- 作者: 湯山玲子
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2014/04/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (8件) を見る
ここ最近仕事が忙しくなったことで「本を読む時間」も貴重になっている。そんな中、その貴重な時間をドブに捨ててしまうような体験をしてしまった。
TBSラジオの「ウィークエンド・シャッフル」で読まれたリスナーの投稿ハガキに「ゴミのような映画、否、映画のようなゴミ」という表現があったが、まさしく本書は「本のようなゴミ」と言いたくなる。ほんとかんべんしてくれ。
本書は、著名な編集者で横断的に文化を見てきたとする著者が、旧来恋愛に奥手だった文化系女子に生き方を指南する評論(?)である。自身、「文化系&肉食系のバイリンガル」という著者が、教養主義の正しいあり方や、「文化系」と「リア充」の両立を訴えている。
この湯山玲子氏という御人、出版業界ではそこそこ有名な編集者なのだそうだが、嫌な予感がして自分のAmazonレビューを検索したら出てきた。
こちらも独断と偏見に見事に満ち溢れた素晴らしい評論だったが、本書もその傾向をまったく踏襲している。
どうもこの人の本はいつも語の定義がアバウトなのだ。たとえば文中では「文化」とか「アート」といった言葉が、なんの注釈もなく使われている。それだけ大きいと何を書いたってあてはまるだろうし、逆にいうと何を書いたって見当外れになってしまう。
先述した「文化系」と「リア充」(本書では「現場主義」なども含まれる)にしたって、そもそも両立できないものなのだろうか? 擬似対立ではないだろうか?
議論もざっくりしている。例えば、文化は旧来女性が担ってきたのだという。著者によると「文化教養」は制度の外部に位置づけられ、同じく制度の外部に追いやられた女性と親和性が高いのだそうだ。本当にそうか? 教養主義といえば戦前の旧制高校のガチガチの男社会でもはびこっていたわけで、ぜんぜん説得力がない。
構成の方も雑で、中盤の第三章ではなんの脈略もなく著者の個人史の紹介が始まる。一言で言えば、著者が子どものころからどれだけ家柄、文化資本に恵まれているかを数十ページにかけ懇々と語りかけるのである。まー、ここまで自信たっぷりに自分史を書き綴れるのも大したものである。著者は「リア充」を自称しているが、それと同時に「文化系」の気持ちもよくわかるのだそうだ。そうですかそうですか。
ところが一転して第四章では「黒文化系女子」と題し、文化教養を「アクセサリー」にして自分を権威付ける行為を批判しだすのである。え? あなたが言いますか? そう思いながら読み進めると、著者はここである「テクニック」を批判している。
それは、異なるジャンルの趣味を組み合わせて表明することで生まれる「ギャップで自分を目立たせるという効果」を狙うとするものだ。えーと、「文化系」である一方で「リア充」あるとおっしゃっていたが、どの口で言っているのだろうか。
教養があることで威張っているのは著者だって同じである。本書ではスピリチュアルを批判する文脈で、スピリチュアル好きのある女性編集者を「男関係も仕事関係もパッとし」ないと紹介した上で、彼女が伊丹十三や池波正太郎を知らなかったと驚いてみせるのである。そりゃそのふたりを知らないのもどうかと思うが、大きなお世話ではないだろうか?
著者はこのように教養のあり方にも口うるさいのだが、どうも彼女の判定基準は、教養がその人の血となり肉となっているか、ということらしい。つまり、知識バカではダメなのだ、と。
けれどもだ、人の教養がその人の血と肉になっているかなんて判定する術はないのだから、著者のさじ加減にすぎないのではないか。
あとがきでは、著者が大好きだとする寺山修司の「シェークスピアを面白く読める人は、東京都の電話帳だって同じように面白く読めるわけだ」との言葉を引いている。
ぼくも「東京都の電話帳」までは面白く読めるかもしれないが、この本は無理です。難易度高すぎます。