- 作者: 牟田和恵
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2013/06/14
- メディア: 新書
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こうした騒ぎに触れるたび、われわれ弱い男という生き物はついつい「自分はちがう」を強弁したがる。女性のお尻を無断でさわるようなセクハラは、みののようなテッカテカに黒光りしたオッサンがやることであって、自分は断じてしない! と。
そう思いたいところだが、本書『部長、その恋愛はセクハラです!』は、「『うちの会社に限ってセクシャル・ハラスメントなどない』『自分にはセクハラなんて無関係』と考えるのは禁物」(p.23)と、警鐘を鳴らしている。
本書は日本での最初期のセクハラ裁判にも関わった著者による著書。セクハラ一般について概説しながらも、タイトルにあるように特に会社や学校での、上司と部下、教師と学生の間で起きた実際のケースを参考に、恋愛がからむセクハラに多くのページを割いているところが特色だ。
恋愛がセクハラだって?そんなバカな!? と思われるかもしれない。セクハラというのは、みのもんた(しつこい)のようなオッサンが面白半分に、嫌がる相手にしでかすものだというパブリックイメージがある。
しかし本書によるとそうではない。
たとえ男からすれば「両者合意の上での交際」のように見えたとしても、実は女性には「強要された交際」であることがあるし、たとえ男の側が交際したいと「真剣な気持ち」で言い寄ったとしても、女性の側が嫌ならばそれはセクハラになってしまうこともあるというのだ。
なぜこのような男女の「すれ違い」が起こるのか。そこには性差による感覚の違いもあるだろうが、一番大きいのはやはり、本書でいうように立場のちがいがあるのだろう。上司やゼミの教官といった目上の男性に言い寄られたら、女性は本当はいやでも断りにくいというものである。
では本当に、本当の意味で「両者合意の上」(これはもはや生理学的な「認知レベル」の話になってくるが……)であった恋愛でも、事後的にセクハラだと告発されることもあるのかといえば、あるのだそうだ。
恋愛中は耐えられたものの(むしろ関係を燃え上がらせるスパイスだったかもしれません)、関係が終わり、男性に結局誠意がなかったことがわかったとき、一つ一つの経験が、イヤな記憶としてよみがえってくるのです。この状態に至った女性には、過去の思い出は、自分も熱を上げラブラブだった時代のことも、男性にマインドコントロールされてそう仕向けられたようにさえ思えるのです。
p.135
つまり、別れ方が悪かったことで、その後もめるというわけ。また、関係の破談で女性が会社や大学にいられなくなり、社会的な損害を被ることだって大いにあり得る。
堅苦しい本かと読みはじめてみると、実際ここで書かれていることは一般的な恋愛におけるマナーの延長線上にあることばかりだ。
著者は恋愛でのセクハラ予防のため、スマートに誘い、相手にその気がなかったら潔く諦めろと提案している。この箇所を読みながら、それができたらやってるよと吐き捨ててしまったが、言われていることは間違ってはいない。
人を好きになる気持ちは本来ポジティブなものかもしれないが、その感情をもって他者に何かを強要はできない。もし拒まれれば、自分に魅力がなかったことを噛み締め、粛々と引き下がらなければならないのだ。悲しいけどそれが現実だ。
著者はセクハラ問題を黒澤明の『羅生門』にたとえる。つまり、同じ現実をみているようであっても、視点、立場によてはまったくちがったように認識しているということだ。著者はこのことを口酸っぱくくりかえす。恋愛とは、内省してばかりではなく(これをやりすぎると誇大妄想になる)、相手の立場に立ってものごとをみることなのだ。うむ、いいことを言った。
一応この本では「どんな場合であれ、受け手の側が不快に思えばセクハラ」(p.44)に認定されるわけではないと説明している。厚労省が、「平均的な女性労働者の感じ方」で判断するよう注意しているんだとか。
しかし、この本を読み終えた上であらためて思うのは、「セクハラ」というのは、女性のみならず男性にだって「怖いもの」なのだ。そんなのことを疑われるくらいなら、女性のおらんところで草をハムハムしてた方がいいわいと考える草食系な若者が増えているというのも、ムリからぬことではないだろうか?