いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「快適な不自由」より「不快な自由」を選べ 『ドント・ウォーリー・ダーリン』のマニュフェスト

映画『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』で鮮烈な監督デビューを飾った女優オリヴィア・ワイルド。2010年代を代表する傑作青春コメディだが、そんなオリヴィアの監督第2作は、『ブックスマート』とは全く色調の違うサスペンス・ホラー『ドント・ウォーリー・ダーリン』だ。

ポスター/スチール写真/チラシ アクリルフォトスタンド入り A4 パターン6 ドント・ウォーリー・ダーリン 光沢プリント

冒頭から、敗戦国・日本が憧れた1950年代の典型的な「アメリカン・ウェイ・オブ・ライブ」が描かれる。フローレンス・ピューが演じるヒロイン・アリスは、ビクトリーという郊外の街で何不自由ない生活を送る専業主婦。夫は上司から前途を期待されるサラリーマンで、週末には近所の同世代の夫婦たちと享楽的なパーティーに明け暮れる。週が明ければ、妻に見送られながら夫たちはフォードを職場へと走らせる

均質で調和の取れた美しいライフスタイル。しかし、次第に観客はアリスと共に、その裕福で恵まれた生活に嘘くささを感じ始める。それは、アリスがフライパンに広げる、テカりすぎて本物に見えない生肉が表彰している(ちなみに監督のオリヴィアはビーガンである)。それにしても、ホントにこのフローレンス・ピューは「怪しげな共同体」に放り込まれるのが似合う女優だ。

 

ここからネタバレを回避しながら語るのはかなり難しいのだが、結局この映画は「リベラル社会」への懐疑的な視線へのアンサーのように思える。

今やリベラルへの風当たりは増す一方だ。女性からも「本当は働きたくない」「専業主婦のほうがよかった」という声が聞こえてくる。男女平等であればあるほど、出生率が低下するというデータもある。

本作でアリスが投げ込まれた1950年代の世界は、男女平等のリベラル社会の“不都合な真実”が暴露されてしまった現在からしたら、艶めかしく誘惑してくる「理想の過去」だ。

しかし、本作はその誘惑に屈しない。どれだけ現実が辛かろうと、私は私の好きな仕事がしたいし、好きなように生きる。アリスはそう言い切る。「快適な不自由」が「不快な自由」を選ぶ、と宣言するのだ。

全くジャンルが違うように見える『ブックスマート』との共通点

そう考えると、なぜオリヴィアが『ブックスマート』の次に本作を撮ったかがよく分かる。両作はジャンルから何から何までまるで違う作品のように思えるが、ある共通の強いメッセージを携える。

『ブックスマート』では、ヒロインたちの高校という舞台で目がくらむような多様性の世界が描かれる。黒人も白人もアジア系も、LGBTQでもなんでもござれ。さまざまなアイデンティティの学生のごった煮で、もはやそこにはスクールカーストすらない。彼らは意見の相違から喧嘩をすることはあれど、お互いの存在を認め合う。『ブックスマート』が見据えるのは、そんな未来があるはずの前の方向だ。

それに対して、『ドント・ウォーリー・ダーリン』は真反対だ。本作は、甘い誘惑を放つ「理想の過去」を一度振り返り、そして「もう二度とそちらには戻らない」と吐き捨ててもう一度前を向く。

人生がしっくりこないアラサーアラフォーが見る映画『わたしは最悪。』

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約1万キロ離れた北欧の人たちに自分の見透かされているような気がする映画だ。もしかして、これは世界的に起きていることなのだろうか?

 

子どもの頃から秀才のユリヤは大学は医学部を専攻。しかし、「私は人を切ったり縫ったりするのに興味があるわけではない。人の精神に興味があるんだわ」と気づき、精神医療に籍を移すが、そこでさらに、自分は写真を撮りたかったんのだと謎の「啓示」を受けた彼女は、親に高い授業料を払ってせっかく通っていた大学を辞めて写真家デビュー。もちろん芽が出るはずもなく、書店員として働きながらアラサーを迎えたところだ。

 

ユリヤが話す、自分が自分の人生の主役じゃないような気がする、という感覚はとても分かる気がする。自分の人生なのに、しっくりこない感じ。「ここではないどこか」に思いを馳せるあの感覚。それが20代そこらならまだ可愛げがある。問題は、本邦では30代40代になってもそうした人間がゴロゴロいる、ということだ。もちろんぼくも含めて。スクリーン上でユリヤが節操がなくあれやこれやと手を出す姿にも、呆れるよりもまず「自分は同じように目移りしまくってもあんな風に行動に移せないから、ユリヤは行動力があってすごいなあ」と感心してしまう始末だ。

 

そんなユリヤはある日、著名な漫画家アクセルと出会い、交際に発展する。年の差はあれど、リベラルで知性的で芸術に心得があり、自分の文才を認めてくれた彼との同棲生活は、順風満帆に思えた。しかし、そのまま丸く収まっていれば苦労はしない。著名人でもある彼の隣では、いつまでも「彼の人生の脇役」に甘んじてしまうことに、ユリヤは物足りなさを感じ始める。

そんな折に、彼女はふらっと立ち寄ったパーティでアイヴィンという男と出会い…。これ以上書くとまだ鑑賞する前の人の興を削ぐことになるので自粛するが、ユリヤの「人生流浪の旅」は男についても同じである、ということだけは付け加えておきたい。

 

本作『わたしは最悪。』は、ユリヤという主人公を通してぼくらにこう訴える――「いい加減、“ここではないどこか”なんてないことに気づけ」であるし、「場所を変えるんじゃない。お前が変わるんだよ!」ということだ。

 

紆余曲折のあった末の終幕、ユリヤは再びカメラを手にした仕事に就いているようだが、その意味合いは、映画の冒頭で彼女が思い描いていたような「写真家」とは程遠い。どうも映画やドラマの「スチールカメラ」のスタッフのようで、ぐっと黒子的の意味合いが強くなる。

「私が私の人生の主役ではない」ことを思い悩んでいたユリヤが、「主役をいかに引き立たせるか」という職業に真摯に取り組んでいる姿は、彼女のささやかな成長を描いている気がした。

 

冒頭で書いたように、日本のアラサーやアラフォーの人生が定まらないふらふらした男女には耳が痛い映画である。奇しくも先週末からは『セイント・フランシス』という映画も公開されている。まだ観ていないが、予告やレビューを読む限り、『わたしは最悪。』と同じテーマで強く共鳴しているように思える。

 

自由には自由ならではの不自由がある。それに気づいた人からこのゲームを降りていく。いつまでも自由の不自由に気づかない頭お花畑の人たちだけを残して。いま、リベラルや社会で自由を謳歌した先でふっと沸き起こる不安に対して、共感や代弁が求められ始めているのかもしれない。

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『ハケンアニメ!』撃沈ムードから復活もたらした“好き”という名のバトン

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ハケンアニメ!』という映画を観た。

派遣社員のアニメではない。そのクールのアニメ界隈の話題をかっさらう(=覇権をにぎる)アニメをめざして作る者たちの映画だ。

吉岡里帆が演じる主人公は、アニメ制作会社・トウケン動画の伝統ある放送枠、夕方5時台の新作アニメ『サウンドバック』に抜擢された新人監督・斎藤瞳。ドライで独断専行型のチーフプロデューサーをはじめとする一癖も二癖もある先輩スタッフたちに振り回されながら、アニメ作りに邁進する。そんな瞳の前に立ちふさがるのは、新たに全く同じ5時の枠にアニメ『運命戦線リデルライト』をぶつけてきたスタジオえっじ。若き天才監督の名をほしいままにする王子千春を、中村倫也が演じている。

主人公とライバルの対照的な設定、“ハケン”=視聴率という白黒はっきりつく分かりやすい戦い、初めはバラバラだったスタッフたちが徐々に結集する展開、吉岡、中村のほか柄本佑ら達者な役者陣が現出さえる魅力的あふれる血の通ったキャラクターたち、職業人なら誰もが胸疼くようなリアルな仕事上のトラブル描写などなど…。あげだしたらキリがないが、「そら面白いわ…」という快作だった。

 

公開当初、興収的には振るわなかったのだが、本作については立て続けに「観客が劇場に戻り始めた」という趣旨の記事が上がっていた。

moviewalker.jp

realsound.jp

myjitsu.jp

映画業界はシビアで、初週の興収の結果いかんで次の週の公開館が決まっていく。つまり、持てる者はますます富み、持たざる者はさらに失うシビアな構造であり、2週目以降に挽回するのはなかなか難しい。こうした「復調」を示す記事が出るのは異例だ。

皮膚感覚で話をすると、SNSでの『ハケンアニメ!』ファンの熱量がすさまじい。一時期のモルカーを推す圧力に匹敵するか、それ以上の圧を感じた。上記の記事にあったように、ファンが「宣伝マン」を勝って出ているような状況だ。

 

しかし、この映画を観たあとなら、そうした状況になるは当然のように思うし、むしろこの映画は「観たら推さざるを得なくなる作品」とさえいえる。

この映画を観ているときに胸が熱くなる要素の一つは、瞳と王子の関係だ。2人は同じ枠で覇権を争うライバル関係にあるものの、あるとてつもなく強い思いが一致している。それは、「好きなものを作るのに絶対妥協はしない」というこだわり、そして、「作った作品が誰かの胸に刺さり、その人の生きる力になってほしい」という悲願に近い願いだ。それが、メインビジュアルに浮かぶ「好きを、つらぬけ」のコピーにつながる。

 

「敵対しているけど志は同じ」というライバル構造それ自体が胸を熱くする要素だが、本作が特筆すべきは、「好きなものを作るのに絶対妥協しない」という思いが、まさにこの『ハケンアニメ!』という実写映画の作り手とも共鳴しているように感じられることだ。

もしも、「好きなものを作るのに絶対妥協しないキャラクター」が出てくる映画があったとして、その映画を作っている人たちの妥協が見え隠れしたら、興ざめしてしまう、ということだ。『ハケンアニメ!』にはそんな瞬間が微塵もない。

その最たる例が、劇中作品となる『サウンドバック』『運命戦線リデルライト』のクオリティだ。エンドロールを観て驚いたのは、この劇中作品2本を作るために尽力したスタッフの人数の多さである。鑑賞した人なら分かるが、2作は絵のタッチからして全く違うため、別々の制作会社が担当している。それぐらい、多大な費用と労力が費やされたということを物語る。実際、作画のクオリティなど細かい審美感は筆者にないのだが、「本当にどこかのテレビ局で放送されていてもまったく自然」なクオリティの作品で、「映画の中のアニメだし、これぐらいでいいわな」という妥協が感じられない。

「好きなものを作るのに絶対妥協しない」というアツいキャラクターたち、そしてそのキャラクターたちを妥協なく映像化しようとした作り手たち。この入れ子構造が、観客にビシバシ伝わったことが、本作の生んだ熱狂の正体なのではないだろうか。

 

そして、まさに今現在『ハケンアニメ!』という映画に魅せられた観客たちがつむいでいる熱狂は、『ハケンアニメ!』が描かなかったアナザーサイドだ。

クライマックス前、瞳は自分の作品が「誰かの胸に刺さってほしい」という悲願をか細い声で訴えた。しかし、作品が一旦誰かの胸に刺さったとき、その衝撃はそこでは止まらない。なぜなら人類は、好きなものができたら人に勧めたくなる。アニメも映画もYouTubeも小説も音楽もテレビもお笑いも料理も、なんでもそうだ。自分に刺さった瞬間にほとばしった感動を、他の人に刺すことでもう一度追体験したいのだろうか。『ハケンアニメ!』が胸に刺さった人たちがやっているのは、作品から受け取ったメッセージのアンサーソングのように思える。

「好き」をつらぬいた妥協を知らないキャラクターを描いた妥協なき作品。それに魅せられた観客たちが「この映画が好きだ」という気持ちでそれに応えたこのムーブメントは、映画に対しての一種のアンサーソングであり、作り手と映画、そして受け手となるファンの三者をつないだ「好き」というバトンの強固さをあらためて思い知らされるのである。

『シン・ウルトラマン』が『シン・ゴジラ』の熱狂を超えられなかった理由

ウルトラマンTシャツと蒲田くんのスマホスタンド(重宝してます)

大ヒット中の『シン・ウルトラマン』。個人的には、チープな昭和特撮の雰囲気や、ゼットンの斬新な解釈、メフィラス山本耕史など好きな部分もたくさんある作品で、近年の商業的に成功した邦画作品の中では、納得できる数少ない良作に思えるが、反面イマイチ乗れない部分も少なくなかった。

当然のように同じ庵野秀明が関わった特撮作品『シン・ゴジラ』の延長線上でこの作品を観に行った人が大多数なわけで、本稿では『シン・ゴジラ』と比較した上で見えてくる、『シン・ウルトラマン』の「ここがちょっとなあ…!」という部分、単刀直入に言うと「『シン・ウルトラマン』が『シン・ゴジラ』の熱狂を超えられなかった理由」を考えたい。

ノレなかった人間ドラマ

一つは、人間ドラマのパートの軽薄さである。石原さとみ…もとい長澤まさみ演じる浅見分析官は登場したのっけからバディバディバディバディとしつこいぐらいに単独行動しがちな神永担当官に食ってかかるのだが、このやりとりが本当に形式じみていて興ざめだった。

そうした学級委員長的な、ルールはルールでしょみたいな生真面目な人間はたぶん官庁でも出世コースを行くもので、「霞が関の独立愚連隊」禍特対のような場所にまがりまちがっても関わりを持たないだろう。リアリティがない。

そのように、人間ドラマは軽薄に見える。これが、ニチアサで全50話1年をかけて放送するならまだわかる。しかし、たった2時間というスケールで、互いを手段ではなく目的として尊重し合う関係性を描こうとすると、観客にはなかなか伝わりにくい。

そもそも、浅見が新入りという設定の必要があったのか。観客への説明もかねてどうしても新人が必要というなら、有岡くんの方がもっと適任だったのではなかろうか。いつも新人っぽいし。神永と浅見がもっと前からバディを組んでいるならば、あの関係性もまだ納得できていたと感じる。

ここまで書いてきたことについて、「それは『シン・ウルトラマン』に限った話ではないだろ」というツッコミが聞こえてきそうだが、仰る通り。これは多くの邦画にあてはまることで、だからこそ海外で邦画がヒットしない原因の一つだと思っている。

一方、『シン・ゴジラ』は人間ドラマをどう処理したのか。『シン・ゴジラ』は邦画の中でも数少ない、人間関係を上手に描いた作品に思えるが、このたび考えなおしてみると、実は『シン・ゴジラ』が人間関係を上手く描いているように見えたのは、人間関係を極力描かないようにしていたことに起因すると思う。

ここでいう人間関係とは、「お互いがお互いを目的にする関係性(愛情、友情、愛着など)」のことだ。

劇中ではまず、登場人物全員の共通の目的として「ゴジラという巨大生物の駆除」という超弩級のが一個ボンと提示され、それが一貫して、ブレずに常に作品の中心にあり続ける。それを中心にして、登場人物たちは常にドライに、お互いの利害を巡って対立や和解、協調を繰り返す。「情」があるとすれば、日本という国への「情」であって、多くの観客には飲み込みやすい類のものだ。

「人間だってやればできる!」感がない

シン・ゴジラ』に比べて『シン・ウルトラマン』に乗れなかった理由。もう1つは、身も蓋もない話になってしまうが、ゴジラが怪獣(劇中ではそう呼ばれてなかったけど)、ウルトラマンが知的生命体だということに尽きる。

 

これは以前に書いたことなのだけど、『シン・ゴジラ』は「怪獣映画」の着ぐるみをかぶった「日本社会論」である。

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描かれているのはゴジラ、ではない。ゴジラという未曾有の災害に直面した日本人の姿だ。もちろんそれは、先の3.11を射程にいれていることは言うまでもない。

日本人が「二度と核を使わせない」という信念のもと、ゴジラという厄災を知恵と工夫によって封じ込める。そこに、ただの怪獣映画以上のカタルシスがあり、既存の特撮ファンを超えて多くのファンの心に刺さったのだ。

 

一方、今回の『シン・ウルトラマン』はどうか。『シン・ゴジラ』との違いは、「人間より知的な生命体がいる」という状況だ。人間は「彼らより下の存在」ということを、あからさまに突きつけられる。それがよくない、ということがいいたいのではない。「人類より知的水準の高い生命体」というモチーフ自体は、なにも新しいわけではない。『幼年期の終り』などこれまでも無数のSFですでに描かれた状況なのだ。

問題は、それによって先の『シン・ゴジラ』のように「人間が知恵と工夫で解決する」というチャンスが奪われたことである。具体的にはゼットンのパートだが、観た人には分かるように、ここで人類はウルトラマンからある「アシスト」を受けた。それがないと、おそらく人類は滅びていただろう、それぐらい大きな「アシスト」だ。

シン・ゴジラ』のゴジラは、別に自分の血液凝固剤のレシピを巨災対横流ししていない(当たり前だ)。「アシスト」のシーンはとても地味で、観終わったら忘れてしまう人もいるぐらいの一瞬なのだが、それでも確実にそのシーン1つによって、『シン・ゴジラ』にはあった「人間だってやればできる!」というカタルシスが、『シン・ウルトラマン』からは奪われてしまった。

残酷な話ではあるが、そのかすかな違いが、『シン・ゴジラ』を10年に1本の快作にし、『シン・ウルトラマン』を「並の良作」にとどまらせた決定的な違いだったと思うのだ。

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鬼越トマホーク『ゴッドタン』で見せた「セルフ文春砲」の生き様 きっかけは後輩芸人からの批判だと邪推してみた

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突然始まった「セルフ文春砲」

先週の『ゴッドタン』(テレビ東京系)に出演した鬼越トマホークがかっこよかった。

 

これだけを聞いて「あ、番組は見てないけど、ハゲの方がアイドルと付き合ってるって告白したんだっけ?」と、ネットニュースか何かで情報としてだけ知っている人も、ぜひ、本編を見てもらいたい。もう1時間を切ってしまったが、まだTVerで見られるので確認してほしい。

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「アイドル公式お兄ちゃんは俺だ! 選手権」というアイドルを見守る立場になりたいテイなのに、そこでわざわざ(元)アイドルと付き合っていることを言っちゃうという文脈上のおもしろさだけでなく、この夜の鬼越は生き様からおもしろかった。

見届人的立場のプロインタビュアー・吉田豪の「鬼越さんのほうが僕は心配」という言葉をきっかけに、何かに火がついた様子の坂井良多が、「豪さんどういうことですか!?」「豪さん全部言ってください!」とバッキバキにきまった目でリクエストを始めると、自身が「剥がし」のスタッフとして働いていた現場のアイドルグループの元メンバーと現在交際していることをあっさり白状してしまった。

この状況にスタジオは大混乱に陥り、今まで散々箝口令を仕掛けられていたという相方・金ちゃんが、積年の恨みを晴らすかのように、次から次へと相方の交際事情を話す、ある意味『ゴッドタン』らしい企画の趣旨をぶち壊すような展開となった。

平場は強いけどネタが弱い

芸能界でほとんど唯一、ガーシーチャンネルと友好関係にあるとされる鬼越トマホークだが、2人が世に出るきっかけは千原ジュニアに見出された「ケンカ芸」だ。2人が取っ組み合いのケンカを始め、それを止めに入った第三者に芯を食った毒舌を浴びせる、というよく考えたら不思議なフォーマットの芸だが、2人はその後も、悪口・暴露・ゴシップの黒い三拍子でテレビのみならずラジオ、YouTubeでも活躍の場を広げる。

爆笑問題のラジオで大爆発し、ナインティナインのラジオではまた別の意味で大爆発し、平場ではめちゃくちゃおもしろい2人なのだが、ことに「ネタ」ということではこれまで目立った活躍ができていない。2人が縮こまって漫才をしている姿はまるで、ノゲイラホーストナチュラルパワーで半殺しにしたのに、モーリス・スミスにボクシングを習った後は突然しおらしくなってしまったボブ・サップのようだ。

きっかけは川瀬名人による鬼越批判?

しかし、彼らの暴露の矛先を自分たちに向けるのは、何も今回が最初ではない。金ちゃんの実家の居酒屋で○○○が取引されていたとか、実父がある事情で小指がないとか、事務所の先輩の友近が嫌いだとか、これまでも散々自分たちにとって自殺点になることもしゃべってきた鬼越だが、ここに来て、今までトップシークレットだったはずの「坂井がアイドルと付き合っている」というパンドラの箱に手をかけたのには、あるきっかけがあったのではないかと邪推している。

それは4月に鬼越のYouTubeに後輩のゆにばーす・川瀬名人が出演した回だ。かたやM-1決勝常連、かたや「お笑いコンビ」としては邪道な悪口・暴露・ゴシップで暗躍する2人。一見、水と油のように見えるが、両者は実は友好関係にあり、テレビ出演は通常断っている川瀬名人も、鬼越のYouTubeにはたびたび出演している。

しかし、そんな友好関係にあったはずの川瀬名人が、この回は先輩・鬼越に対して「真芯」を食った悪口を浴びせたのだ。

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川瀬は、かつて鬼越が並み居る先輩芸人たちに浴びせた「悪口」に立ち返る(名言はしていなかったが、これらはすべてジュニアが出演する、奇しくも『ゴッドタン』の直前に放送されていた『ざっくりハイタッチ』だと思われる)。

川瀬は、鬼越がジャングルポケットに放った「お前らの単独ライブ誰も見に行かない」に対しては、「(鬼越は)単独すらしてない。ジャングルポケットさんはそれでも定期的に単独やっている」、ジャルジャルに放った「(営業でスベってるらしいな。)シュールを盾に客から逃げるな」に対しては、「ゴシップを盾にネタから逃げるな」、と見事な意趣返し、見事なブーメランを鬼越の脳天に突き刺してしまったのだ。

「暴露芸」の総決算か、決意表明か

動画の配信が4月23日で、そこから約1ヵ月後となった今回の番組。もしかして、2人は、川瀬によって脳天に突き刺さされたままの、目には見えないブーメランを意識していたのではないか。

そう考えると、『ゴッドタン』で「そこまで言って大丈夫か?」という現場の雰囲気を察した坂井が放った「人の悪口でやってるんだから自分のスキャンダルなんて全部バラけさすよ」「かっこ悪い芸人にはなりたくない!」という言葉が、より一層かっこよく聞こえてくる。

川瀬名人は鬼越に対して、劇場に戻ってきてまたネタをがんばってほしい、と前向きな提案をしていた。川瀬の言葉を受けたあとの、この真逆を全速力で突っ切るような「セルフ文春砲」である。もしかするとこれまでの暴露芸の「総決算」的な意味合いがあったかもしれないが、一方で、「やっぱり俺達にはこれしかできない」という決意表明≒開き直りのようにもとれる。

しかし、どちらにせよ、言えることがある。TVerを見るときに確認してほしいのは、鬼越の暴露をそばで聞いている時の、世の中にこれ以上おもしろいことはないというぐらいの笑い方をする劇団ひとりおぎやはぎの姿だ。こんなに人を幸せそうな顔にできるのだ。ネタはイマイチ、人の悪口で笑いを取る。でも、そんなお笑い芸人がいたっていいのではないか、と思えてしまう。

サヨナラBLOGOS

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このブログを長らく転載してもらっていたBLOGOSが明日でサービスの更新を終了する。

 

泡沫ブロガーとしては、大手企業が運営するプラットフォーム上に、何年にもわたって、しかも無料で拙文を転載してもらっていたことに感謝しかない。

 

ぼくのブログの転載がスタートしたのはたしか2012年で、今のBLOGOSの陣容と比べたら、かなりキャラが濃かった。その年活躍したブロガーを表彰するBLOGOSアワードもまだリアルイベントで、受賞者と受賞者が小競り合いになるなど、言論プラットフォームすぎる事故が発生するなど良くも悪くもピリピリムードがあった。そんな場所に、自分の拙い文章が同じように転載されることに興奮も覚えたし、少し恐さもあった。

 

思い出をあげだしたらキリがない。一番の思い出は、BLOGOSユーザーからのコメントだ。

褒められもしたり、貶されもした。ネット言論あるあるで、100人中100人、誰もが納得してくれることなんて中々書けない。真っ白な画用紙を掲げても「それはエビデンスないですよね?」「あなたの感想ですよね?」と言うてくる変わり者はいる。

ハッとする鋭いコメントで自分の考えを補正させてもらったこともあるが、「ここまで瑕疵ないように書いても、まだこういうことをコメントしてくるやつがおるか…」と唖然としたこともある。

ぼくの性格上、そういう経験をしていくうちに主張をやわらげよう、とは思わなかった。むしろ「この主張を100人中100人に納得させられる文章」を書くことにやっきになっていた時期もある。ある意味、「文章教室」のように使わせてもらっていた。

この際、正直に話すと「ウケるネタ」が降ってきたときに、「このネタ、今BLOGOSがほしがってんだろうな」と勝手におもんばかり、勝手に書いて、案の定掲載され、そこそこの注目を集めたことも一度や二度ではない。「受け手のリアクションを期待して発信者が変節する」という、ネット上ではありがちな危険なループにハマっていたこともある。まあ、若気の至りである。

 

不思議な掲載基準も思い出深い。中川淳一郎さんがすでに書かれていたことと重複するが、「これが載るんかい」もあったし、「これは載らんのかい」もあった。冒頭で書いたとおり、BLOGOSには感謝しかないが、「これが載るんかい」が下手に注目を集め、ランキングを賑わせた時は、めちゃくちゃ恥ずかしかった。あの恥ずかしめを受けた感じ、マゾヒストにはたまらないと思う。

中でも一番恥ずかしかったのは、BLOGOSきっかけで外に飛び出していってしまった例で、母校の大学について書いたことが、あろうことかJ‐CASTに記事にされてしまったことだ。

iincho.hatenablog.com

blogos.com

www.j-cast.com

別にこの記事がもとで、たくさんの非難を浴びたわけではない。むしろ共感の方が多かった。

しかし、「笑われるんじゃねえぞ。笑わせるんだよ」(@Netflix浅草キッド』)というリトル・たけしを心のなかに飼っているぼくのような人間は、自信をもって書いた一世一代のネタでなく、ちょろちょろっと思いつきで書いたことが、思いの外に注目されたところに、ものすごい恥ずかしさを覚えたのだ。ダンカンばかやろー。

 

楽しい経験も悲しい経験も恥ずかしい経験もした。でもそれも全部、BLOGOSに掲載されて、たくさんの人に読まれないとできなかったことだ。

 

サヨナラBLOGOS。関わってくれた全てのスタッフの次のステージでの活躍を願って。

敗者の足跡は勝者と同じぐらい美しい~『M-1グランプリ2007』トータルテンボスの場合~

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麻雀にハマっている筆者だが、やっていてつくづく思い出すのは、「勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなし」という野村克也の言葉だ。

麻雀は「運ゲー」だと評する人がいる。それはある意味で正しいけれど、それは麻雀というゲームの真実の姿を半分しか捉えていないと思う。麻雀が「運ゲー」なのは確かだが、「負けない確率」を高めるところに打ち手の「実力」が介在する。

でも「負けない確率」を高めたところで、必ず勝てるとは限らない。どれだけ勝てそうでも、最後に運にそっぽを向かれたら勝てないことだってある。だから、野村の言う「不思議」というのは正体不明の「運」のことなのだと思う。


「負けない確率」をいくら高めても、「勝者」になるとは限らない。しかし、雌雄が決したあと、敗者たちが描いた「あと少しで勝つはずだった道」も、勝者の足跡と同じぐらい尊いように感じる。それは、勝ちまで近かった敗者であればあるほど。

今回紹介したいのは、そんな「勝ちにあと1歩まで駒を進めた敗者」大村朋宏藤田憲右からなるお笑いコンビ・トータルテンボスのストーリー。彼らがニューヨークの公式You Tube「ニューラジオ」にゲスト出演し、漫才師の頂点まであと1歩まで進んだ『M-1グランプリ2007』を回想していた。

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サンドウィッチマンの印象は「面白いけど敗者復活戦はあがってこない」

屋敷: 2007年に準優勝。サンドウィッチマンさんが優勝ですよね。めっちゃ頑張った1年じゃないですか。どういう気持ちなんですか? 悔しいのはもちろんあるでしょうけど、解放感もあったんですか?

大村:いや~2位で終わったっていうのは悔しかった。しかもサンドウィッチマンっていう認めてたところが…

屋敷:どういう感覚やったんすか? サンドウィッチマンさんって。(当時)俺ら素人はわからんすけど。

藤田:当時は全く出てなくて『エンタ(の神様)』にたまに出てるけど、見た目はあれだし、(よしもと以外の)他事務所で、しかもあのときはまだグレープ(カンパニー)じゃないもんね?

大村:そう。弱小事務所で、だからよかったなって話してたんだよ

屋敷:ライブ界隈ではおもしろいっていうのはめちゃくちゃあったんですか? それこそトム・ブラウンさんとかメイプル(超合金)さんとか、そういう感じやったんすか?

藤田:あったんだけど、当時は他事務所の頂点が(東京)ダイナマイトだったのよ。

大村:その子分みたいな感じ

ダイナマイトの方がその当時は(存在が)デカかったから、「ちょっとサンドウィッチマン損してるなー」って感覚はあったの。間違いなくネタはおもしろいし。ネタはダイナマイトより面白いと思ってた。でも人気はなかったのよ。「(ハチミツ)二郎さんとかぶってるのは損してるなー」って思ってて。

人気はなかったから安心してたのよ。敗者復活するのって人気者が主流の時代だったから

藤田:今は視聴者投票

大村:そうそう。当時は実力も兼ねた人気者が来てたから

屋敷:ちょっとは知名度がないとしんどいイメージがありましたよね

藤田:あとは作家票があったんだよね。

大村:ちょっとなめてたら、(決勝に)来ちゃったよって。見る目あるんかい!って。そのときの大井(当時敗者復活戦が行われていた会場の大井競馬場)の観客たち。

屋敷:じゃあ(敗者復活からの勝ち上がりがサンドウィッチマンに)決まった時点で一番嫌な予感はしてたんですね

大村:(事前の)インタビューでも「パンク(ブーブー)とサンドが(敗者復活戦から勝ち上がったら)嫌だ」って言ってのよ。「でも彼らは来ないですよ。人気がないんで」ってそこまで言っちゃってたから。来たんかいっ!て

嶋佐:それがフリになってましたもんね。誰だよコイツらが

大村:ウケるよあんな…。あっちの世界の人みたいなやつらが…。

サンドの漫才は面白い。でも知名度に劣る彼らは決勝には届かないだろう。サンドウィッチマンに対してトータルテンボスの2人が抱いていた畏敬と楽観という両極の感情。しかし、トータルテンボスにとって万が一の嫌な未来予想は、無情にも現実になってしまう。

途中まで想定通りの完璧な展開

ただ、トータルテンボスも、勢いに乗るサンドを、ただ指をくわえて見ていたわけではない。

この年、トータルテンボスが、『M-1グランプリ』を獲りきるために1年をかけたあるプロジェクトを実行していた。その詳細については前半の動画を参照のこと。

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M-1決勝についても、トータルテンボスの“軍師”大村の頭の中には、3度目の挑戦にして最後のチャンス、2007年決勝進出で頂点を取るプランが明確にあったという。

屋敷:じゃあホンマ取りこぼしたというか、あと一歩というの気持ちすか?

藤田:もう(途中までは)完璧だったんだけど。

俺は全然わかんないんだけど、戦略大臣(大村)がこうなったらいい流れだって教えてくれるわけよ

嶋佐:なるほど

藤田:まず今みたいに笑神籤(えみくじ)でなくて事前抽選で(出番は)中盤ぐらいがいいと(思っていた)。前半が、笑い飯とか千鳥とかポイズン(POISON GIRL BAND)とかだったらいいなみたいな。ネタもわかってたから。あんまりウケないような…

大村:(ネタのテイストが)オーソドックスじゃない

藤田:そう。変化球、変化球、変化球でくるだろうなと。そしたら(会場の)空気が沈むと。そうなったら(ネタのテイストがオーソドックスな自分たちは)5番目と引きたいよなって言ってたの。そしたら5を引いたのよ! めっちゃいい流れがきたなって!

屋敷:おお(笑)

藤田:本番が始まってみたら案の定そういう流れになって。まだ爆発も誰もしてない感じ。「これ、行くんじゃない?」って。そして俺らがネタやってボカーンって爆発したのよ

屋敷:やっと爆発した、みたいなことおっしゃってましたね

藤田:想定通り来た。絶対いけるじゃん!って

屋敷:(決勝)3回目やし、なんとなくわかりますよね。

藤田:「行ったこれ」って。少なくとも絶対決勝(上位3組によるファイナルステージ)は行くし、優勝も全然あるなって思ってたら、俺の想定外がそこで1個起きて。俺らの起こした勢いを利用して俺らの次の組のキングコングがもう一つウケて、点数も向こうの方が上をいっちゃったのよ

屋敷:あ、そうでしたっけ? 服屋のやつ、スタンプカードの(キングコングが1stラウンドで披露した「洋服屋店員」)

藤田:あれあれ?? ってなって

嶋佐:流れがオーソドックスの(方に)

藤田:ちょっと嫌な感じがしてきて…

嶋佐:そっか、そこですぐ2位になっちゃったんすね

藤田:そこでサンドが出てきたから「やべっ」てなって

屋敷:ウケる未来が見えてたんすね

POISON GIRL BANDや千鳥、笑い飯といったハマれば怖いホームランバッターらが軒並み下位に沈み、トータルテンボスの比較的オーソドックスなコント漫才が爆発。想定通りに優勝圏内に入った。

ここまで想定通りのゲームプランで進んでいた決勝。そこに想定外の登場の仕方をしたのが、当時ほぼ無名のサンドウィッチマンだった。

しかも、大村が戦略を張り巡らしたのと同じように、サンドも「戦略家」だったという。彼らも万に一つの「敗者復活からの勝ち上がり」を想定して、「戦略」を立てていたフシがあるというのだ。

大村:まあ、サンドも戦略家だから。当時は1位通過が順番を決めれたの

屋敷:そうですね。だいたい「3番」って言うけど一応聞くみたいなのありましたね

大村:「3番」って言うのってさ、「勝ち狙いにきてんのかい!」ってイヤらしさが見えるじゃん? 

でもサンドはね、「3番」って言うんだけど、「こんないきなり来てなんの準備もしてないから、ネタも決めたいんで…」

屋敷:「2本目ないです」って言うてましたもんね

大村:そう。時間稼ぐために3番でお願いしますって誰にもイヤらしさが残らない…

屋敷:はっはっはっ(笑)

大村:「そりゃ仕方ないよね3番で」って。で、キングコングが2番、俺らが1番になって。

(ネタを)やって袖帰ったらさ、サンド、ネタ合わせなんてしてないもん。こうやって(ふんぞり返って)タバコ吸ってたもん

屋敷:(爆笑)もう2本目余裕であるんすね(笑)

嶋佐:それビビりますね

屋敷:おもしろ! じゃあもう描いてたんね! あの(ファイナルステージ前の)からみから。かーっ! おもろ!

敗者復活戦から勝ち上がり、その勢いのまま優勝をかっさらったサンドウィッチマン。当時史上初だった「敗者復活戦からの優勝」という快挙を許し、トータルテンボスの2人のM-1の歴史は幕を閉じた。

もしあと5年出られたら? その回答に見えた勝負師の矜持

屋敷:それで10年を全力で走ってラストイヤー。2位で終わって。そっからはどういう? 俺ら今15年なんすよ

藤田:今年ラストイヤーじゃん

屋敷:いや、俺らは(芸歴)11年目っす。だからあと4、5回出られるんす

大村:昔だったらもう出れてない

屋敷:そうそう。去年がラストイヤーでした。だからどうですか? もし15年だったらどう思います? 「嫌やなーっ」て思いますか? それともリベンジのチャンス増えた!って思います?

大村:もしあと5年出場できていたとしたらガッツポーズしてたと思うよ

屋敷:マジすか!?

大村:「またチャレンジできる」って

屋敷:「もうしんどっ!」てならなかったすか? また1年って…

藤田:いやー、なんかぐんぐん漫才が面白くなっていってるのが分かるから

屋敷:(爆笑)マジ戦闘民族っすよそれ!

藤田:真綿が水を吸うかのごとく。めっちゃくちゃ上手くなっていってるし。当時はめっちゃ進歩してるなっていうのが肌感覚で分かったからね

屋敷:じゃあ残念ですか? あと1年あればマジでいけるのにって感じですか

大村:いけると思うよ

屋敷:うっわすご

藤田:絶対行けるんじゃない?

屋敷:めっちゃしんどいじゃないですか? M-1に懸ける1年って

大村:あのときは、「優勝したら出なくていい」っていうのがあったから

藤田:その年無理でも、次の年決めればいいしって

屋敷:でも(出番を決めるくじで)1番引く可能性とかチラつかんかったんすか?

嶋佐:そんなの考えてないんだ

大村:考えてない。また5番引くだろうしって

屋敷:ひゃっひゃっひゃ! マジなんなんすか? マジすごいんすけど

嶋佐:そういうところもありますよね

藤田:全然ポジティブだったね

屋敷:「うわ、また1年がんばらな…」じゃないんすね

大村:それを噛み締めて方がいいぜ。チャレンジできる喜びを

藤田:マジで!

大村:終わって気づくから。「うわ、なんて幸せだった! あの賞レースに望めたことが」って。終わって気づくんだ

屋敷:まじ野球部の先輩としゃべってるみたいやな(笑)「お前ら練習さぼんなよ」みたいな

嶋佐:やっぱ野球部なんだよな(藤田は高校時代、野球部でエースとして活躍)

屋敷:ほんまそうっすね。体育会というか。アスリートっすね

サンドの側からしたらまさに奇跡の優勝だった。当時は敗者復活から優勝することは、文字通り「ありえなかった」。現在までにも、歴代優勝コンビ全17組のうち、敗者復活から優勝できたコンビは今も2組しかいない。サンドウィッチマンは一度は敗れ、彼らのあの年のM-1は一度終わっていた。万に一つの可能性に懸けて、それをものにした。

一方彼らの優勝は、トータルテンボスからしたら、「どんなに負けない確率を積み上げても、万が一の豪運をつかんだ者に敗れるかもしれない」という残酷な現実だった。今、2007年の最終スコアを見返してみると、イメージ以上に両者は接戦だった。ファイナルステージのサンドは4票、トータルテンボスが2票で、もし4票のうち1票でもトータルに流れていたら(形式上は)同点だった。それぐらい、紙一重の勝敗だった。

しかし、そんな残酷な「紙一重」を経験しても、彼らは「もし来年も出場できたとしたら?」という仮定の話に、「次の年決めればいいし」とひょうひょうと答える。

一度の敗北を引きずってクヨクヨしている暇はない。終わったことは仕方ない。また同じように、次の戦いに向けて、またイチからコツコツと勝利の可能性を積み上げていく。それが「勝負師」の姿なのかもしれない。

 

ちなみに、大村は芸能界で名うての麻雀打ちとしても有名。かつて、麻雀番組で1日に役満国士無双と「ドラ10」というありえない和了を2つも達成する豪運を見せたことがある。

times.abema.tv

このときの運が少しでも、2007年12月に注がれていたら、という気がしないでもないが。