キノコタケノコ論争に匹敵する激烈な対立を呼ぶ庵野秀明総監督、樋口真嗣監督という布陣の話題作「シン・ゴジラ」。ようやく観てきました。
もう観終わったあとのほぼ満員の観客の雰囲気が物語っていましたね。年に1作か2作しかない、「終わった後、徹底的に誰かと語りつくしたい映画」であることは間違いないはずです。
「ホウレンソウ映画」サイコー!!
情報量が多く、さまざまな語り口があると思います。たとえば庵野監督のセルフパロディの部分であったり、特撮史からみた視点もあることでしょう。けれどそれらはきっとすでに多くの論者が語り倒しており、ぼくが遅れてきてここに書く必要はないでしょう。
ぼくが「シン・ゴジラ」でとにかくアガッたのは政治家、官僚たちの「ホウレンソウ」のシーンです。そう、ぼくにとって「シン・ゴジラ」は「ゴジラ」の映画でなく、あくまでも「人」の映画なのです。だからこそたまらない。
社会人のみなさんは日々痛感されていることでしょうが、日本政府という巨大な官僚機構においても、もっとも重要なマネジメントツールは報告、連絡、相談という「三種の神器」なのです。この映画は、とことんまでにこの「ホウレンソウ」を描き切る。
もちろん、かつてのゴジラシリーズにおいても「ホウレンソウ」のシーンはあったことでしょう。けれど、本作はその量、内容において、他を凌駕しています。
それは、ゴジラがはっきりと出現する前から始まります。東京湾沖で発生した不測の事態をめぐり、政府官邸において膨大な「ホウレンソウ」が乱れ飛び始めます。あんな「ホウレンソウ」、こんな「ホウレンソウ」、報われる「ホウレンソウ」があれば報われない「ホウレンソウ」もある。われわれ社会人は、スクリーン上で描かれる多種多様な「ホウレンソウ」シーンに、様々な思いを抱くはず。
しびれるのは、「ホウレンソウ」の内容もさることながら、それが放たれる際の口調です。ここまでくると個人的なフェティシズムの気が強いですが、あの(われわれがこうあってほしいと願う理想上の)官僚、政治家たちの操る抑揚のない、感情を押し殺した口調。しかもその口調を、何人もの背広族が画一的に操るその様は、それだけで壮観。ごはん何杯でもいけます。
ゴジラ映画にもかかわらず会話劇。ゴジラ映画にもかかわらずゴジラが主役でない。この映画の主役は何を隠そう、「ホウレンソウ」なのです。
ゴジラとはいったい何なのか?
ネット上で盛んに議論されているのは、ゴジラの示す隠喩です。こう書くとクイズみたいで嫌ですが、ぼくは鑑賞した上でそんな難しく感じませんでした。この映画におけるゴジラとは何か。それはシンプルに「未曽有の事態」にほかなりません。
先述した膨大な「ホウレンソウ」によって運営されている官僚機構が、こっけいなまでに愚直に守り続けるのは、「前例主義」であります。
しかし、前例主義には唯一にして最大の弱点があります。それが「未曽有の事態」なのです。
ところで、鑑賞する前の昨日、Twitterでこんな投稿を見つけました。
この情報が真実かは不明ですが、きょう注意深くセリフを聴いてみたかぎり、たしかに登場人物の中に「怪獣」と口にしたひとは一人もいませんでした。シン・ゴジラのエキストラ撮影のときに説明されたんだけど、この作品は円谷英二が生まれなかった世界だという。54年の映画はもちろん、そこから派生する『キャラクタ化された巨大害獣』としての怪獣の概念自体が存在しない世界。そのため劇中では一度も怪獣という言葉が使われていない。
— 佐呂間天 (@saromaten) 2016年8月3日
なるほどたしかに、「怪獣」と定義した瞬間、それは「そういうもの」に落とし込まれてしまう。ゴジラはもはや日本特撮史を代表する怪獣です。制作陣は今回、既存の概念に落とし込むことのできない「未曽有の事態」へと、ゴジラを解放させたかったのではないでしょうか。ぼくには、そのことを描きたかったのでないかと思えてならないのです。
「未曽有の事態」ほど怖いものもありません。例えば、日本は地震が多いとは以前から言われていましたし、原発事故だって原発を設置した瞬間から起こりえたリスクです。それらの「既知のリスク」で現実のわれわれ日本人がこの有様なのですから、完全なる「未曽有の事態」と対決した「シン・ゴジラ」の面々はよくやったとさえいえることでしょう。
前例主義で後手後手に回ってしまった映画の中の日本政府は、「未曽有の事態」を前にして一度もろくも崩れ去ってしまいます。一方で、ぼろぼろになった日本を救うのもまた日本が生んだ「オタク」や「社畜」というのもまた、心憎いストーリー展開ではないですか。
多くの人がすでに述べているように、ビッグバジェット映画の悪癖といえるご都合主義的な家族愛、恋愛描写はほぼ完全に廃されています。しかし、にもかかわらず、どうしようもなく胸に熱いもがこみあげてくる。そこにこの映画と、そして表現の持つ不思議な力を感じざるを得ないのでした。