いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【男性注意】「黙って俺についてこい系人材」、致死レベルでウケが悪い

f:id:usukeimada:20180708145900j:plain

特に記事とは関係ない渋谷スクランブル交差点の様子(7/8)。暑いんだよバカやろう。

先日、ランチで数人とガールズトークしたときにひしひしと感じたのは、仕事でもプライベートでも「昭和のお父さん系人材」や「黙って俺についてこい系人材」はかなりウケが悪いということだ。

「昔気質」だとか「職人気質」だとか「ぶっきらぼう」なんていって美化されがちなこういうタイプの人物だが、そもそもそんなのが現実社会において評価されたことがあるのか、というぐらいウケが悪い。ボロカスである。

具体的には以下のような特徴だ。

 

言い方がクソ

まず一致したのだが、言い方が悪いこと。

「そんなこともわからないの?」とか「常識だろ」とか、平気でそういう風に言ってくる。

文意を抽出したら、なるほど他の人と同じことを言っているのだけれど、このタイプの人は同じことを伝えるにしても、不必要に相手の心にさざ波を立たせがち

こういう人材は、「こういう言い方をしたら相手がどう思うか」までは頭が回らないのだ。

心のさざ波は加算式であるから、そういう小さいのが積み重なっていき、最後には津波のような怒りになるのだが、そのとき立たせた張本人はピンときていないからなおさら始末が悪い

 

勝手に決めて事後報告

「これ、決めたから、やって」と振ってくるアレ。

もしやるにしても、「ごめん、この仕事、進めようと思うんだけど、いいよね?」と一言根回ししてもらったほうが何倍もマシ

しかしそういうやつに限って、「え、どっちにしろやるんだから、先に聞くか後で聞くか変わらないでしょ」とか言い出すのだが、いや、気持ちが変わるよ!

何度も書くが、こういう人材は、「こういう言い方をしたら相手がどう思うか」までは頭が回らないのだ。

これはプライベートでも全然ありえる。

週末のデートの行き先を勝手に決めるだとか、決めるのは良いとしても、その行き先が完全に自分趣味全振りで相手が楽しめない場所だった、とか。そういうことだってあり得る。

 

人として可愛げがない

そして、なにより一番重要だと思ったのが可愛げだ。

仕事ならば「ピリッ」としていてもいいが、重要なのはその「ピリッ」に少しは「甘み」も必要ということだ。お笑いでも「緊張と緩和」なんていうではないか。

たとえばそいつ本人がミスしたとしよう。人間なのだからミスも仕方ない。大事なのは「うわっ! ごめん! 間違っちゃった!」などとがっつり謝り、下になって可愛げを見せられるかどうか

「昭和のお父さん系」「黙って俺についてこい系」にありがちなのは、他人のミスは目ざとく見つけて咎めるのに、自分がミスしたときは「ミスを認めない」か、「『ミスしましたけど何か?』的に空気をピリつかせて黙殺する」というパターンだ。これは周囲のヘイトをかなり貯めるふるまいである。

可愛げが重要な場面はそれだけではない。

たとえば、自分は他人をイジっても、自分がイジられたら不機嫌になって黙殺するのも可愛げゼロポイント。そういうやつは、黙殺して「イジられないカッコいい俺」を維持できていると思っているかもしれないが、事態はまるで逆だ。周囲には「こいつ、器ちっさ!」と見下されているのである。

 

 

いかがでしたか?(アフィブログっぽく)

 ここまで、頑張って性別はボカして書いてきたけど、やはり無理だ。お察しの通り、こういう人材は特に男に多い。

「昭和のお父さん系」「黙って俺についてこい系」が許されるとすれば、社会の中でも数%の完全無欠の超絶エリートぐらいだろう。それ以外は諦めたほうがいい。

プライベートでも、こういう夫は、子どもが成人して手がかからなくなったあとに熟年離婚を突きつけられ、「なんで!?」「どうして!?」と慌てふためくのではないだろうか。

昭和どころか平成も終わろうとしているのである。そろそろ、一緒にいる相手を気分良くさせる上司、同僚、夫、彼氏、友人になりたいものである。

W杯「にわか」問題 イラッとするのは「にわか」とは別の原因があった

f:id:usukeimada:20180701203609p:image

 

ワールドカップが盛り上がっている。

そんなワールドカップのたびに浮上するのが、「にわか」問題である。

「にわか」なファンが、4年に一度だけやってきて、日本代表を肴に盛り上がるというあれである。オリンピックではこの問題が浮上しないのは、多分サッカーを普段から観ている人がいるからだろう。

 

サッカーの煩型には特に受けの悪い「にわか」であるが、この問題にはすでに決着がついている。

ほら、赤江珠代アナウンサーから至言が飛び出したではないか。

 

www.sponichi.co.jp

 

そうである。

五輪スイマーだって、最初はきっと浅瀬で遊んでいた子どもだったはず。

誰もが最初は「にわか」であり、「にわか」になる術さえ奪われたら、サッカーであろうとどんな文化であろうとさらなる発展はきっとないだろう。

 

そして何より、ぼく自身が立派な「にわか」だ。

昔はサッカーをもっと観ていたはずだが、今ではとんとご無沙汰になってしまった。そんなこんなでぼく自身「にわか」なのだから、「にわか批判」はしないつもりでいた。

 

ところが、いざワールドカップが始まってみて、SNSで浮上してくるタレントのサッカー投稿に対して、「イラッ」ときてしまうことがある。

「にわか批判はしない」と決めたのに、本能的に感じてしまう「イラ」に戸惑っていた。なぜだ。

 

最近わかったのだが、タレントの「にわかサッカー発言」にイラっとくるのは、それが「にわか」発言だからではないということだ。 

 

それは、彼女らの投稿が「にわか」のみならず「便乗」だからだ。

その証拠に、彼女らの投稿には必ず文言とともに自撮り写真が添付されている。

日本代表のユ二フォームを着て、ばっちりキメ顔でパシャり。あとは適当に「日本頑張れ!」とか「信じてます」とか適当にチョロチョロっと書いてアップすればいっちょあがりである。

彼女らの主語は日本代表ではない。

日本頑張れと言っている「私」なのである。

加藤紗里かよ。

 

赤江アナによる「海」のたとえ話を借りるならば、彼女らは、 ステキなビーチに自転車で乗り付けて、無許可でアイスクリームなどを売るあの無粋な業者連中である。

 

そんなタレントたちは、ポーランド戦の日本の戦いに不満をツイートし、一部サッカーファンと全面戦争になった足立梨花さんを見習ってもらいたい。

 

この間、足立さんの投稿にはぬるいサッカールックの画像などない。さすが、仕事とはいえJリーグ全37クラブ(当時)のホームスタジアムを制覇し、「Jリーグ名誉女子マネージャー」の称号を手に入れただけのことはある。

そもそも、本当に応援している人は、わざわざレプリカのユニフォームを着る必要などない。何を着ていようと、応援するのは心だからだ。

 

とはいえ、本当に寛大な心をもってすれば、「にわか」のみならず便乗も許せるというもの。そもそも、そうした便乗も本人の意思ではなく、所属事務所の指示かもしれない。

この件は、ぼくの人間としての修行がまだまだ足りないだけかもしれない。

死んだ父と黒柳徹子の話

f:id:usukeimada:20180616181023j:plain

 

突然であるが、ぼくの目標とする人物は黒柳徹子である。最近決まった。

なぜかというのを説明する前に、父について語らなければならない。

 

先週の13日で父が死んで18年になる。

18年も経っているので特にこれといった感慨はなく、今回も例年のごとく母のLINEが来るまで忘れてしまっていた。

父がどんな人だったのかは、実のところよくわからないが、その死という客観的事実から抱くのは、「かわいそう」という感情である。

それは何も、がんになり、放射線治療で苦しみに苦しんだあげくに報われず、たった45歳で死んだということに対してではなく、「“その先”が観れないなんてかわいそうだな」ということである。

 

だって、考えてみてほしい。

2000年に死んだ父は、アメコミ映画でも『スポーン』や『ブレイド』は観ていても、MCUはおろか、『ダークナイト』、サム・ライミ版の『スパイダーマン』さえ観ていない。

ミッキー・ロークを過去の人だと思っている。そのあと『レスラー』でちょっと復活したのに。

ジョン・ウーの『フェイス/オフ』を大絶賛していたが、ウーの『ミッション:インポッシブル2』や『レッドクリフ』を観ていない。『ペイチェック』……は観なくていいか。

好きだったイーストウッドが、2000年代にさらに『ミスティック・リバー』や大傑作『グラン・トリノ』を撮るのに、それも観ていない。

スピルバーグについては、『プライベート・ライアン』を父子で観て圧倒されたが、そのあともたぶん、観たら圧倒されるような映画ばかり彼は撮り続けている。なのに観ていない。

あげだしたらキリがない。もっと他にもある。

父はそれらを全部観ていないのである。なんてもったいない!

 

そう、死んだ父について考えるとき、「かわいそう」の次に出てくる感情が、この「もったいない!」である。まだまだ世界は未知のもので溢れているのに、それを観ないなんてもったいない! 死は彼の意思ではなかった。なので「もったいない」であり、「かわいそう」なのだ。

 

ここで話は冒頭に戻る。

世界はまだまだ観ていないもので溢れ、これからさらに増殖していく。観ないのは「もったいない」。だからこそ、ぼくの当面の目標は黒柳徹子なのである。

世界をたくさん観て、受け止めるためには長生きする必要がある。

けれど、生きていてもボケて意識が混濁した状態で観るのなら元も子もない。

 

そんな中で、徹子は本当にすごい。先日もインスタグラムの動画で話しているところを見た。『徹子の部屋』の視聴者であるなら、特に驚くほどのことではないだろうが、84歳にしてあんなに明瞭にしゃべることができるのは、実はすごいことだ。

www.instagram.com

 

80年も90年も生きていたら老いはつきものだ。

しかし、なぜか「歳のわりには若い」「老けている」などとビジュアルの老化にはみんな敏感だけれど、ことのほか脳の老化についてはあまり語らない。

一番怖いのは意識の老化だ。徹子と同じ84歳で、あそこまで物事に鋭い観察眼を向け、論理だてて明瞭に話すことができる人が何人いるだろうか。

 

だからぼくは徹子を尊敬するようになった。なりたいとさえ思っている。

当面の目標は、少なくとも150歳まで生きることだ。それも、徹子のように明瞭な意識を持って。

父が観ることのできなかった世界をできるだけ長く、できるだけたくさん、全力で受け止めるために。

はあちゅう氏の「ノリで楽しむ社会」発言になぜ違和感を覚えるのか

「ノリが悪い」などと言い、自分の考えに共感しない人間を批判するのはろくなものではないのが相場だが、先日このようなツイートを目撃した。

 

 

「3億円の借金がある」とホラを吹き、ファンから寄付を集めようという詐欺同然の行為を寸前のところで思いとどまったキングコング西野亮廣氏を擁護する展開でこう言い放ったのが、著名ブロガーもとい、作家のはあちゅうである。

 

普段なら従来通り「相変わらずろくでもないな」と読み飛ばしてしまうが、この人が言うと少し看過しきれないことがある。

 

なぜなら、はあちゅう氏は件の「#metoo」運動において、自身の被害を告発し、旗振り役のような立場に躍り出ていたからだ。

知っている人も多いだろうが、彼女がバズフィードの記事において、会社員時代に当時の上司から深夜に呼び出されるなどのセクハラを受けたことを告発していた。

 

その告発そのものは、別に間違っているとは思わない。そして、セクハラ被害を真剣に訴えていた人が、別の場面において楽しみを見出していることを、とやかく言うつもりもない。言いたいのはそういうことではない。

 

問題視したいのは、西野某の問題行動について、はあちゅう氏が「ノリ」の名のもとに容認しようとする構えを見せたことである。

 

「セクハラ被害」と「ノリ」、その2つは一見関係がなさそうであるが、意外と太いつながりがある。セクハラ被害がなかなか表沙汰にならない背景には、「ノリ」が立ちふさがっているからだ。

 

セクハラの定義は何か。音声の録音やLINE、メールの履歴など、客観的な証拠はあるものの、それをセクハラと定義する本質的な「証拠」は、ハラスメントを受けた人そのものの「嫌な気分」という主観である。セクハラは、受けた人が「嫌だ」と思った瞬間に「セクハラ」になる

「私」が主観的に「嫌だ」と思うことは、「私以外」とは共有できない可能性もある。

にもかかわらず、受けた人の「主観」が絶対的に優位となるのが、セクハラという問題の特異な点である。

 

ここで論題にあげたいのは、「セクハラの有無は被害者の主観に委ねられるから恐ろしい」ということではない。むしろ逆だ。

被害者の「主観」であるがゆえに、被害者の立場が弱い場合、その「嫌だ」という主観は、立場の強い者が作る「ノリ」によって無効化されてしまう。立場の強い者の「嫌がられていない」という主観こそが、その場を支配する「ノリ」となるからだ。

 

これが、「#metoo」というムーブメントが起きる前まで、セクハラを顕在化させることが困難だった一因といえよう。その場の「ノリ」の圧力に負けた被害者が、「私が笑ってすませれば丸く収まる」と泣き寝入りしてきたのが、これまでだったのではなかったか。

 

だからこそ、過去の「嫌だ」の記憶を勇気を出して解き放ったはずのはあちゅう氏が、今あらためて「ノリで楽しもう」などと安易に言ってしまうことに、ぼくは強烈な違和感を覚える。それは、彼女に当時「嫌だ」と言わせなかった「ノリ」と何がちがうのだろうか。

 

ではどうして、一度そうした困難を克服したはあちゅう氏が、いまだに「ノリ」というものに安易に物事の判断をゆだねてしまうのだろうか。

ただ単に彼女が「バカ」だからだろうか。

しかし、短絡的に他人をバカと決めつけることも、また別種の「バカ」であり、そういう結論を安易に下したくはない。

 

おそらくであるが、はあちゅう氏は、自分が乗った「#metoo」という神輿の本質的な部分=「『ノリ』に閉じてきた口を開こう」が、まだ理解できていないのではないか、と思う。

そしてそれは、以前より(あくまでネット上で勝手に流れてくる)はあちゅう氏に感じていた軽薄さ、薄っぺらさの答えでもあるような気がするのだが…。何にでもいっちょ噛みするというのだろうか。それは「フットワークの軽さ」と言い換えることもできるのだが。

ただ、はあちゅう氏のことを軽薄だというのであれば、彼女の尻馬に乗ってツイートし、彼女からRTを頂戴するエピゴーネンたちは何なのだろう。彼女がペラい、吹けば飛ぶような軽薄さならば、彼ら彼女らはおよそ粒子レベルのそれである。

「ワナビー」はなぜダサいのか

f:id:usukeimada:20180519173632j:plain

“一般男性”がめいっぱい背伸びして撮影したおしゃんなバー@目黒周辺



石原さとみ剛力彩芽と、大物女優のスキャンダルが相次いで話題になっている。

 

どちらの相手も、彼女らと同じ芸能人ではなかったため(とはいっても、“一般男性”と評するのは極めて難しいほどのVIP)、SNS界隈では「何食ったら剛力彩芽とお知り合いになれるんだ」「前世でどんな徳を積んだら石原さとみと旅行できるんだ」という阿鼻叫喚が巻き起こっている。

 

しかし、野暮なのを百も承知でいうと、「〇〇をしたら××と付き合える」というタラレ陥っている我々小市民の分際では、芸能界のトップスターと付き合うなんておそらく最初から無理だったのだろう。

 

何より、スケールが違いすぎるのだ。この記事を読んで愕然としたよ。

r25.jp

 

デカい。あんたデカすぎるよ、前澤さん。

 

こんな人がはたして、「剛力とデートしたいから〇〇しよう」なんて考えて行動するだろうか。そんなマインドセットで動いてたら、こんな4DXで迫ってくるようなスケール感は出ないはずだ。

 

おそらくであるが、彼には常にやりたいことがあるのだろう(鼻をほじるとかそういうのでなく、もっとめちゃくちゃでかいこと)。

夢を抱くことすら困難な時代、彼はやってみたい夢があふれ出てくる才能と、それをすぐにやる機動力を持ち合わせた。

 

夢に理由などない。登山家に例えるなら「そこに山があるから」。

その強大で苦難に満ちた行程で、ふと目に留まった、荒野に咲く美しい一凛の花。それこそが彼にとっての剛力彩芽だったのではないか。「君、きれいだね。俺についてこないかい?」、そう言って彼はその花を大事そうにリュックにはさむと、まだ先の方に米粒のようにしか見えない山頂付近を仰ぎ、また一歩苦難に立ち向かうのではないか(いや、ほぼ100%筆者の想像ですよこれは)。

 

言い方を変えれば「石原さとみを、剛力彩芽を目指して登ってくる登山家」に、彼女たちはおそらく振り向かない。むしろ、「私なんて気にも留めずにただただ大きな夢に向けて駆け上げっている」からこそ、彼女たちは彼らに振り向いたのではないか、と思うのである。

 

それと同じようなことが、「ワナビー」にも言える。

ぼくが属しているのがウェブメディア界隈だからなのか、最近、周辺の若者たちが「〇端慎太郎みたいになりたい」「〇あちゅうみたいになりたい」と言っているのをよく耳にする(不思議と「前澤さんみたいになりたい」という人はまだ出てこない。これから増えるのだろうか)。

 

もちろん、「ワナビー」は誰もが一度は通る道である。それ自体はしかたないことだ。

ぼく自身15年ぐらい前は「奥田民生みたいになりたいなあ」と思っていたら、そこから約10年後に『奥田民生になりたいボーイと出会う男すべて狂わせるガール 』というマンガが出てきて、「俺以外にも思ってるやつっているんだ…」と呆然としたことはあるがそれはともかく、そうなるのは仕方がないことで、青春の一時期に罹患する季節性の病である。

 

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール

奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール

 

では、なぜ「ワナビー」がダサい、俗物的だと思われるのだろう。

おそらくそれも、「石原、剛力と付き合うにはどうしたらいいか」と同じように「◯◯になりたいから××をする」という打算的な逆算の思考のためだ。 

 

本人たちと知り合いでないし聞いたこともないが、きっと田◯さんもは◯ちゅうさんも、いまの「田端◯太郎」、「はあ◯ゅう」となるまでには、さまざまな経験をしたはずである。楽しいことも楽しくないこともあっただろう。

しかし、それらは別に「今の田端慎◯郎」になりたかったから、「今のはあち◯う」になりたかったからしたわけではないだろう。 

結果論として「今」が形作られたのであって、彼らが「今のあのイケてる感じ」になったのはたまたまなはずだ。最初からそこまで予想できていたら、それこそラプラスの悪魔である。

 

ワナビー」がダサいのは、彼らの現在の上部だけーー例えば、転職するだけで話題になったり、ネットラジオでエロい話をしたりナンパ男にインタビューしたり、ちょいちょい舌禍で炎上して直火で炙られる程度はしてるけどなんとなく充実してる風景だけを見て、なりたいと思っているからだ。

それが「ワナビー」のダサさ、俗物性の所以だ。

 

ワナビー」が「◯◯みたいになりたい」と言って、有料サロンに入ったり、ロフトプラスワンのイベントを最前列にかじりつきで見たって、そこに◯◯になるためのヒントは、多分ない。ありそうに見えて、それをしたところで◯◯にはなれない。

なぜなら、たぶん「田端慎太◯」にとっても、「はあちゅ◯」にとっても、「今の姿」は「今まで」から線でつながっているそれもまた「プロセス」でしかないからだ。

 

そういう意味で、「ワナビー」がダサいのは、「◯◯みたいになりたい」と言ってるくせして、対象の◯◯について、本質的なことは何一つわかっていないということも一因なのかもしれない。

劇場からポップコーンを追い出せ! 映画鑑賞に最も適したお菓子は何か

f:id:usukeimada:20180506191001p:image

 

単刀直入に言うと、映画でポップコーンを食べられるのが大嫌いである。

昨日、『アイ、トーニャ』を観ていたときも、隣のカップルがボリボリボリボリやってる音が気になってむかっ腹がたってきた。

特に、マーゴット・ロビーが迫真の顔芸をしていたところでボリボリ始めたときは、さすがに横を見て、お前マジかと目をひん剥いてしまった。彼氏がウシジマくんみたいな風貌だったので黙っていたけれど。

また、混雑した劇場でのポップコーンはトラブルのもとだ。先日も上映前、ある客がほかの人の足をまたぎながら席にたどり着こうとしていた際、抱えていたポップコーンをこぼしてしまい、前列に座る人が頭からかぶる「ポップコーンの雨」を目撃した。

 

なにより、考えていると腹が立ってくるのは、

・お前ら普段そんなにポップコーンを食べないだろ、という点

・劇場側がすすんで売っている点(のわりに「上映中はお静かに」とかいっているこの矛盾!)

 である。

 

ただ、多くの映画館では飲食物の持ち込みを禁じた上、ポップコーンを売っているのである。

そういう点で、「普段ポップコーンを食べていないのに劇場では食べている」というより、「ポップコーンしか食べるものがないから仕方がない」というのが実情だろう。

つまり謎は、「なぜ、咀嚼音のするポップコーンを劇場サイドは売りたがるのか」という点に行き着く。

 

なぜ映画館でポップコーンを売っているのか

そんなことで、まずポップコーンがなぜ映画館で流通しているのかを調べてみた。

gigazine.net

karapaia.com

macaro-ni.jp

 

諸説あるようだが、結論から言うとそれらはどれも「ポップコーンじゃなきゃ絶対だめ」な理由ではなかった

さまざまな理由からたまたまポップコーンが選ばれ、なんとなくそれが続いているだけなのだ。

 であるならばなおさら、ポップコーンでなくていいではないか。

 

映画館からポップコーンを追い出すべく、ニュースターを選定する

というわけで、ポップコーンに代わる、映画鑑賞に最適なお菓子のニュースターを選ぼう。

ここまで書いてきた通り、「なにがなんでもポップコーンでなきゃダメ」な理由はないのである。

ならば、ポップコーンが映画館で流通している理由を列挙し、「それは、〇〇でもよくね?」と考えれば、代替物を選べるはずだ。

そして、それは「綿菓子」なのである。

f:id:usukeimada:20070705232842j:plain

ウィキペディア「綿菓子」の項より引用

 

映画館でポップコーンが売られる理由、が綿菓子でもいい理由

ここでは、谷國大輔『映画に仕組まれたビジネスの見えざる手 なぜ映画館にはポップコーンが売られているのか』(スマートブックス)から「映画館でポップコーンが売られている理由」をピックアップしていき、「それ、綿菓子でもいいですよね?」ができるかをやっていこう。 

 

映画に仕組まれたビジネスの見えざる手 なぜ映画館にはポップコーンが売られているのか (スマートブックス)

(↑ポップコーン以外のビジネスの話もいっぱいあっておもしろかったよ)

 

理由1 音

映画館で気になるのは音だ。隣の人にお煎餅をバリバリと音を立てて食べられては、じっくり映画鑑賞できないというもの。でもその点、ポップコーンをかみ砕く音、お煎餅よりもがぜん小さい。

これを初めて読んだとき、谷國さんマジですかとズッコケそうになったが、ポップコーンは谷國さんの感覚では音が小さい部類に入るらしい。いや、大きいですって!

いうまでもなく、ポップコーンに比べれば綿菓子の咀嚼音なんて微々たるもの。いや、 あれで音をさせるほうが難しいはずだ。

 

理由2 掃除

映画上映の合間、次のお客さんが入場するまでの短い時間に、映画館内をササッと手際よく掃除する必要があるのだが、その点ポップコーンは都合がいい。座席に落ちてもべとつかないし、コロコロ転がるから掃除がしやすいのだ。

たしかにポップコーンは、食べ物の中でも掃除がしやすい部類に入るだろう。

しかし、この考え方には錯誤がある。

そもそもこぼれなければ掃除すらしなくていいのである。綿菓子にこぼす心配があるだろうか?

 

理由3 衛生面

ポップコーンはトウモロコシを高熱で加熱しポンと弾けさせた食べ物だから、食中毒の心配がない。 

なぜ、「高熱で加熱してポンと弾けさせた」ら「食中毒の心配がない」のか、そこの論理が若干曖昧であるが、それはともかく、これについてはポップコーンも綿菓子も大差ない気がする。

縁日で売られている食べ物の衛生面について危惧されることが多いが、幸い、綿菓子で食中毒という記事は出てこない。

また、綿菓子の賞味期限についても、未開封の市販のもので3か月程度もつとのことだ。

 

理由4 原価率

映画館にとってとても大事な理由なのだが、ポップコーンは原価が安いので儲けが非常に大きい。仮に原価が20円でそれを200円で売れば、それだけで180円も粗利がでる計算になる。それに、ポップコーン製造機は比較的安価でメンテナンスもしやすい。

映画館サイドにとって最大の関心事はこれだと思われる。

ポップコーンについては劇場によってサイズ、価格ともにまちまちだが、こちらのブログを参考にしよう。

ishiteru.com

 

このブログではユナイテッドシネマとイオンシネマの量から、原価を出している。これに従うと、どちらも原価率は17%前後。例えば、マクドナルドの原価率はおよそ90%前後」だというのだから、これはかなり優秀といえるだろう。

では、綿菓子はどうか。これについては驚異的なデータがある。

昨年8月の『水曜日のダウンタウン』(TBS系)において、「原価率の低い食べ物ランキング」なるものが発表されている。

news.walkerplus.com

何を隠そう綿菓子は、そのランキングで1位に輝いている。原価率は3%。17%というポップコーンですらはるかに凌ぐ、驚異の数値をたたき出しているのだ。

原価率で考えるならば、ポップコーンがよくて綿菓子がダメな理由はない。

ちなみに、2位のかき氷(12%)、3位のベビーカステラ(14%)なども劇場で売ってみたらいいかもしれない。

 

そのほか、とあるネット記事によると、「ポップコーンなら投げても問題がない」という理由もあったという。昔はつまらない映画だと客がスクリーンに物を投げていたらしい(なんて野蛮な…)。

この理由についても、綿菓子であっても問題ないのは言うまでもない。 

 

まとめ:綿菓子が最強! ただしネックは…。

ここまで書いてきた通り、綿菓子こそ、ポップコーン以上に映画鑑賞に適したお菓子である。

 

ただし、そんな綿菓子にもネックが一つだけある。塩味がないということである。

ポップコーンの魅力といえば、あの香ばしい塩バター風味である(ポップコーンそのものが嫌いなわけではない筆者)。少なくとも、縁日などでは塩味の綿菓子などみたことがない。

とおもって調べたところ、過去にはわれらがDPZがこれに挑戦している(自分の思いついたことはたいていすでに誰かが試してくれている。VIVA、ネット文化!)

portal.nifty.com

 

この記事に従うならば、塩味の綿菓子に可能性は感じられない。塩味がないというのは、綿菓子にとって結構大きなディスアドバンテージかもしれない。

ただし、そんなことは映画鑑賞にとって微々たること!そもそも、おめえら飯食いに来たわけじゃねえだろ。映画を観に来たんだろ。2時間ぐらい我慢してよ!

というわけで、TOHOシネマズその他の劇場関係者には、いますぐにでも綿菓子製造機を大量発注してもらいたいものである。

 

おまけ

最後に唐突な自慢を放り込んでおくと、うちにはポップコーンメーカーがある(結婚祝いで友達にもらった)。

 

f:id:usukeimada:20180506192558j:plain

そろそろ油でギトギトになってきた愛機

だからなんだという話だが、とくに理由はない。本当に自慢したかっただけである。

 

イチローと辰吉 潔くない「引き際」について

44歳のイチローが、所属するシアトル・マリナーズの会長付特別補佐に就任したという。

今季の残り試合に出場しないが、引退はせず。チームに同行して練習を行い、同僚たちにアドバイスなどを行うという。この契約によって、日本のプロ野球界に復帰する可能性はなくなるとのことだ。

年齢が年齢なのだから、そろそろ引退発表なんかがあるのではないか、と少なからぬ野球ファンはドキドキしていたものだろう。そこにきてこの展開は、誰も予想しなかったのではないだろうか。

大前提として、イチローに対してファンの誰も何も言う筋合いはない。言う筋合いはないのだけれど、この契約の「宙ぶらりん」感はなんなのだろうとも思った。もっとスパッとした区切りをつけたほうがいいんじゃゃないだろうか、と。「野球の研究者でいたい」って、そんなの前から言ってたっけ…?

 

そんなモヤモヤを抱いていた連休中の朝、偶然にもNHK総合が再放送でドキュメンタリー番組「ノーナレ」が「辰吉家の常識 世間の非常識」を放送していた。ボクサーの辰吉丈一郎と年上の妻、るみさんの現在を特集した回だ。

 

f:id:usukeimada:20160227183146j:plain

ドキュメンタリー映画ジョーのあした』公開館にて

f:id:usukeimada:20180505135606p:plain

NHK公式HPより

「ノーナレ」はその名の通り、約25分、ナレーションなしで構成される実験的なドキュメンタリーだ。ナレーションで説明を補わない分、視聴者は被写体ともろに向き合うことになる。

番組では「夫婦漫才」を意識してか、2ショットのインタビュー時には二人の前にサンパチマイクが用意されていたが、そのとおり漫才のような掛け合いになるのだからすごい。辰吉とるみさんの年輪を感じさせるやりとり、ナチュラルボーンなボケ × ツッコミが効いた小気味よいやりとりは見ていて楽しい。

 

辰吉といえば、自身と同じくボクシングでプロデビューした次男が8勝を数える。今月17日で48歳で、年齢からいえばもう後進に道を譲るには十分すぎる頃合いだ。

でも辰吉はいまも「現役」だ。日本ボクシング協会からは危険だということからとっくの昔に引退勧告を受けているのだが、本人は引退をするつもりはない。もはや「勝手に現役だと言い張っている」レベルである。

8年間試合はなく(番組初回放送時)、収入はゼロ。貯金を取り崩しながら、彼は「現役」を続けている。次の試合のあてもない中で、4度目の戴冠を目指して日々トレーニングしているのだ。前回のタイでの試合では7回TKO負けを食らっている。

そういう意味では、イチローよりももっとずっと前から明確な「引退」を避け続けているのが辰吉なのだ。

 

印象的なのは、辰吉の「引退」について、るみさんはどう考えているのか語った場面だ。インタビュアーがその件について投げかけると、夫婦の顔色は多少曇った気がした。

るみさんは実際、何度か「辞めて」と泣いたこともあるという。辰吉はそのたびに「おまえに泣かれてまでやることはない。おまえの言うとおりにする」と素直に応じるというが、数分後、練習道具を詰め込んだカバンを持って家を出るのだという。

吉本新喜劇ならその場の人間総出でズッコケるところだが、るみさんもなぜか夫を「いってらっしゃ~い」と見送るということだ。「辞めて」と思う一方で、ボクシングに明け暮れる夫に「うれしくなったりしちゃう」自分もおり、何よりも「自分のしたいことをする姿を見るのが幸せ」なのだという。

 

終盤では、

辰吉「”辰吉”やっとったらおもしろいよ」

るみさん「おめえはな(笑)おめえはおもしれえだろうよ(笑)」

 

というやり取りもあった。

「辰吉をやる」=「再度戴冠を目指して現役を続ける浪速のジョーであり続ける」夫と、それを支え続ける妻。その口ぶりは呆れかえっていたものの、「支え続ける」ことがなによりも楽しそうに見えたのもまた事実なのだ。

結果として、辰吉が現役であると言い張っていることで迷惑している人がどれだけいるだろう。ほとんどいないはずだ。苦労をかけているとすれば、家族などごく少数の周囲の人間であって、おそらく彼らは辰吉の人間的な魅力に見出された人たちなのだ。るみさんは番組中、それを「宿命」と表現していた。 

 

それを考えると、あらためて思う。イチローの前代未聞の「引き際」についても、まるで問題ないのである。 妻と、そして球団が彼の在り方を全力で支援すると決めたのである。誰がそれをとやかくいえるだろうか。

「ださい」とか「潔くない」は、しょせんはその人の人生を引き受ける気のない外野の人間のこぼす「常識」である。

前人未到を打ち立て続けた男が、また一つ、前人未到を打ち立てる。ファンの予想の範疇に小さく収まるような引き際は作らない。それがイチローらしいといえばイチローらしいのではないだろうか。