いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「負けられる」のも能力だ

遅ればせながら最近、島本和彦の『アオイホノオ』を読んで。

主人公は、美大生で漫画家志望の青年、焔燃(ホノオモユル)で、まあこの焔が何度も何度も挫折しては、立ち上がっていくのである。

いちおう、単行本の巻頭には毎回デカデカと「フィクションである」と断られているが、おそらく読んだ誰もが十中八九、モデルが島本の在学した(のちに中退)80年代初頭の大阪芸術大学だとわかる自伝的な作品だ。

当時大阪芸大の周辺には、日本のオタク界隈のキーパーソンとなるそうそうたるメンツが集っていた。焔の同級生には、のちに『新世紀エヴァンゲリオン』で社会現象を起こすこととなる庵野秀明監督がおり、“オタキング”としてのちにいろいろな方面、事件で有名になる岡田斗司夫も実名で登場している。


そうしたなかで、ストーリーの根幹をなすのは、実は焔の「敗北の歴史」だ。焔は、いまでいう横文字の文系課程にいそうな「何にでもなれるけど、何にもなれない」大学生だ。

ぼくも、出身大学は美大でこそないものの、アートやサブカル、人文思想系をいいとこ取りしようとする邪な人間の集う課程だったから、彼の気持ちがよくわかる。

とかく、19や20歳のころの若者は、作品を作ることよりもまず先に自尊心のほうが先行しがちである。ただでさえ拙い作品制作はおろそかになって、口だけは達者になっていく。

焔も御多分にもれず、作品制作が滞りがちながら、他の作家の作品を品評することの方は旺盛で「上から目線」で論評を加える。

ところが、彼が目にする他の作家の作品は、いざ蓋を開けてみるとことごとく彼の予想の斜め上をいくものすごいものなのだ。

焔は、すでに活躍していたあだち充高橋留美子らの連載を読んでは打ちひしがれ、同級生の庵野らの学生としてはありえないアニメ作品を鑑賞しては絶望し……読んでいくとこの作品では、焔は頻繁に「敗北」を味わっているのだ。


ここで重要なのは、焔の周囲の人間の反応だ。焔同様にみなすさまじい作品を前にして打ちひしがれているかといえば、そうではない。焔のようにうつろな目をしている者もいるが、その一方で、作品を無邪気に楽しんでいる者も描かれている。

前者と後者の違いは何かというと、ぼくや焔のような道をたどった人ならよくわかるだろう。他人の優れた作品に出会ったときに一分の敗北感も、一分の悔しさも味わわない人は、精神的に強いのではない。そもそも、作品の作り手と同じ土俵に立っていないのだ。

例えば、今年のプロ野球ではとんでもない逸材ふたりが、本格的に、しかも同時に開花した。ヤクルトの山田哲人ソフトバンク柳田悠岐だ。ふたりはトリプルスリーという快挙を、約10年ぶりに達成しようとしている。山田にいたっては今年まだ23歳だ。

では、わたしたち市井の人間が、野球をやったことのない人間が、山田や柳田をみて悔しいと思うだろうか。思わないだろう。素直にすごいと思えるだろう。そういうことだ。


裏を返せば、焔が絶望するのは、彼が「負ける」ことのできる立ち位置にいるためだ。すなわち、漫画家として身を立てるという野心に燃えているからで、それがなければ、そもそも「負けた」と思えないし、悔しくもない。つまり、「負ける」ことができるのもひとつの能力であり「選ばれた者」の証だ。


もっとも、「選ばれた者」だからといって手放しに嬉しいと思える人も少ないだろう。なぜなら、現に人の作品に魅せられて死ぬほど悔しいのだ、辛いのだ。その辛さから、単純な鑑賞者、作品の受容者の位置に居直れたらどんなに幸せだろうとさえ思うだろう。

だから、「負ける」ことができるのは、「能力」というより「宿命」に近いのかもしれない。人の作品によってどん底まで叩き落とされ、辛いこともあるだろう。けれど、それは「選ばれた者」の証であり、きっとその痛みの向こうに自分の制作への着火剤があるのだと思う。たぶん。