いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

世界に“粋”が足りてない

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 インターネットの古い賢人の言葉に「(ネット掲示板を使うのは)ウソをウソだと見抜ける人でないと難しい」という格言がある。

 この言葉には一定の真理はあると思うが、ある重要なことが抜け落ちている。「ウソをウソと見抜く」ことがどんなに難しかろうと、「ウソをウソと見抜けない人」は勝手にネットを使ってバカなことを繰り広げてしまうということである。

 テレビ番組のリアリティショーに出演していたある女性が亡くなった。死の詳細は不明であるが、番組での彼女の振る舞いに反感を持った者たちから、ネットを通じて度を越した言葉の暴力が彼女を襲った、ということはすでに周知の事実である。

 この件をめぐり、すでに出演していたリアリティショーの配信は停止してしまった。

 
 さらに、番組はドキュメントではなく、制作サイドによる演出、指示があったのではないか、という疑いがあがり、大きな批判を集めている。
 
 しかし、これはナンセンスな議論だ。
 
 なぜなら、純度100%のドキュメント(記録)も純度100%のフィクション(作り物)も存在し得ないからだ。
 
 たとえ演出や指示がなかろうと、「カメラがある」という事実そのものが、その場にいる人間の行動を規定して影響を及ぼす。「カメラを置く前の生の現実」はそこにないのだ。
 
 一方、フィクションであろうと完全な作り物とは言い切れないのだ。ぼくはかつて、森本レオに過去の婦女暴行疑惑が持ち上がった際、子供心に『きかんしゃトーマス』のナレーションでの声の震えに、事件の拡散、経時的、社会的な訴追への恐れを感じ取った。それが本当かどうかはわからないが、可能性は0とは限らないではないか。 フィクションであろうと、フィクションに記録される事物、人物は生の存在であり、ドキュメント性(生の記録)は消しされないのだ。

 番組が「リアリティショー(ドキュメンタリー)」なのか、「リアリティ(の)ショー(フィクション)」なのかは、もはや意味のない議論なのだ。

 
 それにもまして、なぜテレビ番組が叩かれるかというと、「テレビの演出のせいで彼女は死んだ」という見方が強いからっだろう。
 
 でも、それは大きな間違いである。
 
 バカを言っちゃいけない。誹謗中傷を止められなかった側が悪いわけがない。誹謗中傷した本人が悪いに決まっているではないか。もちろん、番組サイドに、亡くなった彼女への精神的なケアが足りなかったのではないか、という点についての議論は、一定の妥当性がある。しかし、だからといって「番組そのものが絶対の悪だ」という見方に、ぼくは与しない。
 
 というのも、今回の件で、「誹謗中傷を煽った番組が全て悪い」という見方をするのは、人間の知性への諦めが早すぎるのだ。

 あるプロ野球選手が、有名人を襲う誹謗中傷の際限のなさを、人間を取り囲む無数のバッタの大群に喩え、大きな話題になった。

 けれど、人間はバッタではない。知性を持った動物なのである。彼らを野放しにして、すべて番組に非を負わせるのは、人間の知性を諦めるのと同じである。
 海外の同様のリアリティショーでも、すでに複数の自殺者が出たという情報もある。こうした番組の構造そのものに問題がある、という見方に普遍性があるともいえる。けれど、それなら、ここで書いたことを外国語にして、同じように海外に発信したいとすら思う。

 誹謗中傷は誹謗中傷を誘発した側が悪いのではない。誹謗中傷したやつが悪いに決まっている。その事実は変らないのである。「煽ったやつが悪い」は、人間の知能をバカにしすぎである。
 
 今回の件について、ぼくの周りの熱心な番組のファンである友人たちは、まるで自分のことのように心を痛め、死んだ彼女が絶対に見ることがないクローズドな場所でつづっていた自分の言葉を悔やむ人もいる。
 もちろん、テレビについてどんな感想を持つのも、それは内心の自由であり、問題はそのアウトプットの仕方だ。
 
 それに対して、今回の件で自分のことを「全く悪くない」と確信している愚鈍な人間たちほど、恥も知らずに「正しさ」を発信をし続け、その愚鈍さをよりいっそう際立たせている皮肉な事態である。
 
 世界に“粋”が足りてない。これは今回の問題よりずっと以前より思っていたことだ。“粋”とはつまり、「内面的な洗練」と言える。言い換えれば、「みなまで言うな」「察しろ」という美意識だ。
 2ちゃんねるが流行り始めたころ、ぼくは、そのタブーのない言論空間に度肝を抜かれた。テレビやラジオとはちがう。何についても論じていい。その広大さに圧倒された。
 でも、何について、どう論じてもいいというのは、つまらない便所の落書きに堕してしまうことを、ぼくらは嫌というほど思い知った。
 それが、ぼくが粋の反対だと感じている「野暮」である。
 
 何についても首を突っ込み、ありふれた意見を排泄する様は、まったく粋ではない。その対極の野暮というものだ。
 
 もちろん、バカは二度と発信するな、とは言えない。けれど、「野暮」を捨てて「粋」に生きるべき、という生き方を発信することをぼくはきっと今後も諦めないと思う。
 
 もっとも、彼女を襲った「野暮」な人間たち全員が「粋」に転向したところで、彼女は二度と戻ってこないのだけれど。