いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「石原さとみの結婚相手は一般人であってはならぬ」という“大いなる意思”

f:id:usukeimada:20201026203803j:plain

石原さとみの配偶者について報じるネットメディアの一例

石原さとみに対してそんなに思い入れがないため、彼女の結婚のニュースを聞いた際にも「今年はサンマが高値 回遊少なく」みたいなニュースと同じで、「ふーん」ぐらいの感想だった。

そんな事はいいとして、こういうニュースで注目されるのはお相手で、それがいわゆる「一般人」と紹介される場合、今回のようにゴニョゴニョと世の中がうごめいている。

 

石原さとみ(33)一般男性との結婚を発表|日テレNEWS24

 

石原さとみ電撃婚のお相手は “普通の会社員”、大女優が見せた “庶民的” な顔 | 週刊女性PRIME

 

当初は相手が「一般人」ということだったが、相手が大手米証券会社ゴールドマン・サックスの社員だという報道が出てから(この真偽は不明)、潮目が変わる。

 

石原さとみの結婚相手「GS社員」は「一般男性」なのか (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト

 

石原さとみ 結婚相手は「年収2000万円はあるエリート」|NEWSポストセブン

 

石原さとみ、エリート夫との出会いは連日開催していた「ハイスペック合コン」 | 週刊女性PRIME

 

石原さとみ、東大卒の夫が「複数の不動産所持」「モデルの過去」を暴かれた舞台裏 | 週刊女性PRIME

 

「一般人」「普通の会社員」「庶民的」といった表現はどこへやら。

各メディアが「石原さとみの夫」というキャンバスに、好き勝手にたくましい妄想を描き続けている。

 

VIPの結婚が報じられる度に出てくる「一般人」について、今回のように、必ずといっていいほど疑義が挟まれる。公人ではないとはいえ、いいところの坊っちゃんなんじゃないか。政治家やVIPの子息じゃないか。高給取りのスーパーサラリーマンじゃないか。

 

性別が逆転しても同じだ。男性芸能人が結婚し、相手が「一般女性」と報道されるや否や、ネットの私立探偵たちが調査を開始。終いには「プロ彼女」という新たな概念まで案出され、「一般人とはちょっとちがう枠」が設けられてしまう。

 

まるで、人気有名人の配偶者が「一般人であってはならない」という「大いなる意思」を、世論から感じてしまうほどだ。

 

しかし、こうした「大いなる意志」は、はたして、有名人へのやっかみであったり、格差社会、実は依然として存在する日本の階級社会への批判的な目線なのだろうか。

 

ぼくはそうではないと感じる。

むしろ逆だ。社会の側から、「石原さとみの伴侶が一般人であってほしくない!」という悲痛な叫びのようなものが聞こえる。すっぱい葡萄ではないが、世の中の男性みんなが「石原さとみが“一般人”なんかに振り向くはずがない! いや、振り向いてほしくない!」と思っているんじゃないだろうか。

 

どうして「石原さとみの伴侶が一般人であってもらっては困るのか」というと、もし、「一般人」を選んだとするならば、石原さとみの相手はぼくでも、そしてあなたでもよかった、ということになってしまうからだ。

でも、そうではなかった。当たり前ながら、石原はぼくも、あなたも選ばなかった。

 

ぼくらは、さまざまなステータスの集合体だ。「容姿」「年齢」「出身地」「年収」に「業界」「業種」、その他の数え切れないほどの変数の集合が「ぼく」だ。

 

もし、石原さとみが「ゴールドマン・サックスの社員だから」その相手を伴侶に選んだとしよう。あくまで仮定での話だ。

 

そうなると、「ああ、相手はGS社員だもんな。そりゃ仕方ないよ」と諦めがつくのである。「高収入」「安定性」といったタグで選ばれたなら仕方ないではないか、と納得がいく。容姿や身長、出身地など、自分にはどうにもできない変数。収入など、すぐには変えられない変数。それらが決め手ならば、石原に選ばれなくても仕方がない。

 

 

ところがもし、彼女の相手が無印の、ただの、本当の意味で「一般人」であったとすれば。そのとき、ぼくらはむき出しの、「人間としての魅力」=モテ力にさらされていることになる。

 

ぼくらと大して変わらない容姿、大して変わらない年収の男が、石原さとみの伴侶に選ばれたとき。そのとき、ぼくらは、自分の「人間としての魅力」で、その伴侶に劣っていることをまざまざと見せつけられたことになる。

 

「ガール・ネクスト・ドア」という言葉がある。泣かず飛ばずだった音楽ユニットのことではない。「隣の家に住んでいるような普通の人」、転じて「庶民的な女の子」という英熟語だ。

 

もし、彼女の伴侶が「ボーイ・ネクスト・ドア」ならば、われわれの「人間としての魅力」で敗北したことをまざまざと見せつけられることになる。もし、本当の一般人であるならば、われわれの「敗北」が白日のもとに晒されてしまう。

 

そこは、「向こうはゴリゴリのJ1のトップチーム、こっちは草サッカーなんで、対戦すらしてませんよ」とシラを切らなければならない。だからこそ、セレブリティの結婚報道のたび、「一般人であってはならぬ」という社会的な圧力がかかるのでないか、とぼくは思っている。ぼくらは、有名芸能人が一般人と結婚するたび、「向こうはJ1、向こうはJ1」と自分に必死に言い聞かせている状態なのだ。

 

ただし、シングルの人に対して、この話には悲しいオチがある。

相手がVIPであろうとなかろうと関係ない。恋人や配偶者がいないかぎりは、どちらにせよ、あなたが「人間としての魅力」=モテ力に乏しいか、あるいはまだ誰にもその魅力が見つかっていない、という事実だけは残る。それだけは、石原さとみの相手が一般人であろうとなかろうと関係ないのだ。