いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

誰も教えてくれない焼きおにぎり3つをチンする時間と人との距離感の話

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深夜に冷凍の焼きおにぎりを食べたくなった。買い置きしているものを冷凍から取り出してみる。4つは流石に多いが、2つだと物足りないお腹の具合で分かる。ところが裏面には3つの場合の温める分数が記載されていない。

仕方なく、2個の場合と4個の場合の分秒の中間ぐらいの「多分ここぐらいだろう」という目安をつけて3つをチンする。

別に、焼きおにぎりメーカーに文句が言いたいのではない。世の中、こんな風に「答えがないからちょうどいい塩梅を自分で予想して振る舞うしない」という問題が少なくない。ぼくはこれを、焼きおにぎりのエアポケット問題と呼んでいる。嘘だ。今考えた。

例えば、人間関係もそうだ。人間関係でも、こういうときはどういう距離を取ればいいんだろう、と目算でいい塩梅を探りながらやりくしていることが少なくない。

 

知人から聞いた話を紹介したい。その女性をAさんとする。Aさんはある趣味の同好会のようなものに入っており、その中で、BさんとCさんという男性2人が、些細なことでケンカになったという。BさんともCさんとも同じほどの距離感のAさんは、下手にどちらかに肩入れして変な感じになるのも嫌だから、とりあえず事態を静観していたのだそうだ。その対応は分からなくない。同じ状況ならぼくだってたぶんそうする。

すると、その揉めごとが冷めやらないままのある日、一方のBさんからAさんに対して個別チャットが飛んできたらしい。内容は、「最近、私のこと避けてますよね?」というものだったそうだ。

この話を聞いた時、Aさんがそのチャットを開いた瞬間に感じたであろう「だるっ!」という虚脱感、さらに少しゾワっとする怖さを、簡単に追体験できる。

AさんとBさんの間に特別な関係はない。あくまで単なる同好の士である。「私のこと避けてますよね?」は、その距離間の人に送るのには、ちょっと重たすぎる表現ではないだろうか? その焼きおにぎり、ちょっと温めすぎである。

Bさんはきっと、Cさんとの諍いが起きて以降、Aさんの態度にもやもやを感じていたのだろう(それがAさんが悪いというわけではない)。そのもやもやをどう晴らそうということになったとき、Aさんに直接「避けてますよね?」と送ってしまったのだと感じる。

だからといって、ぼくが、そのことをBさんに伝える機会を得たとしても、「え、何がおかしいんですか?」と言われたら、どうしようもない。焼きおにぎりなら、「ほら! これじゃ熱すぎて冷まさないと食べられないでしょ!」と言えるが、「避けてますよね?」について論理的に筋立て説明するのは難しい。

 

バーバルコミュニケーションでも、伝えにくいことはいくらだってある。しかし、殊にメールやチャットになると、「伝えにくいこと」を伝えるのは、めちゃくちゃハードルが上がる。その上、宛先が身内でないと、そのハードルは天井知らずに上がっていく。

原稿をいつまで経っても送ってこないライター、いつまでたってもアポの日時を送ってこない取引先、もしくは、依頼した仕事がいきなりポシャったとき。これらについて伝えるときは、うんざりするほど、よくわからない「距離」を図っている気分がある。

だからといって、適切な距離感の文章なんて、誰も教えてくれない。教えることなんてできないのだろう。正解なんてないのだ。強いて言うならば、それを受け取った相手がカチンとこなければいいのだが、そのラインを跨いでいなかったかどうかは、文面を相手に送るまで永遠に分からない。そのためだけに、言葉尻をいちいち弄くり回して、たった「1PV」の文章を編集している瞬間は、強い徒労感に襲われる。

文章に草=「w」を生やすのは、たぶん、その正解がない距離の目算を誤ったときのための保険だ。その距離感を誤ってつまずいて転んでしまったとき、草を生やしておかないとケガをしてしまう。予め草を多めに生やしておけば、目算が誤って倒れ込んだときのクッション代わりになるわけだ。

ということでみなさん、今日の結論ですが、深夜に冷凍の焼きおにぎりを食べるのはやめましょう。深夜の間食は肥満の素です。

トム・ホランドの“奥手演技”が光るSF映画『カオス・ウォーキング』

Chaos Walking (Original Score)

MCUにおいてトム・ホランドが演じるピーター・パーカーといえば、スパイダーマンとして日夜NYの平和を守るヒーローでありながら、素顔に戻れば奥手な高校生。蜘蛛男としては事件現場までひとっ飛びなのに、自分の恋路は牛歩牛歩でなかなか前に進まないことがお約束。そんなトムの“奥手演技”が光るのが、今日から公開の映画『カオス・ウォーキング』だ。

なにせ、今作でトムが演じるトッドは交際経験がないどころではない。生まれてこの方、女性を見たことがないのだ。

西暦2257年、〈ニュー・ワールド〉。そこは、汚染した地球を旅立った人類がたどり着いた〈新天地〉のはずだった。だが、男たちは頭の中の考えや心の中の想いが、〈ノイズ〉としてさらけ出されるようになり、女は死に絶えてしまう。この星で生まれ、最も若い青年であるトッドは、一度も女性を見たことがない。

映画『カオス・ウォーキング』公式サイト

野郎ばかりの星<ニュー・ワールド>では、未来の話なのに移動手段はなぜか馬で、アメリカの過酷な西部開拓時代の再現しているように思える(実際に、当時のほとんどのカーボーイは女性と関わることなく一生を終えたとされる)。おまけに、男たちはお互いの心の声=<ノイズ>だけ筒抜けって、もうそれ誰得なんだよという初期設定だが、そんな<ニュー・ワールド>にいろんな意味でスターウォーズ続三部作を“脱出”してきたデイジー・リドリー扮する宇宙飛行士ヴァイオラが降り立つ。

生まれて始めて女性を見たトッドの慌てぶりは、中高一貫の男子校から大学に入った男子大学生が、新歓コンパでいきなり生の女子と6年ぶりに対面したときを思い出してくれればいい。あれである。

案の定、ほれてまうやろーなトッドだが、しかも相手には自分の心の声が筒抜け。トッドの「ほれてまうやろー」という<ノイズ>を聞くたび、デイジーがする「なんだこいつ」という怪訝そうな表情は、Mっ気のある観客にはご褒美かもしれない。

その後、<ニュー・ワールド>唯一の女性となったヴァイオラを巡って争いが起き、2人の逃避行が始まる。話はでっかいでっかい風呂敷を広げていくのかと思いきや、そうでもない、微妙な規模のサイズ感に収束するが、そんな中でもトムの奥手の演技だけは光る。彼以上にトッドをトッドらしく演じられる人材はいないのではないか、というぐらいハマっている。

なお、トッドは、<ノイズ>が相手にバレたらやばいピンチで事あるごとに「俺はトッド…俺はトッド…」と脳内で無意味な思念を広げて本心を隠そうとするが、「俺はトッド」しか作戦がないから、相手には「こいつ、何か隠しているな」ということがバレバレだよ! 作戦が少なすぎるよ!

ちなみに、<ノイズ>の設定は、「男性が何を考えているかなんて女性には全部お見通しなのではないか」という、若かりしころ一部男性が感じていた“女性恐怖”の戯画なのではないかと深読みできる。つまり、この<ノイズ>という設定の背景には、男性が何を考えているか、ではなく、男性にとって女性はどういう存在なのか、を指し示す鍵が隠されているのではないだろうか。このことを考えながら、後半の展開を見ていくと、なかなかブラックで興味深い。

 

音声も<ノイズ>もどちらも字幕で受け取らなければならない日本語話者にとっては、なかなか高カロリーな映画であるが、字幕は最大限がんばってくれていると感じた。字幕をとおしてでも、<ノイズ>を通して起きるハプニングやギャグっぽいところは笑えた。

<ノイズ>の設定が必ずしも上手く活かされているストーリーかというと、そういうわけでもない。設定とストーリーが掛け算というより単なる足し算に終わっており、「ただそういう設定だっただけ」「ただそういうストーリーだっただけ」で、あまり相乗効果は生み出せていない。しかし、『ノー・ウェイ・ホーム』まで待てないよ、というトムホファンはとりあえず繋ぎとして観ておいて損はないだろう。トッドは確実にピーターの延長線上にいるキャラクターなのだから。

 

映画『カオス・ウォーキング』は11月12日より全国公開。

映画が人間に負けた日

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『邦キチ!映子さん』の池ちゃんというキャラクター

ウェブ漫画『邦キチ!映子さん』の最新話に出てくる“池ちゃん”というキャラクターが話題になっている。

comip.jp

冒頭からカフェ(ファミレス?)で知人女性を相手に雑談しているのだが、「ネトフリはオリジナル作品観とかないとマジで人生損してるよ!」「とりあえず『イカゲーム』に『クイーンズ・ギャンビット』でしょ…」と、1ページ目からしたり顔でまくし立てていく。noteに「ネオフリで絶対観ておくべき10選」という記事を挙げているらしい。既視感がすごい。

その後も、ばったり再会した邦キチさんを相手に、池ちゃんの勢いは止まらない。『花束みたいな恋をした』「坂元裕二」『逃げ恥』『MIU404』「野木亜紀子」『his』「今泉力哉」『空気階段の踊り場』…と、ありとあらゆる膨大な固有名がペラペラペラペラが池ちゃんの口を付いて出てくるのだが、そのどれもが表層的で軽薄で、それらの固有名を知らない人からしたら不快感さえ覚えてしまう。

自分の話がつまらないことは池ちゃん自身も自覚しているようで、邦キチさんに「オレに教えてくれないかな? 面白い感想の言い方…!」と、身も蓋もない直談判をしたところで今週号は終わっていた。

どうして、そこまでして話題作を観なければならないのだろう。そして、どうしてそれらについて「面白い感想」を言わなくちゃいけないのだろう?

“ファスト映画”を観る者の価値の倒錯

映画については、「ファスト映画」の騒動も記憶に新しい。主にYouTube上でアップロードされる、映画の本編映像を切り貼りして、約2時間の作品をわずか数分に「要約」した動画のことで、1本で数万から数十万もの再生数を稼いでいるユーザーもいるという。もちろんそのほとんどが違法で、映画業界はすでに何百億もの被害を被っていると言われている。ついに今年には配信者の中から逮捕者も出た。

そこに「需要」があるからこそ「供給」が生まれるわけで、「ファスト映画」の利用者も少なくなかったのだろう。

しかし、ここには、旧来の映画ファンからしたら奇妙な価値の倒錯がある。単なる作品の違法アップロードなら話はまだ分かる。チケット代を浮かせたいのだろう。

問題は、「約2時間かけて楽しむように設計された映画をわざわざ数分に凝縮して楽しめるわけがない」ということだ。それも、映画の作り手でもない赤の他人が恣意的にまとめた「要約」で、面白いわけがないで。なぜそんな「無駄」なことをする人が多いのか。

あるベテランライターさんの「ざんげ」

あるベテランの映画ライターさんと仕事で一緒になったときのことだ。仕事の待ち時間に雑談をしていたとき、そのライターさんが最近ちょっと忙しいという話になり、「ぼくだってあんまりしたくないけど…1.5倍で観ることだってあるよ…」と明かしたのだ。

何の話だ、というとこれも映画だ。そのライターさんはインタビューの下準備である映画の公開前試写をオンラインでする必要があったのだが、倍速にして見てしまったと「ざんげ」しているのだ。

ぼくはこのときのライターさんの話し方が印象に残っている。まるで悪いことをしているかのように、息を潜めて、後ろめたそうに話していた。その気持ちは分からなくもない。おそらく映画が好きで入った業界だ。映画は監督という“創造主”によって生み出される2時間の総合芸術で、全てのカット、間が計算されつくされていると信じているのだろう。それを無断で倍速にして観ることは鑑賞者の越権行為で、創造主のプライドを踏みにじるに等しい。だからこそ、「映画を倍速で見る」ということが、このライターさんにとって罪深きことに感じられたのだろう。

しかし、膨大な資料を読み込みながら執筆する、という仕事に忙殺される中で、好みでもない映画を見なければならなくなったとき、それはもう「鑑賞」から「作業」に変わる。映画が、目的から手段になる瞬間だ。そのとき、本来どんな映画好きな人間でも、「倍速」の誘惑には抗えないのだ。

映画が目的から手段に堕する時

回りくどく話してきたが、なぜ回りくどく話してきたかというと、結局、映画をめぐるこれらのエピソードは、一つの真実に行き着く。池ちゃんが話題の映画ばかり見ていることも、他者に面白い感想を述べたがることも、ファスト映画が流行ることも、ライターさんが悪びれながら映画を倍速で観ることも、映画が目的ではなく、手段になっているということだ。

では何の手段なのか。ここまで見てきた4つの例のうち、最後のライターさんの例だけは、別物だ。彼のエピソードは仕事上の物理的な限界によって生じた悲劇と言えるかも知れない。そう信じたい。

一方、前半の3つの例ははっきりと分かる。池ちゃんやファスト映画の愛好者らにとって、映画は他者とのコミュニケーションのための手段になっているのだ。

みんな心に小さな“池ちゃん”を飼っている

映画が人と人のコミュニケーションのための「手段」に成り下がってしまった。

SNSも無関係ではない。いや、元凶といえるかもしれない。SNSは分かりやすく人の「欲望」を可視化する。現代ほど、今この瞬間、人の関心や欲望がどこに集まっているかが可視化された時代はない。

各種動画配信サービスの攻勢がそれを加速させる。サブスクリプションサービスは、われわれを「返却日」や「延滞料金の恐怖」から開放させた、と思われた。

しかし、待っていたのは、いつか観るための「マイリスト」の山と、次から次へと降って湧いてくる「SNSで話題の作品」の数々。サブスクで「心のゆとり」などどこにも生まれなかった。われわれは今や、ビデオレンタル時代と比較にならないぐらい、「コンテンツを消費しなければならない」という圧力に襲われ、急き立てるように次から次へと消費に明け暮れる。

 

話がとっちらかってきた。

映画を観ることが目的ではなく手段になってしまった時代の話だ。では、映画は何に負けたのだろう。おそらくそれはSNSでも、サブスクリプションでもない。そうしたテクノロジーは根源的な要素ではない。映画が負けたのは「人間」自身だ。もっといえば、人間と人間が織りなすコミュニケーションへの飽くなき欲望だ。

SNSは何もそれ自体で自足しているわけではない。われわれがSNSに魅了されるのは、「そこに人が集まっているから」だ。

 

そして、映画はコミュニケーションの話題の一つに成り下がってしまった。

でもこれは、予め雌雄の決していた映画にとっての「負け戦」だったのかもしれない。ここで、俗流ラカン理論ブロガーとして一言添えたいのは、「人間の欲望は他者の欲望」という定理だ。人は自分以外の人が惹かれているものに惹かれるものだ。予め、そうプログラミングされているとラカンは言う。そして、これは次のようにも言い換えられる。人は、人が話題にしたがるものこそ話題にしたがる、と。

 

ネット上で池ちゃんのようなキャラクターが話題になるのは、池ちゃんが面白がられるのは、面白がっている人たちにも少なからず、心当たりがあるからにほかならない。断言しよう。みな、心の中にリトル池ちゃんを飼っている。映画は好きだけど好みはある。ドラマも好きだけど好みはある。でも、みんなが話題にしている作品も押さえておきたい…たとえそれが好みの作品ではなくても…。池ちゃんのような「すけべ心」は、大なり小なり、今の時代誰だって持っている。だからこそ、あの漫画はウケたのだ。そしてそれが、ラカンの言う意味で「他者の欲望を欲望する」ということなのだ。

 

だから、映画やドラマを「手段」にしていると自覚しても、自分の中の“池ちゃん”を虐待しないであげてほしいと思う。誰だってコンテンツ消費を目的ではなく手段にせざるを得ない瞬間はあるだろうし、「話題になってなかったらこんなクソ映画観ねーわw」ということもあるだろう。手段であるからこその予期せぬ出会いもある。自分の中の“池ちゃん”を悪者のようにとらえないでほしいと思うのだ。

過去と現在、夢と現実が混濁していく独創的な映画『アンテベラム』

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Antebellum [Blu-ray]

今日から公開の映画『アンテベラム』は、ホラー映画シーンを新たな段階に引き上げたジョーダン・ピール監督の『ゲット・アウト』『アス』のプロデューサー、ショーン・マッキトリックが製作したスリラーだ。

まだ観ていない人に対して、非常に語りにくい作品だ。まず言えるのは、『ゲット・アウト』や『アス』と同様に、現実の人種差別問題や、それに対抗するBLMを射程に入れていることは間違いないが、もっと抽象的な言い方をすれば、「過去から現代へ断ち切れぬ憎悪の連鎖」がテーマになっている。

奇しくも同様のテーマの作品が、最近いくつか発表されている。2つの街の歴史を超えた差別/被差別の構造と、それを乗り越えようとするティーン達の活躍を描くNetflixオリジナル映画『フィアー・ストリート』3部作や、つい先月公開され、シカゴの貧困街で繰り返されるヘイトクライムによって生み出された怪物を描く『キャディマン』がそれだ。これらに共通するのは、「時代を超えて温存されてきた差別構造」だった。

しかし、本作『アンテベラム』について特筆すべきはその独特の語り口だ。

舞台となるのは、奴隷制度がまだ温存されていた南北戦争中のアメリカ南部と、現代アメリカ。作品はこの2つの時代、2人のヒロイン(ともにジャネール・モネイが演じる)を行き来するのだが、そのつながりはとても神秘的だ。2つの時代は、時空によって完全には分けられていない。まるで、現実が反映した夢のように、相互に作用し合う。それは並列というより、意図的な混濁に近い。「意識が混濁して」、と人は言うが、本作は観客の前に過去と現代の意図的な混濁を巻き起こそうとしている。

現代のパートを注意深く観てみよう。夫婦の寝室の壁紙の柄、写真立て、ホテルで出会う少女、、、さまざまなところに過去パートの痕跡が息を殺して潜んでいることが分かる。一度の鑑賞では絶対に気づききれないその「痕跡」の数々を追うために、二度目の鑑賞というご褒美も用意されている作品だ。

一方、過去のパートでも、“過去としてはありえない光景”が描かれることによって、それが単なる過去でないことが観客に示される。過去のパートが現代パートのヒロインが観る「夢」だとも断定できない。その逆、現代パートが過去パートのヒロインが観ている可能性だって捨てきれないのだ。どちらが主で、どちらが従なのか。それはまさに「胡蝶の夢」のように、判別できない。

中国、戦国時代、思想家である荘周が胡蝶になった夢をみた。
自分が夢の中で蝶になったのか、それとも夢の中で蝶が自分になったのか、自分と蝶との見定めがつかなくなったという故事から。

胡蝶の夢 - 故事ことわざ辞典

 

なぜ、本作は過去と現代をこのように絡み合う関係で描いたのだろう。一つには、この映画の作り手が、単純な進歩史観(過去より未来の方がよりよくなっているという見方)でアメリカの黒人史を捉えてないということだろう。今年日本で公開となった、奴隷解放に命をかけた実在の黒人女性を描いた映画『ハリエット』が示すように、過酷な奴隷制の中でも黒人女性はただただ従順なわけではなく、ときに果敢に立ち向かったのだ、と。

過去と現代を絡み合わせて描いていることには、もう一つの見方もできる。「過去から現在にかけて、何も変わっちゃいない」「何も問題は解決していない」という見方だ。本作のタイトル、“Antebellum”。ぼくは知らない単語だったのだが、「南北戦争前の」という意味とともに、単に「戦前の、戦争前の」という意味もあるという。「今が戦前だった」という意味が込められているとしたら、これほど不吉なタイトルもなかなかないだろう。

 

ジャネール・モネイ主演の映画『アンテベラム』は11月5日より全国公開。

「生きててよかった」と言いたくないし、「幸せを感じる瞬間」なんて思い浮かばなくていい


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わざわざ文化の日にする話でもないのだが。ある漫画を読んでいて、いろいろ不幸が重なって十年ぐらい苦労したが、最近好転してきたという登場人物が、涙ながらに「生きててよかった」とこぼすシーンがあった。

生きててよかった。

そう言えば、自分では言ったことがない気がする。そりゃ、サウナで限界まで我慢して、ヘトヘトになった後にキンキンに冷えた生ビールを一口ゴクリといって、くぅ〜、のタイミングで心の中でキューが出て言ったことはあるかもしれないが、そんなの記憶に残らないし、本心から出たセリフではない。無神論者だって合格発表のときに手を合わせる。神を信じてなくても軽々しく神頼みしてしまうのが人間だ。それと同じで、「生きててよかった」と思ってなくても「生きててよかった」と言ってしまう。しかし、心の底から、本心で「生きててよかった」と言ったことは、この36年間一度もない気がする。

同じように、「幸せな瞬間はいつですか?」と聞かれるときも、答えを窮してしまう。自分の好きなことをしているときは「幸せ」なのかもしれないが、「幸せを感じているか」と言われてみたら疑わしい。そういうポジティブに、手触りのある「幸せ」ではない気がする。

だから「幸せな瞬間はいつですか?」という問いにはいつも答えられないし、嘘でも面白い答えがないから、少しコンプレックスにすらなっている。「幸せな瞬間はいつですか?」ということを聞かれるということは、他の人には「幸せな瞬間」があるということなのか。自分は少し人と違うのかも知らない。幸せって一般的にはいつ感じるものなの?

しかし、よくよく考えてみたら、「生きててよかった」も言わなくていいし、「幸せな瞬間」も思い浮かばなくていい気もしている。前段の「生きててよかった」の登場人物も、散々酷い目にあって苦労したあとに事態が好転したから「生きててよかった」のである。それまでは「生きたくなくなるほど辛かった」ということだ。苦労を知らなければ「生きててよかった」なんて出るはずがない。

精神分析フロイトさんも、快とは不快が取り除かれた状態だと言っていた。あれ、これ前にもここで書いたな。

強い光は、それと同じぐらい濃い影を呼び寄せる。強い「幸せな瞬間」を感じるということは、それ相応に強い「不幸な瞬間」を感じたということだ。

一方、「幸せな瞬間」を感じないということは、ずっと不幸であったわけではない。不幸を感じなかった、ということだ。ぼくの人生には幸せな瞬間がない。それはある意味、とても幸せなことなのかもしれない。

「マッチングアプリに理想の男がいない」と嘆く婚活女子に観てほしい映画『ロン 僕のポンコツ・ボット』

前回のエントリーについてさまざまな意見をもらった。

一番多かったのは、「いや、初回ラーメンないだろ」「初対面がいきなりラーメン屋行って何の話ができるの?ゆっくりお話できる店じゃないでしょ…」「ゆっくり会話して相手を知ることが目的のデートに、ラーメン店選ぶ人の方がお門違いでは?」といった反論だ。そもそも記事は「そういう初手のしくじりに目をつぶってほしい」という主張なので、それでは議論が振り出しに戻ってしまう。

そのほか、「婚活でいい服来てるのに、独特な匂いが立ち込める手狭な店に連れて行かれて、誰がいい気分でいられるんだ」というのもあった。おかしいな。外食店の匂いといえば、ラーメン店より焼き肉店だと思うが。この人は男性から高級焼肉店を提案されても、匂いが服に移るので…と断るのだろうか?

 

…そんな底意地の悪いことを書くのはこの辺にしておこう。

婚活女性に紹介したい! 映画『ロン 僕のポンコツ・ボット』

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この週末、そんな婚活女性達にぜひ観ていただきたい映画を紹介する。現在絶賛…でもないがそれとなく公開中の映画『ロン 僕のポンコツ・ボット』だ。

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予め断っておくと、この映画は「婚活」のこの字も出てこない。主人公のバーニーはそもそも小学生だ。

こういうのを書くと、映画ファンのうるさがたからは「映画を流用して、そんな俗物的な人生訓を垂れるんじゃない」みたいに眉をひそめられそうだが、許してほしい。そうでもして、ぼくはこの『ロン』を取り上げたいのだ。

というのも、『ロン』はいい映画であるにも関わらず、記録的に人が入っていない。先週の初登場の興収ランキングでも9位とかなり苦戦している。全国で300館以上も上映されていたのに、だ。

ぼく自身、劇場で引き込まれながら観たものの、周囲を見回してがく然とした。自分を入れて客が10人に満たなかったのだ。辺鄙な田舎のレイトショーの話ではない。東京・渋谷のど真ん中の映画館の昼間の回である。

話題作が続々公開される中で、タイミングにも恵まれなかったことはあるだろう。しかし、このままこの映画を世に埋もれさせてしまうのは忍びないと思い、今回婚活女子と絡めて筆を執ったのである。

出会いは最悪だったけど…育まれていく友情

最新式ロボット型デバイス<Bボット> ―それは、スマホよりハイテクなデジタル機能に加えて、持ち主にピッタリな友達まで見つけてくれる夢のようなデバイス!そんな<Bボット>で誰もが仲間と繋がる世界で、友達のいない少年バーニーの元に届いたのはオンライン接続もできないポンコツボットのロンだった。 出会うはずのなかった1人と1体が‟本当の「友情」“を探すハートウォーミング・アドベンチャーが今、始まる―

ロン 僕のポンコツ・ボット|映画|20世紀スタジオ公式

キーアイテムであるBボットは、スマホにPepper、さらに乗り物の機能をあわせ持ったようなカプセルタイプのデバイス

持ち主の指紋認証一発で、ここまでのネットワーク上での動向を全て収集し、持ち主に最適な“友人”となりつつ、同じBボットのユーザーの中から、趣味嗜好がマッチした“友人”を見つけてくれる。

主人公の少年バーニーは、学校の中で一人だけBボットを買ってもらえず悲嘆していた。しかし、誕生日にひょんなきっかけから、ちょっと壊れたBボットのロンと出会う。

他の子どものBボットはツーカー、どころか、持ち主の指示を先回りしてまで動いてくれるのに、少し壊れたロンはさっぱり。一から十まで説明しないと動いてくれないし、説明したとしても絶対指示通り動いてくれない。おまけに、オンラインに接続できないので、バーニーに最適な友達だって見つけてくれない。

しかし、Bボットを開発した天才エンジニアのマークは、壊れたBボットの存在に気づき、驚がくする。バーニーとロンの関係こそが、自分が作りたくても作れなかった理想の関係性だったのだ。

最初はまったく自分の思い通りにならないロンにがっかりし、返品しようとまで考えたバーニー。しかし、さまざまなハプニングを1人と1機で乗り越えていくうちに、そこに絆が生まれていく。バーニーにとってロンはいつしか、かけがえのない親友になっていく。

アプリ上に完ぺきな“理想の相手”など存在しない

…あんまり書きすぎると劇場に行く必要がなくなってくるので、これぐらいにしておこう。

こうしたストーリー展開をながめながら、婚活と一緒だと気づいた。

初アポでラーメン店に連れていく男や、4℃をプレゼントする男を敬遠する女性たち。関係が深くなる前にそうした些細なミスで相手を切ってしまう女性たちが待ち望む相手の最高レベルは、まさにBボットのような存在なのだろう。自分のことを全て把握し、気が効いて、不快な思いをさせないように振る舞ってくれる、快適な存在だ。アプリの向こうには、きっとそういう存在がいるのだと信じて、毎日せっせとチャットを返しているのだろう。

でもね。たぶんだけど、そんな人、いないよ?(ウエストランド井口風に)

本作がバーニーと不良品のBボット・ロンの関係を通して教えてくれるのは、自分にとって大切な存在とは、与えられるものではなく、作るものということ。バーニーにとってロンがそうであったように、出会いは最悪で、大変な苦労をしたとしても、チューニング=すり合わせができる可能性は残されている。私はそういうの嫌いです、悲しかったです。と伝えればいいし、相手だってあなたの不快な思いをしたかもしれない。伝えられれば直せばいい。

さらに人間のバグではあるのだが、相手の欠点に愛着を持つことだってあるのだ。

マッチングアプリ”というネーミングの落とし穴

以前から思っていたのだが、「マッチングアプリ」というネーミングで、マッチングアプリ業界自体が損していると思う。

辞書を引くと、「マッチング」という言葉には、「つり合うこと。調和すること」とある。このネーミングだと、まるで最初から自分に合った相手が与えられる、とユーザーは錯覚してしまう。

チャット上で何百何千回とやり取りをしたって、生身の人間のことはほとんど分からない。会ってみたらがっかり、という瞬間も必ずある。結局、マッチングアプリ業界が提供しているのは、ほんとうに最初の最初、「出会い」の部分だけなのだ。だから、業界としては二度と名乗りたくないだろうが、「出会い系アプリ」という名前の方が説明として相応しい。

人はだれしもが誤った選択をすることがある。たとえ熟慮に熟慮を重ねたとしても、人は間違うのだ。しかし間違ったことをほかの人から指摘されて、それを直すことだってできる、それも人間だ。それはバーニーにとってのロンのように。

 

前回の意見には下記のような反響をくれた人々もいた。

「今行くのに最適な場所、人の欲しいものを無視してまで自分が行きたい、あげたいものが絶対良いんだ!って思ってやっちゃうのが無理なのだよ」

「ラーメンがだめと言ってるわけじゃなくて、会の目的とそれがかなう場所を選んでほしい」

「目的とそのための最適解って考え方がわからない」

「初対面の女性をラーメン屋に連れて行く男、生涯にわたって気遣いできなさそう」

こうした人々はきっと、生涯にわたって自分にとっての最適解を必ず出してくれるBボットを探す旅をさまようのだと思う。

 

と、ここまで読んだら、さっさとパジャマを着替えて外出の準備に取りかかっていただきたい。

『ロン』は子ども向けに作られてはいるものの、プラットフォーム企業の個人情報の乱用や、デジタルタトゥーといった、今日的な風刺も効いていて、大人の鑑賞にも十二分に耐え得る。このままでは劇場公開はすぐに終わってしまう。早く劇場にかけつけてほしい。

ラーメン店と4℃が元で男を振ってしまう愚かなあなたへ

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“初アポがラーメン店”を嫌悪する婚活女子たち

最近友達のネット偵察班から聞いたのだけど、「婚活女子の界隈ではラーメンアポがNG」という、暗黙のルールがあるらしい。見知った彼氏や夫に連れて行かれるのはありだけど、大事な婚活の初アポでラーメン店とは何事だ、失礼ではないか、こんな男ムリ~、ということなのだそうだ。

まずそれがラーメン店に失礼だろという気持ちは置いておいて、果たしてラーメン店を選ぶことが、失礼に当たるのだろうか。

ラーメン店に連れて行かれて憤慨している女性たちはきっと、相手男性が「このレベルの女なら、ラーメン店で十分だ」とラーメン店を選んだと思っているのだろう。しかし、男性側だって婚活しているわけで、そんな相手を軽視した行動をとるはずがない。「初アポだし、ここは美味しい店に招待しないと」と熟慮の末、「よし、ここは、美味いあのラーメン店!(どどん)」となった可能性も十分ある。また、あなたから「美味しいお店に連れて行ってください!」と伝えただけで、シャレたフレンチやオープンカフェ、ホテルのアフタヌーンティーが登場するほど、「美味しいお店」について国民的な合意は取られていない。

“初アポがラーメン店”と“結婚相手に相応しいかどうか”は別問題

他人事ではあるけど、そういう女性を見ていると、やるせない気持ちにさせられる。どうか、「アポでラーメン店はだめ! 失礼!」というあなたに、ちょっと踏みとどまってほしいと思う。そんなことで相手を見知った気になって切ってしまうのは、もったいない。

アポするのだってすぐに簡単にできるわけではない。こいつと会っていいのかとチャットやなんやで吟味した挙げ句、仕事や予定を割いて調整して、ようやくこぎつけた初アポである。そこでラーメン店に連れて行ったぐらいで、「なし」フォルダにその男を入れていいのだろうか? を考えてみてもらいたい。

というのも、「初対面でラーメン店に連れて行かれた不快感」は、「生涯のパートナーとして不適当」ということとは、実は全く別の次元の問題の気がするのだ。それは男があなたの好みをわかっていないだけ、だとは言えないだろうか。それならば、今からでもチューニング可能ではないだろうか。

それに、状況を深読みしなければならない。初アポがラーメン店ということは、女慣れしていない可能性がある。長期的な関係を構築していく上で、それは好材料になり得るではないか。

たかが初アポの場所がラーメン店だったぐらいで、その人の何が判断できるのだろう。あなたは雰囲気がいい、センスもいい、一緒に歩いていて恥ずかしくないメンズを探しているわけではなく、生涯の伴侶(仮)を探しているわけだろ。

SNSの価値観に踊らされる人たち

この話題と関連して、ジュエリーブランド「4℃」への、主にSNS上での風当たりも度を越していると思う。毎年、年末が近づいてくるにつれて、ダサいブランド、渡されたら末代までの恥と思え、とされるブランドとして、確固たる地位を確立した感がある4℃だ。プレゼントで4℃を渡されたら屈辱であるし、相手男性は「なし」の烙印が確定的とされている。

別にここで「4℃はダサくない」「洗練されているぞ」と、反論したいわけではない。物事に対してダサいと感じるのは人の勝手で「4℃がダサい」という人がいても当然だ。

問題は、「4℃=ダサい」という他人の価値観に対して、後からやってきて一緒に騒いでいる人たちの方である。共感、賛同が大きなムーヴメントになっていくSNS上には、得てしてこうした自分の価値観を他人に差し出してしまう人が少なくない。4℃をめぐる言説についても、同じことが言える。もともとは4℃について何の悪感情も持っていなかった、もしかすると好意的でさえあった人までも、訳知り顔で「4℃はダサい」の価値観に染まってしまっている可能性がある、

今一度、胸に手を当てて考えてみてほしい。あなたは本当に4℃をダサいと思っていますか? もしかすると、SNS上で支配的な価値観に踊らされているだけではありませんか?

あなたにとっての正解は、他のどこにもなく、あなたの中にしかないんだよ。

「今」に固執しすぎる人たちへ

初アポがラーメン店の話題も、4℃の話題も、婚活者に考えてみてほしいのだが、結婚後の人生には1ミリも関わってこないということだ。映画で言うなら、配給会社のロゴの部分。まだ本編に入ってすらいない場所だ。

初アポでどんな素敵な感じの良い店に連れていかれたとて、どんな高価で素敵な贈り物をプレゼントされたとて、結婚が上手くいくとは限らない。むしろ、初アポラーメン店や、プレゼントが4℃だったときのほうが、笑える思い出として語り継がれるだろう。二次利用は容易だ。

初アポラーメン店や4℃を忌避する気持ちは、圧倒的に「今」「この瞬間」の気持ちに比重を置きすぎるぐらい置いた価値判断だ。今一度、「婚活女子」という自分の肩書を思い返してほしい。結婚とは、気が遠くなるほど長く、果てしない旅路だ。「今」の気持ちに流されない選択をしてもらいたい。