多くの識者がすでに、今年が「ネットジャーナリズム元年」であるとの見解を表明している。
昨年は尖閣ビデオのYoutube流出にウィキリークスによる国家的機密事項の公開、そのような事象とそれを巡るメディアの反応をみるにつけ、マスメディアへの信頼度の低下と同時に、相対的にか絶対的にかは議論の余地あるものの、ネットジャーナリズムのプレゼンスはかつてないほどに確実に増してきている。
そんななか、元旦のテレビでそれの兆候的な事例が目撃できた。新春スペシャルの朝まで生テレビだ。
「激論!萎縮する日本!」という漠然としたテーマ設定で、広く現代日本の問題をとりあげようとした今回の朝生。当初目玉となっていたのはtwitterとの連動企画だ。公式アカウントの@asanamatv2011から視聴者のつぶやきを募集するというものだったのだが、これがtwitterの利点と持て囃されているリアルタイム性と双方向性を「殺す」というなんともエキセントリックな企画で、ハッシュタグ上では視聴者の怒りが爆発。出演者からもついに批判が出て、番組途中からはそれまで集計されていたはずの@asanamatv2011宛の意見さえ、ついに発表されなくなっていった。番組ではゲストの批評家東浩紀に対して、総合司会の田原総一郎氏が次回からのtwitter連動の改善を約束した。
くわしくはこちらのトゥギャッターを見てもらいたい。
◆
今回の放送を端的に「失敗」と受け取った人が多いはずだ。しかし僕はこの失敗をあえて好意的にうけとりたい。いや、むしろ今回の(作り手側にとっては予期していなかったという意味での)「ハプニング」は、2011年のネットジャーナリズムにとって必要なことだったのではないか。
もしも今回、番組サイドがすんなりとtwitterとの連動企画を成し遂げていたならば、ここまでの波乱は起きなかっただろう。特に前半の犬も食わないような議論は、もっと有益なものになっていたかもしれない。
だが、それ以上に今必要なのは、「なぜ今までのテレビ(を代表とするマスメディア)がダメだったのか」を議論することだ。そのためにはぜひとも「今までのダメなテレビ」がそこになくてはならない。
連動企画を謳った今回の放送の特に前半、今までとほとんど変わり映えしない朝生は奇しくもそんな「今までのダメなテレビ」の恰好な具体例となった。そしてそのあと、すでにtwitterを使いこなしている識者たちの不満が噴出したことで、「今までのダメなテレビ」と「今までのダメなテレビを批判する視点」がドラスティックに同居し、さらに後者の議論が前者の議論を完全に圧倒するという事態にまで発展した。番組内で番組が「脱皮」したのだ。
そういった新しい時代のマスメディアへのイニシエーションとして、今回の生放送は評価できると僕は思うのだ。
◆
では、どうしてこのような事態が起こってしまったのだろう。もっといえばどうしてテレビの中の人はネットを取り上げることに対して後ろ向きになるのだろう。
それはネットが「ここではないどこか」だからではないだろうか。今まで、テレビというのは「ここ」でしかなかった。「ここ」で完結していた。しかしネットメディアと連動するということは、「ここではないどこか」と接続するということを意味する。それがテレビの中の人は怖くてしかたがない。
なぜ怖いのかというと、それは「ここではないどこか」が操作できない場所だからだ。そして「ここではないどこか」と接続したとき、それでも「ここ」の優位性が保障されるとは限らない。もしかしたら、テレビ局は「朝生」という番組枠を貸しているだけの存在に落ちてしまうことだって考えれる。
また「ここではないどこか」には、これまでテレビ業界内のしがらみなどによって形成されてきた「テレビで言ってはいけないこと」が通用しない。ネットの中にも倫理的に「言ってはいけないこと」はあるかもしれないが、「テレビで言ってはいけないこと」までは、「ここではないどこか」は配慮してくれない。
今回の失敗した中途半端な連動企画には、そういった「ネットの声をとりあげないもはや立ち行かないが、かといって全面的にネットの「ここではないどこか」へ接続することは恐ろしい」というテレビの中の人の心理が、絶妙に反映されている。
今後、朝生的な生番組は「ここではないどこか」をあたかもなかったかのようにやり過ごすことが不可能になってくるだろう。これから、テレビの中の人に一番求められていくのは、番組をよりよくしようという向上心でも、コンプライアンスへの配慮でもなく、単純に「勇気」なのだと思う。
◆
ネットジャーナリズム元年になると言っておきながら、ほとんどマスメディアの話をしてしまった。
ネットジャーナリズムに話を戻すと、まず第一に考えるべきは収益構造の問題だ。今のネットはお金にならない。ほとんどのメディアがユーザーの善意によって賄われている。
でも、考えてみればどの業界であろうと能力差によって「食える人」と「食えない人」が生まれることは、必然である。もしネットでジャーナリズムをしていればかならず儲かるという話があるならば、そちらのほうを怪しむべきではないか。そう考えるとこれからのネットジャーナリズムに必要なのは、「本気でこの業界で食っていきたいと思っている人」なのだ。
そして僕自身、食っていくために何かお仕事を探さなければならないのであった。