いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】デッド・オア・リベンジ

悲惨であり、痛快であり、観た後に自分の感情に怖くなってくる映画です。ジョージア(旧呼称グルジア)製作という日本では珍しい一作。

始まりは、男女の恋愛感情のもつれをきっかけとしたイタズラでした。ところが、事態はあれよあれよという間に最悪の方向へと転がり落ちていきます。そして主人公たちは、おそらく人生で一番困っているときに、よりによって一番関わり合いになりたくない人物に、関わりを持つ必要に迫られます。

その人物というのがまさにゲスの極み乙…もといゲスの極みのような人物です。主人公は、自分の愛する女を目の前で陵辱され、しかも自分はある事情から手も足も出せない状況に陥る! 気が狂いそうな歯がゆい状況ですが、よく考えたらAVの設定みたいですね……。それはともかく、前半はこれでもかというゲス野郎の鬼畜ぶりだけが強調され、救いがありません。

しかし、映画は後半になって、文字通り180度反転します。前半で起きた陰惨な出来事の後日談が、まったく別の視点から語られるのです。
ここからはネタバレということもあるのではっきりとは言えませんが、「見ていて気持ちよくなるファニーゲーム」とだけ表現しておきましょう。

ファニーゲーム」はリメイクも含めて、映画史上に残る胸くそ悪い映画ですが、実はこの「デッド・オア・リベンジ」の後半も、ちょっと似ているのです。

しかし、これが全く胸くそ悪くない。いやむしろ痛快ですら思えてくるのは、前半の存在があるからでしょう。胸がすく思いで、いいぞ!もっとやれ!と思えてしまう。

ただその一方、そこに「快感」を見出してしまう自分にも、後々怖くなってくる。だって、表面的にみれば後半で起きることは「ファニーゲーム」なのです。相手を絶対に逆らえない状況にした上で、その生命をもてあそぶのですから。

そうした陰湿な光景が感情的に受け入れやすくなっているのは、前半で描かれた「文脈」があることにほかならない。いいかえれば、ぼくらはどんな暴力でも「文脈」さえ整えば、よしとしてしまうということではないか。タレントがメディアで私生活を暴かれ、ネットで袋叩きに遭っても放置されるのは、彼女が不倫をしていたからでしょう。「〜したのだから仕方ない」という条件付けで、ぼくらは目の前の暴力に判断停止する権利を得るのです。

クライマックス、全てをおえて虚脱した主人公の表情を眺めていると、自分の感じた快感に対して、背筋が寒くなってくるのです。