「ノリが悪い」などと言い、自分の考えに共感しない人間を批判するのはろくなものではないのが相場だが、先日このようなツイートを目撃した。
ファンを巻き込んでのただの遊び(企画)を「詐欺」といってしまう人たちこそ、キ○ガイでは...😰
— はあちゅう (@ha_chu) June 6, 2018
いやな世の中だな〜!
もっとみんなノリで楽しむ社会になってほしい!!!
お金なんて気軽にあげたりもらったりすれば良いのよ! https://t.co/sVk7oC9W11
「3億円の借金がある」とホラを吹き、ファンから寄付を集めようという詐欺同然の行為を寸前のところで思いとどまったキングコング・西野亮廣氏を擁護する展開でこう言い放ったのが、著名ブロガーもとい、作家のはあちゅう氏である。
普段なら従来通り「相変わらずろくでもないな」と読み飛ばしてしまうが、この人が言うと少し看過しきれないことがある。
なぜなら、はあちゅう氏は件の「#metoo」運動において、自身の被害を告発し、旗振り役のような立場に躍り出ていたからだ。
知っている人も多いだろうが、彼女がバズフィードの記事において、会社員時代に当時の上司から深夜に呼び出されるなどのセクハラを受けたことを告発していた。
その告発そのものは、別に間違っているとは思わない。そして、セクハラ被害を真剣に訴えていた人が、別の場面において楽しみを見出していることを、とやかく言うつもりもない。言いたいのはそういうことではない。
問題視したいのは、西野某の問題行動について、はあちゅう氏が「ノリ」の名のもとに容認しようとする構えを見せたことである。
「セクハラ被害」と「ノリ」、その2つは一見関係がなさそうであるが、意外と太いつながりがある。セクハラ被害がなかなか表沙汰にならない背景には、「ノリ」が立ちふさがっているからだ。
セクハラの定義は何か。音声の録音やLINE、メールの履歴など、客観的な証拠はあるものの、それをセクハラと定義する本質的な「証拠」は、ハラスメントを受けた人そのものの「嫌な気分」という主観である。セクハラは、受けた人が「嫌だ」と思った瞬間に「セクハラ」になる。
「私」が主観的に「嫌だ」と思うことは、「私以外」とは共有できない可能性もある。
にもかかわらず、受けた人の「主観」が絶対的に優位となるのが、セクハラという問題の特異な点である。
ここで論題にあげたいのは、「セクハラの有無は被害者の主観に委ねられるから恐ろしい」ということではない。むしろ逆だ。
被害者の「主観」であるがゆえに、被害者の立場が弱い場合、その「嫌だ」という主観は、立場の強い者が作る「ノリ」によって無効化されてしまう。立場の強い者の「嫌がられていない」という主観こそが、その場を支配する「ノリ」となるからだ。
これが、「#metoo」というムーブメントが起きる前まで、セクハラを顕在化させることが困難だった一因といえよう。その場の「ノリ」の圧力に負けた被害者が、「私が笑ってすませれば丸く収まる」と泣き寝入りしてきたのが、これまでだったのではなかったか。
だからこそ、過去の「嫌だ」の記憶を勇気を出して解き放ったはずのはあちゅう氏が、今あらためて「ノリで楽しもう」などと安易に言ってしまうことに、ぼくは強烈な違和感を覚える。それは、彼女に当時「嫌だ」と言わせなかった「ノリ」と何がちがうのだろうか。
ではどうして、一度そうした困難を克服したはあちゅう氏が、いまだに「ノリ」というものに安易に物事の判断をゆだねてしまうのだろうか。
ただ単に彼女が「バカ」だからだろうか。
しかし、短絡的に他人をバカと決めつけることも、また別種の「バカ」であり、そういう結論を安易に下したくはない。
おそらくであるが、はあちゅう氏は、自分が乗った「#metoo」という神輿の本質的な部分=「『ノリ』に閉じてきた口を開こう」が、まだ理解できていないのではないか、と思う。
そしてそれは、以前より(あくまでネット上で勝手に流れてくる)はあちゅう氏に感じていた軽薄さ、薄っぺらさの答えでもあるような気がするのだが…。何にでもいっちょ噛みするというのだろうか。それは「フットワークの軽さ」と言い換えることもできるのだが。
ただ、はあちゅう氏のことを軽薄だというのであれば、彼女の尻馬に乗ってツイートし、彼女からRTを頂戴するエピゴーネンたちは何なのだろう。彼女がペラい、吹けば飛ぶような軽薄さならば、彼ら彼女らはおよそ粒子レベルのそれである。