いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

『シン・ウルトラマン』が『シン・ゴジラ』の熱狂を超えられなかった理由

ウルトラマンTシャツと蒲田くんのスマホスタンド(重宝してます)

大ヒット中の『シン・ウルトラマン』。個人的には、チープな昭和特撮の雰囲気や、ゼットンの斬新な解釈、メフィラス山本耕史など好きな部分もたくさんある作品で、近年の商業的に成功した邦画作品の中では、納得できる数少ない良作に思えるが、反面イマイチ乗れない部分も少なくなかった。

当然のように同じ庵野秀明が関わった特撮作品『シン・ゴジラ』の延長線上でこの作品を観に行った人が大多数なわけで、本稿では『シン・ゴジラ』と比較した上で見えてくる、『シン・ウルトラマン』の「ここがちょっとなあ…!」という部分、単刀直入に言うと「『シン・ウルトラマン』が『シン・ゴジラ』の熱狂を超えられなかった理由」を考えたい。

ノレなかった人間ドラマ

一つは、人間ドラマのパートの軽薄さである。石原さとみ…もとい長澤まさみ演じる浅見分析官は登場したのっけからバディバディバディバディとしつこいぐらいに単独行動しがちな神永担当官に食ってかかるのだが、このやりとりが本当に形式じみていて興ざめだった。

そうした学級委員長的な、ルールはルールでしょみたいな生真面目な人間はたぶん官庁でも出世コースを行くもので、「霞が関の独立愚連隊」禍特対のような場所にまがりまちがっても関わりを持たないだろう。リアリティがない。

そのように、人間ドラマは軽薄に見える。これが、ニチアサで全50話1年をかけて放送するならまだわかる。しかし、たった2時間というスケールで、互いを手段ではなく目的として尊重し合う関係性を描こうとすると、観客にはなかなか伝わりにくい。

そもそも、浅見が新入りという設定の必要があったのか。観客への説明もかねてどうしても新人が必要というなら、有岡くんの方がもっと適任だったのではなかろうか。いつも新人っぽいし。神永と浅見がもっと前からバディを組んでいるならば、あの関係性もまだ納得できていたと感じる。

ここまで書いてきたことについて、「それは『シン・ウルトラマン』に限った話ではないだろ」というツッコミが聞こえてきそうだが、仰る通り。これは多くの邦画にあてはまることで、だからこそ海外で邦画がヒットしない原因の一つだと思っている。

一方、『シン・ゴジラ』は人間ドラマをどう処理したのか。『シン・ゴジラ』は邦画の中でも数少ない、人間関係を上手に描いた作品に思えるが、このたび考えなおしてみると、実は『シン・ゴジラ』が人間関係を上手く描いているように見えたのは、人間関係を極力描かないようにしていたことに起因すると思う。

ここでいう人間関係とは、「お互いがお互いを目的にする関係性(愛情、友情、愛着など)」のことだ。

劇中ではまず、登場人物全員の共通の目的として「ゴジラという巨大生物の駆除」という超弩級のが一個ボンと提示され、それが一貫して、ブレずに常に作品の中心にあり続ける。それを中心にして、登場人物たちは常にドライに、お互いの利害を巡って対立や和解、協調を繰り返す。「情」があるとすれば、日本という国への「情」であって、多くの観客には飲み込みやすい類のものだ。

「人間だってやればできる!」感がない

シン・ゴジラ』に比べて『シン・ウルトラマン』に乗れなかった理由。もう1つは、身も蓋もない話になってしまうが、ゴジラが怪獣(劇中ではそう呼ばれてなかったけど)、ウルトラマンが知的生命体だということに尽きる。

 

これは以前に書いたことなのだけど、『シン・ゴジラ』は「怪獣映画」の着ぐるみをかぶった「日本社会論」である。

iincho.hatenablog.com

 

描かれているのはゴジラ、ではない。ゴジラという未曾有の災害に直面した日本人の姿だ。もちろんそれは、先の3.11を射程にいれていることは言うまでもない。

日本人が「二度と核を使わせない」という信念のもと、ゴジラという厄災を知恵と工夫によって封じ込める。そこに、ただの怪獣映画以上のカタルシスがあり、既存の特撮ファンを超えて多くのファンの心に刺さったのだ。

 

一方、今回の『シン・ウルトラマン』はどうか。『シン・ゴジラ』との違いは、「人間より知的な生命体がいる」という状況だ。人間は「彼らより下の存在」ということを、あからさまに突きつけられる。それがよくない、ということがいいたいのではない。「人類より知的水準の高い生命体」というモチーフ自体は、なにも新しいわけではない。『幼年期の終り』などこれまでも無数のSFですでに描かれた状況なのだ。

問題は、それによって先の『シン・ゴジラ』のように「人間が知恵と工夫で解決する」というチャンスが奪われたことである。具体的にはゼットンのパートだが、観た人には分かるように、ここで人類はウルトラマンからある「アシスト」を受けた。それがないと、おそらく人類は滅びていただろう、それぐらい大きな「アシスト」だ。

シン・ゴジラ』のゴジラは、別に自分の血液凝固剤のレシピを巨災対横流ししていない(当たり前だ)。「アシスト」のシーンはとても地味で、観終わったら忘れてしまう人もいるぐらいの一瞬なのだが、それでも確実にそのシーン1つによって、『シン・ゴジラ』にはあった「人間だってやればできる!」というカタルシスが、『シン・ウルトラマン』からは奪われてしまった。

残酷な話ではあるが、そのかすかな違いが、『シン・ゴジラ』を10年に1本の快作にし、『シン・ウルトラマン』を「並の良作」にとどまらせた決定的な違いだったと思うのだ。

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