ぼくは、仕事上の都合でテレビ番組そのものではなく「テレビ番組を視る人」をネットを使って調べることが多々ある。
その習慣から気づいたのは、依然テレビが社会で強い存在感をもっていることだ。やれ視聴率の低下だやれ娯楽の多様化だとは言われているが、実際のところは「みんなテレビめっちゃ観ている」ということだ。
Twitterのトレンドにはたいていテレビの話題がランクインし、テレビに出演するタレントはネットでも膨大な影響力をもつ。
「テレビが終わった」みたいなことを言うのは一部の意識が高い人たちだけで、大多数にとっては未だに強く影響力を持っている。
- 作者: 佐々木俊尚
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2009/07
- メディア: 新書
- 購入: 16人 クリック: 462回
- この商品を含むブログ (146件) を見る
しかしそれは、昔ながらの「テレビっ子」(テレビをひたすら見るやつ)のわけではない。「ナンシー関チルドレン」(テレビ番組批評クラスタ)みたいな人々も中にはいるが、大多数がそういうわけではない。
そうではなく、こういうケースが増えていると思うのだ。
今朝のTBSビビットでは16分間も礼音ちゃん千秋楽の模様や台湾中継先の映像、宝塚歌劇団について紹介されました。地上波の午前8時台にこんなに枠を取って紹介されるなんて、礼音ちゃんはまたレジェンドを作りましたね。朝から感無量!涙涙。さすが真矢ミキさんMCのビビット!ありがとう。感謝!
— hayajun3 (@hayajun3) 2015, 5月 11
これは、宝塚歌劇団のファン(いわゆるヅカファン)が、柚希礼音の最終公演があった翌日に朝の情報番組でその話題が取り上げられていたことに喜ぶTwitter投稿だ。
この人はおそらく根っからの宝塚ファンなのだが、重要なのはテレビ番組で取り上げられたことを喜んでいることだ。
ミュージックステーションのアニソン特集に歌手のLiSAと藍井エイルが登場し、Twitterが大いにわいたのも記憶に新しい。
今日は、間違いなくアニソンの”潮流”が変わる日。
このあと20時から、ミュージックステーションに藍井エイル、そしてLiSAが出演します。
Mステには今までいろいろあったけど、今日のこの放送が、我々の業界におけるメルクマールになるでしょう。
心して……。
#Mステ
— 冨田明宏 (@tomitaakihiro) 2015, 5月 8
さて、Mステ見て、ちょっと感動した私です。アニヲタとして、アニソン歌手の人が、あんな歴史ある番組に出てるだけでも感激感動なんだけど、アニソンが、こうやって世間に認知され、アニメを知らない人も良い曲だって、ちゃんと認識してくれたら、ヲタクとして嬉しいのです。
— 彩ンヌ (@ayannez) 2015, 5月 8
今日のMステ凄かった。リサちゃんもエイルちゃんもとても素敵で、アニソンライブではよく見るノリでも、これがMステ内での出来事かと思うとやっぱり鳥肌モノで、感動して涙が出た。Mステでアニソン取り上げてくれて本当に嬉しい。ありがとう!!
— 月 from HERO NOTE (@tsuki_anison) 2015, 5月 8
これらの投稿に共通しているのは何だろう。それは、まず投稿者にテレビとは別に猛烈に「好きなもの」があって、それがテレビ番組で取り上げられたことによって、その人がTwitter上でそのことへの喜びを表明しているという構造だ。
あらゆる論者が口をそろえるように、価値観の多様化によって社会の「共通分母」の部分が縮小しているのは、もはや疑いようのない事実だろう。テレビの相対的な存在感の低下もその傾向のひとつだ。
けれどそれでもなお、「好きなモノがテレビ番組に取り上げられるのは嬉しい」となる。その程度には、まだテレビには影響力があると考えていいのではないか。
つまり、多くの人にとってテレビが一番好きな、一番必要なものではないが、それでも依然、テレビを「一目置いている」ということなのではないだろうか?
そんなことを考えていたのだが、奇しくもきょう、こういう記事をネットで目にした。
デジタル化の進展で、テレビ番組はいつでもどこでも見られるものになった。2000年代以降、大容量の録画機器や、携帯電話などで見られるワンセグが普及し、番組のネット配信も拡大。録りためたドラマを週末にまとめ見するスタイルも一般化した。ビデオ社によると、午前6時〜深夜24時の総世帯視聴率(関東地区)は、03年の44・4%から13年の41・7%に落ちている。
たとえば視聴者が「絶対見逃せない」と思う番組を録画し、ブルーレイディスクに大事に保存したとしても、その行為が世帯視聴率に反映されることはない。リサーチ評論家の藤平芳紀さんは「視聴率調査は半世紀以上大きく変わっておらず、番組の人気を測る尺度とは言えなくなってきている」と指摘する。
要は、リアルタイムでの視聴者数と録画での視聴者数に乖離がある、という話だ。
しかしこれは、「楽しみなものはあとでじっくり楽しむ」というあたりまえの考え方だと思う。それができるような時代になったのだから、そうしているまでの話だ。問題は、その「あとでじっくり楽しむ」という視聴者の心の機微を、テレビ局側が収益に結び付けられていないことだ。
今後、(リアルタイム)視聴率は下がっていくことはあっても、上がっていくことは考えにくい。広告料も下がっていく。テレビ局はどうなるのだろうか。
視聴率が低い「誰も見ていない無意味な番組」を垂れ流す既存のテレビ局は電波をさっさと国に返上し、「テレビ局」を辞めればいいのだろうか?
だがしかし、ここまで述べてきたように既存のテレビ局の作る番組が愛想つかされたわけではなく、視聴の結果がしめす以上にはまだ愛されている。
各テレビ局は今後、「電波利権を持つx企業」(不動産などxには任意の副業が入る)として収益を確保しながらも、なんらかの「愛されている証拠」を見出すことが必要になってくるのかもしれない。