とあるフランスの産科病棟を舞台に、2人の新人の目線から、肉体的、精神的にきつい助産師という仕事を描く。まるでドキュメンタリーのようなリアリティあふれるタッチで描く手つきには、綿密なリサーチがあったことがうかがえる。
鳴り止むことがない電話に、走り回るスタッフ、飛び交う怒号に言い争い。描かれるのは、心休まることがほとんどない、戦場のような新たな生命が生まれる現場だ。
忙しいだけならまだマシだ。一歩間違えれば妊婦やその子の命を奪ってしまうかもしれない。これ以上にない重圧の中で、助産師たちはすり減っていく。ときに、法的に脆弱な存在も区別なく病棟を訪れ、「それは本当に助産師の仕事なの?」という問題まで、彼らは手を煩わされなければならなくなる。
本作を観ていると、問題の原因は明らかだ。人手不足であるし、人件費不足でもある。とにかく人が足りない。
でもそれを解決する責務を負うはずの存在は、不思議なことにこの映画に登場しない。もしその責務を追う人がいるならば、管理職だろうが、本作に出てくる管理職らしき中年の女性は、時折登場するものの、薄笑いを浮かべるばかりで問題を解決する能力がないのは明らかだ。では、助産師たち自身が声をあげればいいのか? 彼らに現状を変える権力はないし、そんなことをするひまもない。その間にも、次々と新たな妊婦が運び込まれてくるのだから。
ことほど左様に、本作は産科病棟についてどれだけ饒舌に語っても、不思議なほどに、助産師たちを救うべき「政治」や「行政」は出てこない。でもその不在こそが、本作が助産師という仕事のリアルとともに描きたかったことなのではないか。
これは、入江悠監督の傑作クライムムービー『ギャングース』に似たアクロバティックな手法だ。
『ギャングース』では、子どもが頼るべき「大人」が一切描かれない。壊れてしまった子どもたちを描くことを通して、「大人の不在」というとてつもない大きな穴を描いたのだ。
同様に『助産師たちの夜が明ける』は助産師の痛みに寄り添うが、その痛みの処方箋を出すべき「責任者」については言い淀む。でもそれはあえての「言い淀み」だ。矛盾した言い回しになるが、本作は行政、政治の責任を“一切語らないことによって名指しで批判する”。