いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「生きててよかった」と言いたくないし、「幸せを感じる瞬間」なんて思い浮かばなくていい


f:id:usukeimada:20211103181640j:image

わざわざ文化の日にする話でもないのだが。ある漫画を読んでいて、いろいろ不幸が重なって十年ぐらい苦労したが、最近好転してきたという登場人物が、涙ながらに「生きててよかった」とこぼすシーンがあった。

生きててよかった。

そう言えば、自分では言ったことがない気がする。そりゃ、サウナで限界まで我慢して、ヘトヘトになった後にキンキンに冷えた生ビールを一口ゴクリといって、くぅ〜、のタイミングで心の中でキューが出て言ったことはあるかもしれないが、そんなの記憶に残らないし、本心から出たセリフではない。無神論者だって合格発表のときに手を合わせる。神を信じてなくても軽々しく神頼みしてしまうのが人間だ。それと同じで、「生きててよかった」と思ってなくても「生きててよかった」と言ってしまう。しかし、心の底から、本心で「生きててよかった」と言ったことは、この36年間一度もない気がする。

同じように、「幸せな瞬間はいつですか?」と聞かれるときも、答えを窮してしまう。自分の好きなことをしているときは「幸せ」なのかもしれないが、「幸せを感じているか」と言われてみたら疑わしい。そういうポジティブに、手触りのある「幸せ」ではない気がする。

だから「幸せな瞬間はいつですか?」という問いにはいつも答えられないし、嘘でも面白い答えがないから、少しコンプレックスにすらなっている。「幸せな瞬間はいつですか?」ということを聞かれるということは、他の人には「幸せな瞬間」があるということなのか。自分は少し人と違うのかも知らない。幸せって一般的にはいつ感じるものなの?

しかし、よくよく考えてみたら、「生きててよかった」も言わなくていいし、「幸せな瞬間」も思い浮かばなくていい気もしている。前段の「生きててよかった」の登場人物も、散々酷い目にあって苦労したあとに事態が好転したから「生きててよかった」のである。それまでは「生きたくなくなるほど辛かった」ということだ。苦労を知らなければ「生きててよかった」なんて出るはずがない。

精神分析フロイトさんも、快とは不快が取り除かれた状態だと言っていた。あれ、これ前にもここで書いたな。

強い光は、それと同じぐらい濃い影を呼び寄せる。強い「幸せな瞬間」を感じるということは、それ相応に強い「不幸な瞬間」を感じたということだ。

一方、「幸せな瞬間」を感じないということは、ずっと不幸であったわけではない。不幸を感じなかった、ということだ。ぼくの人生には幸せな瞬間がない。それはある意味、とても幸せなことなのかもしれない。