女同士の濃密な恋愛を描いた昨年のカンヌ映画祭パルム・ドール作品。18歳の少女アデルと、彼女が偶然出会った芸術に生きる女エマとの、情熱的な愛欲の日々を描いている。
誰もが初見で慄くのは、主演のアデルを演じたアデル・エグザルコプロスと、相手役エマのレア・セドゥの逢瀬のシーンだろう。ファッションレズなどではない。女性同士の口淫も包み隠さず描く、ガチのからみである。エロいと思わなかったといえば嘘になるが(イチロー風)、それ以上に、男女のセックスのような終わり(挿入→射精)がない分、衝動の行き場のなさのようなものが強調され、よりいっそう切なさが募る。
興味深いのは、2人の付き合いが深くなるにつれ、それぞれが旧来の性役割分業を引き受け始めることだ。エマには芸術や哲学への造形の深さという「文化資本」(P・ブルデュー)があるが、アデルはそんな彼女と彼女の仲間たち「インテリ」の話についていけない。一方、彼らは家庭的なアデルの作るパスタを、美味しい美味しいと食べる。画壇での成功を夢見るエマは、アデルにも社会的な成功を望むが、彼女は安定した教師の仕事で自分はいいのだと譲らない。
それは、同性愛をオープンにできるリベラルなエマの家庭と、初対面のエマに無遠慮に"彼氏"との状況を訊く保守的なアデルの家庭との対比と、ほとんどピッタリ重なる
最初は一心同体のような幸福を謳歌する2人だったが、永遠ではなかった。些細な亀裂が次第に広がり、致命的な域に達するという2人の離別も、よくある、ありふれた男女の別れのようだ。
エマ役のレア・セドゥももう十分すぎるのだけれど、なによりも弱冠19歳のアデル・エグザルコプロスの魅力が炸裂している。
なんだあの原色の魅力。10代のころの宮沢りえを彷彿とさせる、ふてぶてしくもあり、たくましくもある可愛さだ(そういえば、宮沢の『Santa Fe』が撮影されたのもほぼ同時期の18歳だった)。粗暴とすらいえる当初10代のアデルが、エマと知り合い、付き合っていくうちに、可憐な「妻」へと徐々に変化していくグラデーションを、繊細に演じ分けている。
決定的な離別のあとの、アデルの行動がいじらしい。未練が断ち切れない彼女と、その誘いを懸命に断ろうとするエマに、なんとかしてやれないだろうかと観客ながら思えてくる。
人を好きになることそれ自体の後ろめたさと、それを受け入れたあとの甘美さ、肌を交える気持ちよさ、相手を独占したいエゴ、そして何度されても精神が受け入れられない別れの告知――異性愛と同性愛の垣根を越えて、それら全てが普遍的なのだと教えてくれる映画だと思う。