いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

『M-1』ウエストランド優勝にゴチャゴチャ言い出す人々に抱いた違和感

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「人を傷つけない笑い」「人を傷つける笑い」って何? 

今回のウエストランドの優勝を受けて、SNS上で「“人を傷つける笑い”の復権」「ポリコレへのカウンター」などと唱える声がある。

おさらいすると「人を傷つける笑い」とは、2019年大会決勝に初進出したぺこぱが披露したネタでのいわゆる「ノリツッコまない(相方のボケを否定しない)」を受けて流行した「人を傷つけない笑い」というワードへのカウンターだ。

この「人を傷つける笑い」「傷つけない笑い」という二元論に前々から違和感がある。そもそも、ぺこぱ登場まで「人を傷つける」「傷つけない」というアジェンダは、お笑いにおいてはほとんどあがってこなかったはず。ぺこぱ登場で突然、「人を傷つけない笑い」という言葉がまるで、お笑い界の最新トレンドのように祭り上げられたのだ。

言うまでもなく、漫才で重要なのは面白いか面白くないかであって「人を傷つける」「傷つけない」というのは副次的な要素だ。第一、「人を傷つけるかどうか」は、「受け手の捉え方やによるしかない。そんな副次的な要素が、ことほどさようにクローズアップされていたのが、謎なのである。

もう1点を付け加えると、今回のウエストランド優勝の後から「毒舌漫才」と「誹謗中傷」「ヘイトスピーチなどの差別発言」を味噌もクソも一緒くたにする言論も見受けられる。「ポリコレ」「コンプラ」という言葉もよく見るなあ。しかし、「ポリコレ」の「政治的正しさ」や、「コンプラ」の「法令遵守」という元々の意味に立ち返れば、彼らの毒舌漫才とはほととんど無関係だ。第一、もし「ポリコレ」や「コンプラ」に抵触する言葉が含まれていたら、番組中に上戸彩今田耕司が謝罪する羽目になっていただろう。だから、ウエストランドの漫才に対して安易に「ポリコレ」「コンプラ」という言葉を使う人に対して、「あ、この人ふわっとした印象で語ってんな」と判断した僕の耳は、自動的にシャットアウトする仕様になっている。


M-1』に何もかもを託しすぎるのも変!

一方、真空ジェシカやヨネダ2000といった独創的なネタを披露したコンビが最終決戦に残れず、技術的に高度だったさや香が敗れ、ある意味古典的な「毒舌漫才」が天下を獲ったことを、まるでお笑い界の停滞であるかのように嘆く声も見て取れる。さらにいえば、ウエストランドの優勝でまるで「『人を傷つける笑い』がお笑い界を跋扈(ばっこ)する」ことを危惧するような声さえ出ている。

考えすぎである。こうした光景は、社会学やメディア論の研究者が、ある作品の流行から社会の普遍的な傾向を読み解く「社会反映論」に似ている。たとえば「『鬼滅』が流行るこの時代は○○だ」「『呪術廻戦』がヒットするこの時代は××だ」みたいなやつ。こうした通俗的な社会反映論にも首をかしげるのは、そのほとんどが○○や××に当てはまらない「例外」を意識的にか無意識的にか、無視する傾向があるからだ。文章を書いている人間として、そうした「大きな物語」を広げたくなる気持ちも分かるけど、社会反映論の多くはこじつけだ。

M-1』グランプリも同様だ。優勝が計り知れない価値を持つことは、否定しない。とんでもなくすごいことだ。死ぬまで自慢できる。しかし、同時に、『M-1』優勝がお笑い界に強い影響力を持つとは思えない。マヂカルラブリーが優勝した後に一言もしゃべらず床を転がりまわる漫才師が増えただろうか。錦鯉が優勝した後に中高年の漫才師が増えただろうか。そんなことは聞いたことがない。別に『M-1』がその後の漫才、お笑い界隈の覇権を決めるわけではない。

M-1』に当初あったコンセプトを思い出してほしい。「今夜、一番おもしろいやつを決める」、ただそれだけである。『M-1グランプリ2022』で勝ったのは毒舌漫才ではない。「人を傷つける笑い」が勝ったわけではない。ウエストランドが勝ったのである。