いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「娼婦」と「妻」は分かり合えるのか?/映画『午後3時の女たち』

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「昼は淑女、夜は娼婦」という言葉がある。普段は貞淑に見えるけど、夜ベッドの上では乱れる女性が理想的という、男都合の少々アレな言葉だ。

しかし元来、家父長制がこの淑女と娼婦の両者を、昼と夜ではなく、内側に淑女=妻や娘を囲い込み、その外側に娼婦=セックスワーカーを締め出すやり方で隔絶させてきたのは、社会学フェミニズムが指摘するところである。娼婦が不必要だから外に放逐されるのではない。娼婦は必要悪として外にあることで、家父長制という制度そのものを下支えする。

こうした制度上、「妻」と「娼婦」は敵対こそすれど、本来交わることはあり得ない。映画『午後3時の女たち』は、そんな二者が手を取り合う可能性を模索する。

ヒロインのレイチェル(キャスリン・ハーン)は専業主婦で1児の母。かつては戦場記者を夢見ていたが、今は平凡な暮らしを送っている。夫のジェフとの仲は良好だが、半年ほどレスなのを悩んでいる。

そんなレイチェルは、友人から「夫と行ったらレスが解消できるかもしれない」と聞き、夫婦でストリップクラブを訪れる。そこで出会ったのが、ストリッパーの若い女性マッケナ(ジュノー・テンプル)だ。

後日、レイチェルは街で偶然マッケナと再会する。マッケナの話を聞くと、彼女は母子家庭育ちで実家は貧しく、学歴もない。ストリップのほかに体を売る固定客がいる(日本風に言えばパパ活だ)。しかし、マッケナ本人は、天真爛漫で人懐っこい性格で、自身の状況をあまり悲観してはいない。そんなマッケナに人間的に惹かれていくレイチェルは、家がない彼女のために、自宅の空き部屋を貸し与えることにする。マッケナとの間にシスターフッド(女の友情)をほのかに感じ始めるレイチェル。隣の芝生は青く見える。女として満たされない自分と比べて、女という性を謳歌するマッケナの生き方が光って見えたのだろうか。

「午後3時ぐらいにするセックスが一番心地いいわ」、そう語るマッケナ。レイチェルはあるとき、ほんの軽はずみな気持ちで、彼女が体を売る現場に連れて行ってもらうことにする。午後3時、客の待つホテルを訪れたマッケナとレイチェル。

ところが、いざ本番になるとレイチェルは、マッケナが老年の客と愛のないセックスに興じる姿を直視できなかった。生理的に拒絶してしまうのだ。この経験が、レイチェルの心に暗い影を落とす。よく知りもしない男とセックスするなんて。この子とは分かりあえないかもしれない。私と彼女はやっぱり赤の他人なんだーーそれまで近しい存在だと感じていたマッケナに、レイチェルが次第に距離を感じ始めたころ、さらなる事件が起こる。

レイチェルはある夜、ご近所のママ友たちと、互いの子どもをシッターに預け、水入らずのパーティを開く。妻達が日頃の鬱憤を晴らしているその頃、レイチェルとジェフの自宅に集まった夫連中がトランプゲームをしていると、マッケナが階下に降りてくる。若くてセクシー、おまけにサービス精神の旺盛なマッケナは、ジェフら夫たちを前に即席のストリップを披露し始める。酒も入り盛り上がる男たち。徐々によからぬ空気がその場を支配し…そして映画は、修復不可能で致命的な修羅場へと雪崩れ込んでいく。


この先の結末まで書くと興を削いでしまうので、ここまでにしておこう。

本作が描くのは、「娼婦」と「妻」の共闘の可能性だが、描かれる結論は、あまり明るいものではない。先述したように娼婦は家父長制になくてはならない存在だが、あくまでも制度の外に存在しなければならない。内は入ってしまえばそれは、いるだけで否が応でも秩序を攪乱する破壊者とかしてしまう。

夫と一度は離別してしまうレイチェルがたどるクライマックスは、あまりにもとってつけたようで少々物足りないが、娼婦と妻の共闘可能性を模索する本作の意義深さは、少しも減じることはない。