いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「漫才論争」という”愚問" 「こんなの◯◯じゃない」と叩くのが恥ずかしい理由

自分があまり詳しくないジャンルにおいて“未知のもの”を観たとき、人は二通りの反応をする。「こんなの○○じゃない」と拒絶するか、「こんな○○初めてだ」と驚くかだ。

 

もう来週に迫った今年の『M-1グランプリ』だが、昨年のマヂカルラブリー優勝の際、彼らの漫才をめぐってぼっ発した「漫才論争」は、まさに典型的な前者の反応と言えるだろう。

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実際、「漫才じゃない」なんて大真面目に言っている人は、ヤフーコメント欄に常駐するおじさんおばさんぐらいで、マスコミが盛り上がりたいためだけに巻き起こした「エセ論争」だったのではないか、とさえ思う。そんな中、本職のお笑い芸人の中でほとんど唯一、「私はコントやと思う」と異を唱えたのがオセロ松嶋というのが彼女のエピソードとして100点であるが、それについてはここで深入りしない。

ほとんどのお笑い芸人がこの“論争”をとりあわなかったのは、それが「愚問」だからだろう。年に何百、何千と客前でネタを披露し、ほかの人の漫才も飽きるほど観てきたであろう彼らからしたら、取り上げるのも恥ずかしい論争なのだと思う(たぶん)。つまり、普段、漫才に見慣れてない人ほど、マヂラブの漫才に対して「漫才じゃない」と言いたくなったのではないだろうか。

 

新しいものに触れたときの反応の2つ目、「こんなの初めてだ」というのは、ぼく自身苦い思い出として心に刻んでいる。中学生のときに『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』を観たときは、まさに後者の反応をしたのだ。

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すごい! ドキュメンタリーを模したホラー映画! こんなの今までなかった! 革命だ! ぐらい感動したぼくなのだが、その後、調べれば調べるほど、同作の前に連綿と続くモキュメンタリーの歴史があることを知り、顔から火が出るほど恥ずかしかったのを覚えている。これで誰かに吹聴していたりしたら、さらに傷が深くなっていただろうが、言う前に気づけて本当によかった…。

その経験があって、ぼくは「こんなの初めて!」とセックスが上手い相手とめぐりあったときみたいなことは、簡単には言わないように気をつけるようになった。そういう意味では、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』にはとても感謝している。

 

「こんな〇〇初めてだ」はまだ可愛げがあるが、「こんなの○○じゃない」は可愛げがない。というのも、前者には「初めて」という事実誤認はあっても、その○○に対する最低限の敬意とともに受け入れる姿勢が感じられる。しかし、後者は拒否反応と、ある種の「姑息さ」が垣間見られる。

「こんなの○○じゃない」という言い方は、発話者にまるでそのジャンルの守護者たる含蓄があるように演出する。しかし、その実、「○○じゃない」と決めているのは、得てして発話者の非論理的な感性に過ぎない。要するに口に合わなかっただけなのだ。

マヂラブの漫才が口に合わないのならば、口に合わないと言えばそれでいい。中にはつまらないと思う人だっているだろう。それがお笑いというものだ。問題は、「こんなの○○じゃない」という言い方が、自分の感性との齟齬ではなく、客観的な基準において判断できていると、発話者が発話者自身を騙していることだ。

 

あらゆるジャンル、文化は、漸次的にその定義の形を変容、拡張させながら発展していく人類の営為だ。誰もが最初、美術館に置いた便器を芸術作品なわけないだろと思っただろう。ダウンタウンはかつて、その漫才を横山やすしに「チンピラの立ち話やないか」と罵られた話は有名だが、今や彼らにそんなことを言う人はもうどこにもいない。

「こんなの○○じゃない」という言葉が頭の中で浮上したとき、改めるべきは「こんな○○」のほうじゃない。実は発した人の頭の中の方だ。