いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

どうしてぼくたちは平和に別れることができないのか


ちかごろ有名人一般人を問わず、別れた男にされたことや怒りをブログや動画を通して暴露するのが女性の間でトレンドになっているようです。

一度投稿されたら、二度と削除することができないこのネット社会。一度は愛し合ったふたりなのにどうしてそんなことをするのでしょう。

最も、こうしたカップルの結末は昔から珍しくなかったでしょう。100年の恋も、いざ終わるとなれば、100年は草木の生えない最終戦争にまで行き着いてしまうことだってある。ネット社会は、そうした醜聞が可視化されただけかもしれない。


ここで我々が省みるべきなのは、「好きの反対は無関心」という、学習指導要領にでも明記しておくべき絶対的な愛情の「定理」であります。感情は絶対値で測るべきで、怒りや憎しみの中には必ず、好きと同じ相手への執着心が隠れています。

元恋人や元夫に対する暴露をブログや動画でアップロードし続ける行為が、どうして「無関心」といえるでしょう。そこには報われずに腐り、どす黒く変色してしまった「好き」が必ずあります。好きだったからこその憎しみであり、怒りなのです。そのことは、ボールペンのインクが切れるまでアンダーラインを引き続けても、引きすぎになることはありません。それぐらい重要なことです。


もしも、肉体的な損失や経済的な損失があるならば、もちろん償ってもらうために訴えてもいいでしょう。しかし、それ以外の精神的な部分は、あなたが要求してもけっして満足なものは返ってきません。
あなたが相手に固執して行動に移した回数だけあなたの負けですし、あなたが相手に固執した時間だけ、あなたの負けなのです。それは逆立ちしたって変わりっこない。
厄介なのは、そうした怒りや憎しみを本人が正義などと勘違いして突き進むフェーズに入ったときです。「こんな男をのさばらせておくのは世のため人のためにならない」という義憤に駆られてやっているうちは気持ちいいでしょうが、その「義憤」は相手に対して憎しみが姿かたちをかえたかりそめの形。相手に固執することを自らに許す体のいい言い訳でしかなく、もっといえば甘えです。


もちろん、私的な「復讐」だからといって許されるわけではない。
この負のサイクルを断ち切る方法はひとつしかありません。固執しないことです。投資に詳しい人ならわかるでしょう。損切です。そんな憎しみはもっていたって紙切れ同然の株券なのです。いつか何かの拍子に跳ね上がるなんて期待しちゃいけません。

以前、真の意味での「いい彼氏」「いい彼女」「いい恋人」「いい伴侶」というのは、もしかしたら別れた時にしかわからないのではないか、と書いたことがあります。今もその考えは変わりありません。

人柄なんて、関係が良好なときにはわかりっこありません。その人の本質は別れたときにしかわからず、悲しいかな「いい彼氏」「いい彼女」「いい恋人」「いい伴侶」とは常に「いい(元)彼氏」「いい(元)彼女」「いい(元)恋人」「いい(元)伴侶」としてしか立ち現れないのです。


ここまで書けばわかるでしょう。恋人、伴侶に裏切られたあなたがその連鎖を断ち切るためには、 胸の張り裂けるような思いをしての「発想の転換」が求められます。
それは相手にとって「いい(元)●●」になることです。この世界において最も美しい復讐は「いい(元)●●」になることしかありません。別れをもちだされ、修復不能だとさとったとき、後腐れなくさっぱり別れてやること。そのとき相手は「いい人だな」と思うわけです。そしてその「いい人」は、「もしかしてこの人と別れるという選択は間違っていたんじゃないか」という不安と後悔に代わります。

相手に一抹の後悔をあたえる「いい(元)●●」でなること。それが唯一にして最大の復讐であり、美しい別れ方なのであります。