いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

無闇に褒めることが殺傷能力をもつ時代

こないだ、日本のテレビのある特番を見ていたときのことだ。
その番組には一般の高校生の男女が多数出演していた。スマホ世代といえども、マスメディアに映る彼らの姿は初々しいもの。こちとら高校を卒業して早十数年というおっさんは、その若々しい姿に眺めて失われた青春成分を摂取しとったわけだ。


そのときだ。番組のナレーターが、ある高校生ペアに「才色兼備」という言葉を使い出したのだ。才色兼備というと、優れた才能とともに、容姿も整っていることを指すあれのことである。

それまで他の用事をしつつのながら視聴をしていたぼくは、画面に映ったそのペアの顔を眺めた。









ふーん、なるほど。










なんとも言えない、何とも評しがたい微妙な気持ちになってしまった。

ただ、人の顔というのは、表情によって良し悪しがある。さっき見たのは真顔のときの表情だった。もしかしたら映りが悪かっただけかもしれない。それでは笑顔の表情をみてみよう。お、笑ったぞ。



















おー、そうきたか。
















ぼくが確認したところ、「才色兼備」との表現は何度も使われていた。一度なら聞き流せたかもしれないが、どうやらそのペアのためのキャッチコピーとなっていたようだ。画面に「才色兼備」という言葉が踊るたび、何とも微妙な気持ちになってしまった。
ためしに、その番組名と「才色兼備」という言葉で検索をかけると、同時間帯に同じ番組を見て、違和感をもった人は、少なくなかったようだ。


このことについて考えてみると、恐ろしいことに行き着く。

たとえばこの番組の作り手の側に、このペアに対しての「悪意」があったとしよう。そうしてもだ、彼らがやったことといえば容姿を褒めたことだけである。その行為のどこに、非難されるいわれがあるというのだろう。なんでですか!? わたしたちは本当に才色兼備だから「才色兼備」と表現したまでですよ!? と抗弁されたらそれまでなのだ。

この方法を使うと、自身の手を汚すことなく人を傷つけることができてしまうのだ。彼らが対象を過剰に褒めて、それが結果的に否定されたとしても、彼らからすれば不可抗力なのだから。なんという仕打ちだろうか。

これはインターネットを使って誰もが発信できる時代ならではの事態だ。なぜなら、ネットは本音のはけ口である。ある対象を過剰に持ち上げられていた場合、その評価を下方修正しようとする動きがあることは避けられない。結果的に、対象に対しての否定的な言説が生まれていく。昔だったら、ブラウン管の前での「えー、そんなに可愛いか⁉︎」の一言で済んでいた話である。


かつて「褒め殺し」は本人自身がいたたまれなくなっていた。今は不用意に褒めることは、それ自体が殺傷能力をもった毒に変わる危険性があるのだ。