いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

人の幸せで自分の欲望を知る

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先月だっただろうか、母親と電話で話していたときに、弟に第2子が生まれたことを知った。「あんた、夕飯の唐揚げは冷蔵庫に入れといたよ」ぐらいのテンションでさらりと言われたものだから、一瞬鼓膜を通った情報の大きさが理解できず、リアクションを取るのに一拍遅れてしまった。

「お嫁さんが第2子を“妊娠した”」、ではなく、「第2子が生まれた」という事後報告だったのが、なんともウチらしいドライさである。

それだけならいいのだけど、つい先週末、関東に住む叔父、叔母とランチしたときのこと。お互いの近況報告などすませたところで、叔父から、弟が家を買ったという話を聞かされた。第2子の件と同様に初耳である。これまた、「来る時、道が混んでてさあ…」ぐらいのテンションで言うものだから面食らってしまった。叔父も「お前、知らんかったんか!?」と驚いていたが。

なぜ母親は、弟の第2子誕生を伝えた電話口で、同時に家を買ったということは伝えなかったのか、それはよく分からない。ぼくへの同情心か何かだろうか。

 

しかし、一連の出来事でぼくが最も驚いていることは、弟の幸福について聞かされて、ぼくの心がまったくザワつかなかったことだ。それはもう富士山がきれいに映る、秋晴れに恵まれた河口湖のよう。波紋一つ広がらない凪である。

そのことに、ぼく自身が一番驚いた。

 

32歳。地方公務員。妻と2人の子どもを持つ。子どもも第1子が娘、第2子が息子と、まさに一姫二太郎で理想的とされる。絵に描いた餅のような人生である。だいぶ人生すごろくは先を行かれてしまった。

それでも、嫉妬することもなければ、羨ましいとも思わなかった。別に、弟と仲が悪いわけではない。たぶん、仲はよくもなければ悪くもなく、ごく普通である。

 

このとき、弟の(一般的には)幸せな状況を知ったことでぼくの中になにも波風が立たなかったのは、端的にいって、そうした幸せがぼくの欲望ではないからだと思った。

 

例えば、ダルビッシュマエケンが同時にサイヤング賞2位になったのに対して、今この文章を読んでいるあなたは悔しがらないだろう。悔しがることができないのだ。悔しがれるのは、マー君など、彼ら2人と同じように海の向こうで切磋琢磨するピッチャーだけだ。

 

以前、同じようなことを書いたかもしれない。

iincho.hatenablog.com

 

あることについて悔しがるには、羨ましがるには、その範疇に自分がいなければならない、ということだ。

 

同じように、ぼくにとっては、子どもを作って家を買うという光景自体が、端的にいって「ほしいもの」ではないのだろう。子どもを持ちたくないという明確な意志があるわけではないし、二度と家なんか買いたくないなどとも思っていない。むしろ、子煩悩で子どもがいたら可愛がる方だろうし、いい家があったらまた買いたい。

でも、それらはぼくにとって「是が非でも叶えたい」一番の欲望ではない。

 

だからといって、それらを叶えた弟をバカにしようだとか、軽蔑しようとは思わない。これから2人の子どもを育てながら、ローンを返していく彼を、素直に偉いなあと思う。彼に対して、嫉妬だとかコンプレックスといった湿っぽい情念などは微塵も持たない、ということだ。少し変な言い方になるが、「主観的には全く心を動かされないからこそ、客観的に偉いと言える」というか。

 

人が持っているモノを直視することで、自分についてより理解できることがあるのかもしれない、と思った。人の幸せを直視することで、自分の欲望を棚卸しできるのではないか、ということだ。ぼくは、弟が“2児のマイホームパパ”になってくれた(?)ことで、ぼく自身はそれになりたいわけではないことが明確に分かった。

 

しかし、弟がどんどんすごろくの駒を進めていくことに、自分の心が凪であることは本当にいいことなのかはよく分からない。ぼくはその凪の中に浮かぶボートに乗って、立ち往生しているだけなのかもしれない。迷走である。

 

ちなみに、ここ数年で、ぼくが人に対して一番嫉妬したこと、一番羨ましがったことは何か、考えてみたら、一つだけあった。

友達がテレビ東京の『家、ついて行ってイイですか?』の取材を受けたという話を聞いた時、ぼくの心の中は伊勢湾台風並にザワめきまくった。嫉妬に震えるとはこのことだ、とその時思ったし、心の底から羨ましいと思った。残念ながらオンエアはされなかったようだけれど、もし、オンエアまでされていたら、嫉妬に狂って死んでいたと思う。

やはり、ぼくの人生は迷走しているのかもしれない。