェイクの技術に対して

 

【いろいろあったけど、やっぱりいい俳優で賞】

宮松と山下※主演:香川照之

 

【今年も韓国映画はめちゃくちゃおもしろかったで賞】

奈落のマイホーム

ただ悪より救いたまえ

犯罪都市 THE ROUNDUP

 

【おもしろかった今年配信の作品】

アテナ Athena NF

レイマン NF

我々の父親 NF

おやすみ オポチュニティ AP

Untold: 世紀のヨットレース NF

ハート・ショット NF

 

【年間ベスト10】

第1位 アテナ Athena

第2位 さがす

第3位 THE FIRST SLAM DUNK

第4位 NOPE/ノープ

第5位 スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム

第6位 RRR

第7位 さかなのこ

第8位 ドクター・ストレンジマルチバース・オブ・マッドネス

第9位 ザリガニの鳴くところ

第10位 メタモルフォーゼの縁側

『M-1』ウエストランド優勝にゴチャゴチャ言い出す人々に抱いた違和感

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「人を傷つけない笑い」「人を傷つける笑い」って何? 

今回のウエストランドの優勝を受けて、SNS上で「“人を傷つける笑い”の復権」「ポリコレへのカウンター」などと唱える声がある。

おさらいすると「人を傷つける笑い」とは、2019年大会決勝に初進出したぺこぱが披露したネタでのいわゆる「ノリツッコまない(相方のボケを否定しない)」を受けて流行した「人を傷つけない笑い」というワードへのカウンターだ。

この「人を傷つける笑い」「傷つけない笑い」という二元論に前々から違和感がある。そもそも、ぺこぱ登場まで「人を傷つける」「傷つけない」というアジェンダは、お笑いにおいてはほとんどあがってこなかったはず。ぺこぱ登場で突然、「人を傷つけない笑い」という言葉がまるで、お笑い界の最新トレンドのように祭り上げられたのだ。

言うまでもなく、漫才で重要なのは面白いか面白くないかであって「人を傷つける」「傷つけない」というのは副次的な要素だ。第一、「人を傷つけるかどうか」は、「受け手の捉え方やによるしかない。そんな副次的な要素が、ことほどさようにクローズアップされていたのが、謎なのである。

もう1点を付け加えると、今回のウエストランド優勝の後から「毒舌漫才」と「誹謗中傷」「ヘイトスピーチなどの差別発言」を味噌もクソも一緒くたにする言論も見受けられる。「ポリコレ」「コンプラ」という言葉もよく見るなあ。しかし、「ポリコレ」の「政治的正しさ」や、「コンプラ」の「法令遵守」という元々の意味に立ち返れば、彼らの毒舌漫才とはほととんど無関係だ。第一、もし「ポリコレ」や「コンプラ」に抵触する言葉が含まれていたら、番組中に上戸彩今田耕司が謝罪する羽目になっていただろう。だから、ウエストランドの漫才に対して安易に「ポリコレ」「コンプラ」という言葉を使う人に対して、「あ、この人ふわっとした印象で語ってんな」と判断した僕の耳は、自動的にシャットアウトする仕様になっている。


M-1』に何もかもを託しすぎるのも変!

一方、真空ジェシカやヨネダ2000といった独創的なネタを披露したコンビが最終決戦に残れず、技術的に高度だったさや香が敗れ、ある意味古典的な「毒舌漫才」が天下を獲ったことを、まるでお笑い界の停滞であるかのように嘆く声も見て取れる。さらにいえば、ウエストランドの優勝でまるで「『人を傷つける笑い』がお笑い界を跋扈(ばっこ)する」ことを危惧するような声さえ出ている。

考えすぎである。こうした光景は、社会学やメディア論の研究者が、ある作品の流行から社会の普遍的な傾向を読み解く「社会反映論」に似ている。たとえば「『鬼滅』が流行るこの時代は○○だ」「『呪術廻戦』がヒットするこの時代は××だ」みたいなやつ。こうした通俗的な社会反映論にも首をかしげるのは、そのほとんどが○○や××に当てはまらない「例外」を意識的にか無意識的にか、無視する傾向があるからだ。文章を書いている人間として、そうした「大きな物語」を広げたくなる気持ちも分かるけど、社会反映論の多くはこじつけだ。

M-1』グランプリも同様だ。優勝が計り知れない価値を持つことは、否定しない。とんでもなくすごいことだ。死ぬまで自慢できる。しかし、同時に、『M-1』優勝がお笑い界に強い影響力を持つとは思えない。マヂカルラブリーが優勝した後に一言もしゃべらず床を転がりまわる漫才師が増えただろうか。錦鯉が優勝した後に中高年の漫才師が増えただろうか。そんなことは聞いたことがない。別に『M-1』がその後の漫才、お笑い界隈の覇権を決めるわけではない。

M-1』に当初あったコンセプトを思い出してほしい。「今夜、一番おもしろいやつを決める」、ただそれだけである。『M-1グランプリ2022』で勝ったのは毒舌漫才ではない。「人を傷つける笑い」が勝ったわけではない。ウエストランドが勝ったのである。

われわれサラリーマンが森保監督から学ぶべき大切なこと

いやはや恐ろしいものを見てしまった。親のセックスとかではない。この約3週間のサッカー日本代表を巡る世論の手のひら返しの連続である。

ドイツに勝ってやれ大金星だのでかしたポイチだの言っていれば、その数日後にはコスタリカに負けて親の敵のようにボロカスに叩き、2度とサッカーボールを蹴るなとばかりにこき下ろす。その数日後にはスペインに逆転勝ちして、コスタリカ戦? なんですかそれ?という具合に盛り上がっていた。クロアチアに負けてようやく国民一億総ジキルとハイドは終わりを遂げたけど、今度は森保監督続投論が盛り上がっている。

よく思い返してほしい。アジア予選で最初にずっこけたときには森保監督について解任論さえ出ていた。なんとか予選突破はしてみたが、それ以降も森保ジャパンへの評価は、ぼくの記憶の限りではずっと低空飛行。本大会の前には一部メディアが「前回のハリルみたいに直前であえて電撃解任すれば劇薬になるのではないか…」というワクワクするようなことを書き立てていた。

短期的にみても、日本国民の森保ジャパンへの評価は手のひら返しの連続だったが、長期的にみても、今まさに手のひらを返そうとしている(いま多分、チョップの状態まできている)。

 

もともと、これまでの日本代表のW杯での成績は、最高順位がベスト16で、今回の目標はそれ以上のベスト8だったはず。付け加えると、スペイン戦後に調子に乗った森保監督が「それ以上」と目標を「上方修正」していたことをこっちは忘れていないぞ。

 

ドイツに勝とうがスペインに勝とうが、今大会はシンプルに「目標未達」だったのであるが、なんか雰囲気的に続投でもいいんじゃない? という空気になっているのが、恐ろしい。

 

…ということをここで書きたいわけではない。ぼくのようにサッカー超にわかで、むしろ、日本代表が早く負けろ、こっちはエムバペとかメッシを静かに楽しみたいんじゃい、とすら思っている不届きな人間がここで語りたいのは、サッカーのことではない。森保監督のことである。煽り抜きで、われわれ、しがないサラリーマンが、森保監督から学ぶべきことがあると思うのだ。それは、「期待なんてさせない方がいいに決まっている」ということである。

 

正直、大会前の森保監督、ひいては森保ジャパンへの期待度の低さは、なかなかのものだった。地を這うようなグラウンダーのクロスばりに、全く上を向く気配がなかった。先述したとおり、「あえての直前解任」とすら一部メディアが囁いていたほどだ。ドイツ、スペインと同組という不運もあっただろうが、森保ジャパンそのものに対して、この4年間ずーっとメディアとファンの期待値は低かったのである。

いま、メディアと世論で続投論が日増しに強まっているのは、この期待値の低さの賜にほかならない。

人は近視眼的にものを見る。相手がハードルを優雅に飛び越えている姿をみたら、「なんかこの人できそうだな」と錯覚してしまうものだ。しかし、実際はそのハードルがめちゃくちゃ低いだけだったりする。つまり、あなたが相手に設けていたハードル(期待)が低かっただけなのだ。

このように、自分へのハードル=期待は高くさせないに越したことはない。われわれも、これを各々の会社でやっていくべきなのではないか。

「こいつ使えない」「こんなに使えないものか」「おい、一体誰がこいつを雇ったんだ(たいてい自分が採用していたりする)」と、自分の期待値を底の底まで下げてそれを保っておく。あまり下げると解雇という名のレッドカードがちらついてくるから危険だが(ぼくもそれで一回退場した)、少なくとも「どーせこいつはできない」と思わせて置くことにこしたことがない。この「どーせ」はすごいカードで、反転すると「やればできるじゃないか」のカードに様変わりする

煽りでも皮肉でもない。われわれ一般の何の才能も地位も名誉もない人間が、森保監督から学ぶべきことがあるとすれば、メモの取り方などではない。現役時代から全く変わる気配のないヘアスタイルでもない。ハードルは必要以上に下げること。そのことにほかならない。

「快適な不自由」より「不快な自由」を選べ 『ドント・ウォーリー・ダーリン』のマニュフェスト

映画『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』で鮮烈な監督デビューを飾った女優オリヴィア・ワイルド。2010年代を代表する傑作青春コメディだが、そんなオリヴィアの監督第2作は、『ブックスマート』とは全く色調の違うサスペンス・ホラー『ドント・ウォーリー・ダーリン』だ。

ポスター/スチール写真/チラシ アクリルフォトスタンド入り A4 パターン6 ドント・ウォーリー・ダーリン 光沢プリント

冒頭から、敗戦国・日本が憧れた1950年代の典型的な「アメリカン・ウェイ・オブ・ライブ」が描かれる。フローレンス・ピューが演じるヒロイン・アリスは、ビクトリーという郊外の街で何不自由ない生活を送る専業主婦。夫は上司から前途を期待されるサラリーマンで、週末には近所の同世代の夫婦たちと享楽的なパーティーに明け暮れる。週が明ければ、妻に見送られながら夫たちはフォードを職場へと走らせる

均質で調和の取れた美しいライフスタイル。しかし、次第に観客はアリスと共に、その裕福で恵まれた生活に嘘くささを感じ始める。それは、アリスがフライパンに広げる、テカりすぎて本物に見えない生肉が表彰している(ちなみに監督のオリヴィアはビーガンである)。それにしても、ホントにこのフローレンス・ピューは「怪しげな共同体」に放り込まれるのが似合う女優だ。

 

ここからネタバレを回避しながら語るのはかなり難しいのだが、結局この映画は「リベラル社会」への懐疑的な視線へのアンサーのように思える。

今やリベラルへの風当たりは増す一方だ。女性からも「本当は働きたくない」「専業主婦のほうがよかった」という声が聞こえてくる。男女平等であればあるほど、出生率が低下するというデータもある。

本作でアリスが投げ込まれた1950年代の世界は、男女平等のリベラル社会の“不都合な真実”が暴露されてしまった現在からしたら、艶めかしく誘惑してくる「理想の過去」だ。

しかし、本作はその誘惑に屈しない。どれだけ現実が辛かろうと、私は私の好きな仕事がしたいし、好きなように生きる。アリスはそう言い切る。「快適な不自由」が「不快な自由」を選ぶ、と宣言するのだ。

全くジャンルが違うように見える『ブックスマート』との共通点

そう考えると、なぜオリヴィアが『ブックスマート』の次に本作を撮ったかがよく分かる。両作はジャンルから何から何までまるで違う作品のように思えるが、ある共通の強いメッセージを携える。

『ブックスマート』では、ヒロインたちの高校という舞台で目がくらむような多様性の世界が描かれる。黒人も白人もアジア系も、LGBTQでもなんでもござれ。さまざまなアイデンティティの学生のごった煮で、もはやそこにはスクールカーストすらない。彼らは意見の相違から喧嘩をすることはあれど、お互いの存在を認め合う。『ブックスマート』が見据えるのは、そんな未来があるはずの前の方向だ。

それに対して、『ドント・ウォーリー・ダーリン』は真反対だ。本作は、甘い誘惑を放つ「理想の過去」を一度振り返り、そして「もう二度とそちらには戻らない」と吐き捨ててもう一度前を向く。

人生がしっくりこないアラサーアラフォーが見る映画『わたしは最悪。』

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約1万キロ離れた北欧の人たちに自分の見透かされているような気がする映画だ。もしかして、これは世界的に起きていることなのだろうか?

 

子どもの頃から秀才のユリヤは大学は医学部を専攻。しかし、「私は人を切ったり縫ったりするのに興味があるわけではない。人の精神に興味があるんだわ」と気づき、精神医療に籍を移すが、そこでさらに、自分は写真を撮りたかったんのだと謎の「啓示」を受けた彼女は、親に高い授業料を払ってせっかく通っていた大学を辞めて写真家デビュー。もちろん芽が出るはずもなく、書店員として働きながらアラサーを迎えたところだ。

 

ユリヤが話す、自分が自分の人生の主役じゃないような気がする、という感覚はとても分かる気がする。自分の人生なのに、しっくりこない感じ。「ここではないどこか」に思いを馳せるあの感覚。それが20代そこらならまだ可愛げがある。問題は、本邦では30代40代になってもそうした人間がゴロゴロいる、ということだ。もちろんぼくも含めて。スクリーン上でユリヤが節操がなくあれやこれやと手を出す姿にも、呆れるよりもまず「自分は同じように目移りしまくってもあんな風に行動に移せないから、ユリヤは行動力があってすごいなあ」と感心してしまう始末だ。

 

そんなユリヤはある日、著名な漫画家アクセルと出会い、交際に発展する。年の差はあれど、リベラルで知性的で芸術に心得があり、自分の文才を認めてくれた彼との同棲生活は、順風満帆に思えた。しかし、そのまま丸く収まっていれば苦労はしない。著名人でもある彼の隣では、いつまでも「彼の人生の脇役」に甘んじてしまうことに、ユリヤは物足りなさを感じ始める。

そんな折に、彼女はふらっと立ち寄ったパーティでアイヴィンという男と出会い…。これ以上書くとまだ鑑賞する前の人の興を削ぐことになるので自粛するが、ユリヤの「人生流浪の旅」は男についても同じである、ということだけは付け加えておきたい。

 

本作『わたしは最悪。』は、ユリヤという主人公を通してぼくらにこう訴える――「いい加減、“ここではないどこか”なんてないことに気づけ」であるし、「場所を変えるんじゃない。お前が変わるんだよ!」ということだ。

 

紆余曲折のあった末の終幕、ユリヤは再びカメラを手にした仕事に就いているようだが、その意味合いは、映画の冒頭で彼女が思い描いていたような「写真家」とは程遠い。どうも映画やドラマの「スチールカメラ」のスタッフのようで、ぐっと黒子的の意味合いが強くなる。

「私が私の人生の主役ではない」ことを思い悩んでいたユリヤが、「主役をいかに引き立たせるか」という職業に真摯に取り組んでいる姿は、彼女のささやかな成長を描いている気がした。

 

冒頭で書いたように、日本のアラサーやアラフォーの人生が定まらないふらふらした男女には耳が痛い映画である。奇しくも先週末からは『セイント・フランシス』という映画も公開されている。まだ観ていないが、予告やレビューを読む限り、『わたしは最悪。』と同じテーマで強く共鳴しているように思える。

 

自由には自由ならではの不自由がある。それに気づいた人からこのゲームを降りていく。いつまでも自由の不自由に気づかない頭お花畑の人たちだけを残して。いま、リベラルや社会で自由を謳歌した先でふっと沸き起こる不安に対して、共感や代弁が求められ始めているのかもしれない。

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『ハケンアニメ!』撃沈ムードから復活もたらした“好き”という名のバトン

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ハケンアニメ!』という映画を観た。

派遣社員のアニメではない。そのクールのアニメ界隈の話題をかっさらう(=覇権をにぎる)アニメをめざして作る者たちの映画だ。

吉岡里帆が演じる主人公は、アニメ制作会社・トウケン動画の伝統ある放送枠、夕方5時台の新作アニメ『サウンドバック』に抜擢された新人監督・斎藤瞳。ドライで独断専行型のチーフプロデューサーをはじめとする一癖も二癖もある先輩スタッフたちに振り回されながら、アニメ作りに邁進する。そんな瞳の前に立ちふさがるのは、新たに全く同じ5時の枠にアニメ『運命戦線リデルライト』をぶつけてきたスタジオえっじ。若き天才監督の名をほしいままにする王子千春を、中村倫也が演じている。

主人公とライバルの対照的な設定、“ハケン”=視聴率という白黒はっきりつく分かりやすい戦い、初めはバラバラだったスタッフたちが徐々に結集する展開、吉岡、中村のほか柄本佑ら達者な役者陣が現出さえる魅力的あふれる血の通ったキャラクターたち、職業人なら誰もが胸疼くようなリアルな仕事上のトラブル描写などなど…。あげだしたらキリがないが、「そら面白いわ…」という快作だった。

 

公開当初、興収的には振るわなかったのだが、本作については立て続けに「観客が劇場に戻り始めた」という趣旨の記事が上がっていた。

moviewalker.jp

realsound.jp

myjitsu.jp

映画業界はシビアで、初週の興収の結果いかんで次の週の公開館が決まっていく。つまり、持てる者はますます富み、持たざる者はさらに失うシビアな構造であり、2週目以降に挽回するのはなかなか難しい。こうした「復調」を示す記事が出るのは異例だ。

皮膚感覚で話をすると、SNSでの『ハケンアニメ!』ファンの熱量がすさまじい。一時期のモルカーを推す圧力に匹敵するか、それ以上の圧を感じた。上記の記事にあったように、ファンが「宣伝マン」を勝って出ているような状況だ。

 

しかし、この映画を観たあとなら、そうした状況になるは当然のように思うし、むしろこの映画は「観たら推さざるを得なくなる作品」とさえいえる。

この映画を観ているときに胸が熱くなる要素の一つは、瞳と王子の関係だ。2人は同じ枠で覇権を争うライバル関係にあるものの、あるとてつもなく強い思いが一致している。それは、「好きなものを作るのに絶対妥協はしない」というこだわり、そして、「作った作品が誰かの胸に刺さり、その人の生きる力になってほしい」という悲願に近い願いだ。それが、メインビジュアルに浮かぶ「好きを、つらぬけ」のコピーにつながる。

 

「敵対しているけど志は同じ」というライバル構造それ自体が胸を熱くする要素だが、本作が特筆すべきは、「好きなものを作るのに絶対妥協しない」という思いが、まさにこの『ハケンアニメ!』という実写映画の作り手とも共鳴しているように感じられることだ。

もしも、「好きなものを作るのに絶対妥協しないキャラクター」が出てくる映画があったとして、その映画を作っている人たちの妥協が見え隠れしたら、興ざめしてしまう、ということだ。『ハケンアニメ!』にはそんな瞬間が微塵もない。

その最たる例が、劇中作品となる『サウンドバック』『運命戦線リデルライト』のクオリティだ。エンドロールを観て驚いたのは、この劇中作品2本を作るために尽力したスタッフの人数の多さである。鑑賞した人なら分かるが、2作は絵のタッチからして全く違うため、別々の制作会社が担当している。それぐらい、多大な費用と労力が費やされたということを物語る。実際、作画のクオリティなど細かい審美感は筆者にないのだが、「本当にどこかのテレビ局で放送されていてもまったく自然」なクオリティの作品で、「映画の中のアニメだし、これぐらいでいいわな」という妥協が感じられない。

「好きなものを作るのに絶対妥協しない」というアツいキャラクターたち、そしてそのキャラクターたちを妥協なく映像化しようとした作り手たち。この入れ子構造が、観客にビシバシ伝わったことが、本作の生んだ熱狂の正体なのではないだろうか。

 

そして、まさに今現在『ハケンアニメ!』という映画に魅せられた観客たちがつむいでいる熱狂は、『ハケンアニメ!』が描かなかったアナザーサイドだ。

クライマックス前、瞳は自分の作品が「誰かの胸に刺さってほしい」という悲願をか細い声で訴えた。しかし、作品が一旦誰かの胸に刺さったとき、その衝撃はそこでは止まらない。なぜなら人類は、好きなものができたら人に勧めたくなる。アニメも映画もYouTubeも小説も音楽もテレビもお笑いも料理も、なんでもそうだ。自分に刺さった瞬間にほとばしった感動を、他の人に刺すことでもう一度追体験したいのだろうか。『ハケンアニメ!』が胸に刺さった人たちがやっているのは、作品から受け取ったメッセージのアンサーソングのように思える。

「好き」をつらぬいた妥協を知らないキャラクターを描いた妥協なき作品。それに魅せられた観客たちが「この映画が好きだ」という気持ちでそれに応えたこのムーブメントは、映画に対しての一種のアンサーソングであり、作り手と映画、そして受け手となるファンの三者をつないだ「好き」というバトンの強固さをあらためて思い知らされるのである。

『シン・ウルトラマン』が『シン・ゴジラ』の熱狂を超えられなかった理由

ウルトラマンTシャツと蒲田くんのスマホスタンド(重宝してます)

大ヒット中の『シン・ウルトラマン』。個人的には、チープな昭和特撮の雰囲気や、ゼットンの斬新な解釈、メフィラス山本耕史など好きな部分もたくさんある作品で、近年の商業的に成功した邦画作品の中では、納得できる数少ない良作に思えるが、反面イマイチ乗れない部分も少なくなかった。

当然のように同じ庵野秀明が関わった特撮作品『シン・ゴジラ』の延長線上でこの作品を観に行った人が大多数なわけで、本稿では『シン・ゴジラ』と比較した上で見えてくる、『シン・ウルトラマン』の「ここがちょっとなあ…!」という部分、単刀直入に言うと「『シン・ウルトラマン』が『シン・ゴジラ』の熱狂を超えられなかった理由」を考えたい。

ノレなかった人間ドラマ

一つは、人間ドラマのパートの軽薄さである。石原さとみ…もとい長澤まさみ演じる浅見分析官は登場したのっけからバディバディバディバディとしつこいぐらいに単独行動しがちな神永担当官に食ってかかるのだが、このやりとりが本当に形式じみていて興ざめだった。

そうした学級委員長的な、ルールはルールでしょみたいな生真面目な人間はたぶん官庁でも出世コースを行くもので、「霞が関の独立愚連隊」禍特対のような場所にまがりまちがっても関わりを持たないだろう。リアリティがない。

そのように、人間ドラマは軽薄に見える。これが、ニチアサで全50話1年をかけて放送するならまだわかる。しかし、たった2時間というスケールで、互いを手段ではなく目的として尊重し合う関係性を描こうとすると、観客にはなかなか伝わりにくい。

そもそも、浅見が新入りという設定の必要があったのか。観客への説明もかねてどうしても新人が必要というなら、有岡くんの方がもっと適任だったのではなかろうか。いつも新人っぽいし。神永と浅見がもっと前からバディを組んでいるならば、あの関係性もまだ納得できていたと感じる。

ここまで書いてきたことについて、「それは『シン・ウルトラマン』に限った話ではないだろ」というツッコミが聞こえてきそうだが、仰る通り。これは多くの邦画にあてはまることで、だからこそ海外で邦画がヒットしない原因の一つだと思っている。

一方、『シン・ゴジラ』は人間ドラマをどう処理したのか。『シン・ゴジラ』は邦画の中でも数少ない、人間関係を上手に描いた作品に思えるが、このたび考えなおしてみると、実は『シン・ゴジラ』が人間関係を上手く描いているように見えたのは、人間関係を極力描かないようにしていたことに起因すると思う。

ここでいう人間関係とは、「お互いがお互いを目的にする関係性(愛情、友情、愛着など)」のことだ。

劇中ではまず、登場人物全員の共通の目的として「ゴジラという巨大生物の駆除」という超弩級のが一個ボンと提示され、それが一貫して、ブレずに常に作品の中心にあり続ける。それを中心にして、登場人物たちは常にドライに、お互いの利害を巡って対立や和解、協調を繰り返す。「情」があるとすれば、日本という国への「情」であって、多くの観客には飲み込みやすい類のものだ。

「人間だってやればできる!」感がない

シン・ゴジラ』に比べて『シン・ウルトラマン』に乗れなかった理由。もう1つは、身も蓋もない話になってしまうが、ゴジラが怪獣(劇中ではそう呼ばれてなかったけど)、ウルトラマンが知的生命体だということに尽きる。

 

これは以前に書いたことなのだけど、『シン・ゴジラ』は「怪獣映画」の着ぐるみをかぶった「日本社会論」である。

iincho.hatenablog.com

 

描かれているのはゴジラ、ではない。ゴジラという未曾有の災害に直面した日本人の姿だ。もちろんそれは、先の3.11を射程にいれていることは言うまでもない。

日本人が「二度と核を使わせない」という信念のもと、ゴジラという厄災を知恵と工夫によって封じ込める。そこに、ただの怪獣映画以上のカタルシスがあり、既存の特撮ファンを超えて多くのファンの心に刺さったのだ。

 

一方、今回の『シン・ウルトラマン』はどうか。『シン・ゴジラ』との違いは、「人間より知的な生命体がいる」という状況だ。人間は「彼らより下の存在」ということを、あからさまに突きつけられる。それがよくない、ということがいいたいのではない。「人類より知的水準の高い生命体」というモチーフ自体は、なにも新しいわけではない。『幼年期の終り』などこれまでも無数のSFですでに描かれた状況なのだ。

問題は、それによって先の『シン・ゴジラ』のように「人間が知恵と工夫で解決する」というチャンスが奪われたことである。具体的にはゼットンのパートだが、観た人には分かるように、ここで人類はウルトラマンからある「アシスト」を受けた。それがないと、おそらく人類は滅びていただろう、それぐらい大きな「アシスト」だ。

シン・ゴジラ』のゴジラは、別に自分の血液凝固剤のレシピを巨災対横流ししていない(当たり前だ)。「アシスト」のシーンはとても地味で、観終わったら忘れてしまう人もいるぐらいの一瞬なのだが、それでも確実にそのシーン1つによって、『シン・ゴジラ』にはあった「人間だってやればできる!」というカタルシスが、『シン・ウルトラマン』からは奪われてしまった。

残酷な話ではあるが、そのかすかな違いが、『シン・ゴジラ』を10年に1本の快作にし、『シン・ウルトラマン』を「並の良作」にとどまらせた決定的な違いだったと思うのだ。

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