いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

人生がしっくりこないアラサーアラフォーが見る映画『わたしは最悪。』

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約1万キロ離れた北欧の人たちに自分の見透かされているような気がする映画だ。もしかして、これは世界的に起きていることなのだろうか?

 

子どもの頃から秀才のユリヤは大学は医学部を専攻。しかし、「私は人を切ったり縫ったりするのに興味があるわけではない。人の精神に興味があるんだわ」と気づき、精神医療に籍を移すが、そこでさらに、自分は写真を撮りたかったんのだと謎の「啓示」を受けた彼女は、親に高い授業料を払ってせっかく通っていた大学を辞めて写真家デビュー。もちろん芽が出るはずもなく、書店員として働きながらアラサーを迎えたところだ。

 

ユリヤが話す、自分が自分の人生の主役じゃないような気がする、という感覚はとても分かる気がする。自分の人生なのに、しっくりこない感じ。「ここではないどこか」に思いを馳せるあの感覚。それが20代そこらならまだ可愛げがある。問題は、本邦では30代40代になってもそうした人間がゴロゴロいる、ということだ。もちろんぼくも含めて。スクリーン上でユリヤが節操がなくあれやこれやと手を出す姿にも、呆れるよりもまず「自分は同じように目移りしまくってもあんな風に行動に移せないから、ユリヤは行動力があってすごいなあ」と感心してしまう始末だ。

 

そんなユリヤはある日、著名な漫画家アクセルと出会い、交際に発展する。年の差はあれど、リベラルで知性的で芸術に心得があり、自分の文才を認めてくれた彼との同棲生活は、順風満帆に思えた。しかし、そのまま丸く収まっていれば苦労はしない。著名人でもある彼の隣では、いつまでも「彼の人生の脇役」に甘んじてしまうことに、ユリヤは物足りなさを感じ始める。

そんな折に、彼女はふらっと立ち寄ったパーティでアイヴィンという男と出会い…。これ以上書くとまだ鑑賞する前の人の興を削ぐことになるので自粛するが、ユリヤの「人生流浪の旅」は男についても同じである、ということだけは付け加えておきたい。

 

本作『わたしは最悪。』は、ユリヤという主人公を通してぼくらにこう訴える――「いい加減、“ここではないどこか”なんてないことに気づけ」であるし、「場所を変えるんじゃない。お前が変わるんだよ!」ということだ。

 

紆余曲折のあった末の終幕、ユリヤは再びカメラを手にした仕事に就いているようだが、その意味合いは、映画の冒頭で彼女が思い描いていたような「写真家」とは程遠い。どうも映画やドラマの「スチールカメラ」のスタッフのようで、ぐっと黒子的の意味合いが強くなる。

「私が私の人生の主役ではない」ことを思い悩んでいたユリヤが、「主役をいかに引き立たせるか」という職業に真摯に取り組んでいる姿は、彼女のささやかな成長を描いている気がした。

 

冒頭で書いたように、日本のアラサーやアラフォーの人生が定まらないふらふらした男女には耳が痛い映画である。奇しくも先週末からは『セイント・フランシス』という映画も公開されている。まだ観ていないが、予告やレビューを読む限り、『わたしは最悪。』と同じテーマで強く共鳴しているように思える。

 

自由には自由ならではの不自由がある。それに気づいた人からこのゲームを降りていく。いつまでも自由の不自由に気づかない頭お花畑の人たちだけを残して。いま、リベラルや社会で自由を謳歌した先でふっと沸き起こる不安に対して、共感や代弁が求められ始めているのかもしれない。

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