先日、引っ越した際に整理したら、片方しかない靴下の多さに自分のことが嫌になってきた。
もともと物を捨てられない性格なんだけど、特に、片方の靴下という存在にはめちゃくちゃ弱い。
片方だけの靴下に比べたら、男としてのプライドとか、会社への忠誠心とか、大人としての節度なんてポイポイ捨てられるもんだ。
それぐらい、片方しかない靴下はぼくにとって捨てるのが大変な難物だ。
靴下としての機能、輪郭ははっきりと保ちながら、相方と別れてしまったばっかりにその存在意義を失ったかわいそうな者たち。ああ無情。
引っ越すときに洗濯機を動かすので、そのときに大量の「失踪者」たちが洗濯機の裏から出てきて、離散カップルが大量に「再婚」してくれるのではと期待した。
けれど、洗濯機の裏からは新しい「片方だけの靴下」が大量に出てきただけで、結果「片方しかない靴下」がさらに増えてしまっただけだった。
うちの靴下の棚の中は、もはや使えるペアの靴下より、片方だけの靴下の方が2倍も3倍も多いぐらいだ。
どうして片方しかなくなった靴下を捨てられないのか。それは、ぼくの中にいる島田紳助師匠のせいだと自分では睨んでいる。
捨てられないとは言っても、たまには、本当に本当に断腸の思いで片方だけの靴下を捨ててしまおうと決心することもある。
ゴミ箱の前まで靴下を持っていくのだが、すると、ぼくの心の中の紳助師匠が完熟マンゴーを片手にやって来て、鼻をクンクン鳴らしながら「生まれてきたときから一緒で、最後まで添い遂げる靴下のペア、めっちゃ素敵ヤン?」と一言言って、去っていく。ゴミ箱に靴下を落とそうとしていたぼくは、そこで思い留まり、靴下を摘んだ手を引っ込めてしまうのだ。
本当にたまに、「失踪者」が見つかってしまうことがあるだけに、捨てられないというところもある。
長い間ペアを作れなかった靴下を「再婚」させられたときのスッキリする気持ちは無上だ。
そういうときも心のなかに紳助師匠がやってきて目に涙をためながら、「我々スタッフ一生懸命、一生懸命探しました。靴下さんの相方さん…見つかりましたよ」。
反対に、もしも、もう見つからないと思って「片方だけの靴下」を捨ててしまっていたら…当然、もう片方が見つかっても再婚は果たせない。
「もし、いつか相方が見つかってしまったらどうしよう」。その不安から、片方だけの靴下を捨てられない。
片方だけの靴下が多すぎることに頭を抱えていたとき、女の子から「もういっそ、靴下を全部黒に揃えればいいじゃない」と提案されたことがある。
なるほど、名案だと思った。片方しか見当たらなくても、黒同士ならもともとのペアではなくても、他人から見て変には見えない、そう、「仮面夫婦」ができる。これはうまくいくと思った。
それ以降、靴下を買うときはとにかく黒で揃えた。何かなんでも黒。
しかし、黒の靴下ばかりがそこそこ増えてきた頃、ぼくの目論見がとんでもなく浅はかであったことが露呈する。
同じ黒の靴下でも、メーカーが違えば、細部は変わってくる。例えば色にしても、黒っぽい黒があれぼ、青みがかった黒や、薄い黒もある。生地のざらつき感にも特徴があるし、厚みが違ったら左右の履き心地は微妙に違がう。
つまり、同じ黒で合わせるだけでは意味がない。やっぱり、同じときに買った同じ靴下でなければ意味がなかったのだ。
黒が激増したおかげで靴下の「再会事業」はそれまでベリーハードモードだったのが、エクストリーム・ハードモードにランクアップした。それまでは見た目ですぐに同じか違うかがわかっていたのが、似たような黒の靴下の山から、似ていそうなものを目を凝らして、「これとこれが、ペア…なのか?」としなければならなくなったのだ。もはや元彼と似たような年収、年齢、職業の男に言い寄られてるけど、元彼が忘れられずシングルの婚活アラサー女子状態である。
「ちょっと色は違うけど、これぐらいならペアにしていいか…」と、本来は別々の黒靴下で「仮面夫婦」を作りたくなる誘惑にかられることもある。
けれど、そういうとき、ぼくの中の紳助師匠がやってきて「最後まで添い遂げる靴下のペア、めっちゃ素敵ヤン?」と諭すのだ、いつもより強めに、ぼくを威圧するように鼻を鳴らしながら。
片方だけの靴下を再会させてあげたい。だから捨てられない。こういう性格なもんだから『ニュー・シネマ・パラダイス』も『マディソン郡の橋』も『ラ・ラ・ランド』も好きなのだが、映画のカップルたちは別れても、ぼくの家の靴下たちは全部、運命の相手と添い遂げてほしいものである。