いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

10代女子たちのバカンスと思いきや…“いま・ここ”に集中できない我々を風刺した映画『ひと夏の体験』

ひと夏の体験(字幕版)

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3人の女子高生(?)が、どこかの南国の浜辺にバカンスにでかけた様子を淡々と描く映画『ひと夏の体験』は、一見すると終盤までほとんど何も起きない、つまらない映画に思える。非日常的な場所を訪れ、開放的になったうら若き乙女たちが、乳をぶるんと出す姿など、“別の意味”で見るべきところがあるのだが、基本的にストーリーはつまらないように見えてしまう。

フィルマークスなどを覗いても酷評レビューが並ぶが、注意深く鑑賞していると、本作はある強烈なメッセージを内包している事がわかる。

 

晴れ渡る空の下、沖に浮かんだヨットの上でくつろぐ3人。始めは気づかないのだが、次第に分かってくるのが、3人の手には常にスマホ(うち一人は最初に海に落としてしまうが)、さらに会話の9割近くがSNSなど電子上のコミュニケーションの話題で占められているということ。こんなに青い空と青い海に囲まれ、素敵なロケーションに恵まれているのに! そのことに気づいてから注意深く見ていると、本作の作り手がそれを確信的にやっていることが伝わってくる。

 

どんなにきれいなロケーションでも、彼らの話題はどこまでもスマホの四角い画面の中のことだ。旅行に一緒には来ていない彼氏との仲違い、フォロワーが増えたことの喜び、ネット上の相手にいいように見られるために何度も撮り直す動画。そのどれもが、「いま、こんな素敵な場所でしなくてもいいことじゃないか」という強烈な違和感を催す。もちろん、その違和感は自分にも返ってくる。本作は、“いま・ここ”がどれだけ素晴らしい場所であっても、“いま・ここ”に集中できないカラダになってしまった、我々への風刺だ。

そうしたメッセージを含んだ映画は、もちろんこれまでにも無数に作られているが、本作のメッセージはまったく説教臭くないし、むしろ控えめで回りくどくすらある。気づかない人だっているだろう。しかし、伝わりにくい皮肉であるほど言われてしばらく経ったあとに気づいて衝撃を受けたり、意味が分かりづらいけど気づいた瞬間背筋がゾットする怖い話があるように、「伝わりづらいがゆえに伝わったときに強烈に伝わる作品」なのだ。

 

映画では、3人がスマホを肌見離さずに持っているが、観客からは、彼女たちがどんなサイトや動画を観ているかは分からない。スマホ画面はほとんど映らないのだ。きっと、1000年後の未来人がこの映画を観たら、「この3人の女性は四角い板を大事そうに抱えてどうしたというんだ」と奇異の目で見ることだろう。本作は、現代人が主観的にはもはや気づきにくい、現代で支配的になっている“奇妙な風習”、つまり、“いま・ここ”ではなくオンライン上の彼方を大事にする奇習をめぐる映画だ。

 

クライマックスでは、オンライン上でありがちなトラブルが起きて、ありがちな挫折を経験する3人。それは、本作が約70分かけて描いていたことの総決算のような気もする。“いま・ここ”に没頭してさえいれば、起きなかったトラブルなのだから。

ただ一方で、落ち込む3人を尻目に、スマホの中でどんな騒ぎになっているか知るよしもない観客に、映画は「所詮はスマホの中で起きた騒ぎだろ」と、どこか冷静に相対化できる視点を授けてくれる。以前、作家の筒井康隆も言っていた。炎上なんて「電源を抜いたら消えてしまう世界」のことなのだから。