いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

除夜の鐘より100倍迷惑! 映画館でポップコーンを“抽選”する人々

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映画館でポップコーンを“抽選”中の人

除夜の鐘が周辺住民のクレームによって取りやめになっているというニュースが、ここ数年は毎年のように年末のSNS上で物議を醸している。個人的には、除夜の鐘なんて「年末感を高めるためのSE」みたいなもんだし、今の家からは鐘が聞こえないので聞こえるのが羨ましいぐらいだが、「年末感を高めるためのSE」という理解を共有していない人が増えたのかもしれない。

 

ま、それはともかく、少なくとも「除夜の鐘」よりも迷惑な音があるのである。映画館でのポップコーンである。

 

またその話か、とブラウザを閉じかけたあなた、ちょっと待ってほしい。たしかにぼくは一昨年、こんなブログを書いた。

iincho.hatenablog.com

 

こちら、映画館は咀嚼音がするポップコーンより、綿菓子を売ったほうがいい、ということを真面目に解説した記事なのだが、BLOGOS経由でかなりの数の読者から「お前は頭がおかしい」「病院行け」などと罵詈雑言を浴びたのであった。

あの強烈な反応には驚かされた。それだけ「映画館ではポップコーン!」の信仰が根強いのだろう。

 

あれ以来、ぼくもポップコーン客(普段はポップコーンなんて一口も食べないのに、映画館ではパブロフの犬のごとく雰囲気で買って食べる人々の総称)への態度を少し軟化させた。ポップコーンぐらい食べさせてあげようよ、映画鑑賞の醍醐味じゃんか、と思うようになった。

 

しかし、ある日、ポップコーンの音にまつわる新事実に気づいてしまったのだ。

以下、その新事実に気づいたときの再現である。

 

<劇場にて>

ポップコーン客「ポリポリポリ(咀嚼音)」

 

ぼく(あ、隣の人、ポップコーン客だ。嫌だなあ。でも、劇場が売ってるんだもんな。ガマンしよ…)

 

ポップコーン客ガサガサガサガサ」

 

ぼく(!?!?!?!?)

 

ポップコーン客「ポリポリポリ(咀嚼音)」

 

ぼく(あ、咀嚼音は意外とちっさいな)

 

ポップコーン客ガサガサガサガサ」

 

ぼく(!?!?!?!?!?!?!?!?)

 

…お分かりいただけただろうか。

 

それまで、ポップコーン客がうるさい=咀嚼音だとばかり思っていた。でも実際、多くのポップコーン客の咀嚼音は大したことないのである。聞き流せる程度の音量だ。

 

問題は、上記の再現での「ガサガサガサ」の部分である。これは何かというと、「ポップコーンを“抽選”している音」だ。

 

ポップコーンの「抽選」と聞いてもピンとこない人がいるだろう。

ここでいう「抽選」とは、ポップコーンが入ったバケツの中に手を突っ込み、まるで抽選するかのごとく手でポップコーンをこねくり回し、一つまみしていく動作である。ポップコーンについては咀嚼音より、この「抽選」の音のほうがはるかにデカいことに最近気づいたのだ。

 

咀嚼音なら許せるが、「抽選」はガマンしがたい。

なぜなら、咀嚼音は人がものを食べるときに出てしまう必要悪だが、「抽選」は徹頭徹尾、無意味だからだ。ただただ、意味のない騒音としか言えない。やめてほしい。

こんなことは説明するまでもないが、ポップコーンは福引きではない。当たりのポップコーンがなければ、ハズレのポップコーンもない。もしも「いいポップコーン」と「悪いポップコーン」があったとしても、上映中の暗闇では見抜けないだろう。そして、今の「抽選」で弾いたコーンも、いつかは「抽選」する人の胃袋に収まるだろう。基本的には食べ終わるまで「抽選」は続くのであるから。

 

ちょうど昨日も、『ヒックとドラゴン 聖地への冒険』を観に行ったら、1回の「抽選」がずいぶん長い客が隣に座ってしまい、辛かった。「その福引き、1等はハワイ旅行か何かですか?」と聞きたくなるぐらい、毎回毎回「ガサガサガサガサ」とポップコーンを「抽選」していた。ああいう人は、騒音に対しての意識が人より低いのかもしれない。

 

反対に、理想的なポップコーンのとり方は、バケツからダイレクトでコーン一つをつまみ、口まで持っていくことだろう。ほとんど音がしない。これはそんなに難しくないことはぼく自身も家で実証済である。

模範とすべきは、水中の魚を一瞬で捕らえる鳥の動きである。ぜひ、全国1億人のポップコーン客には参考にしてもらいたい。うるさい「抽選」など不要なのだ。

 

この話は、今までも友人知人には何度か話したことがあるが、にわかに信じがたい、という反応しか返ってこなかった。

これを読んだ人はぜひ次に劇場に行ったときには確かめてみてほしい。ポップコーンがうるさいのは咀嚼音ではなく、「抽選」なのだ。

【今年もこの季節】2019年度いいんちょ映画祭ベスト10(+ちょっとしたおまけ)

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毎年恒例のシネマランキング。今年からは「いいんちょ映画祭」と改称して開催したい。

 

というのも理由は簡単である。順位付けの徒労感が凄まじいのだ。

ぶっちゃけ、10位と9位、8位のちがい、なによ? という話である。

そんな順位、昨日選んでいたら変わっていただろうし、明日選んでいても変わることだろう。メシを食っているときに選んだとしても変わっていただろうし、おしっこしているときに選んでいても変わるだろう。つまり、一つ一つを順番に悩んでいるのがアホらしくなってきたのだ。

特に、今年は劇場で114本、合計で308本観た。過去最高記録だが、これだけ観ると、上半期に観た映画がどうしても不利になってしまう。

ということで、今年からは順位をつけず、「ベスト10」として発表したい。さらに、あくまで「映画祭」なので、惜しくも漏れてしまった作品から「部門賞」も紹介したい。

 

【過去7年のランキング】
2012年シネマランキング

2013年シネマランキング

2014年シネマランキング

2015年シネマランキング

2016年シネマランキング

2017年シネマランキング

平成30・31年版シネマランキング

 

2019年ベスト10(順不同)


ジョーカー
ブラインドスポッティング
ゴールデン・リバー
プロメア
工作 黒金星と呼ばれた男
ハウス・ジャック・ビルト
スノー・ロワイヤル
愛がなんだ
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド
スパイダーマン:スパイダーバース

 

<以下、各部門賞> ※赤字が受賞作品or受賞者

DCがマーベルへの反撃の糸口を掴んだと確信したで賞

アクアマン

約10年間お疲れさまで賞
アベンジャーズ/エンドゲーム

予告が一番ワクワクしたで賞
ブライトバーン/恐怖の拡散者

チンピラ役が板につきすぎで賞
千鳥大悟(ひとよ)

ただひたすら脳筋を観たいときにうってつけで賞
ワイルド・スピードスーパーコンボ

天才を演じる姿に無限の才能を感じたで賞
鈴鹿央士(蜜蜂と遠雷

眼帯姿がひたすらかっこいいで賞
ロザムンド・パイク(プライベート・ウォー)

再会してからセックスするまでの流れがリアルすぎるで賞

柄本佑×瀧内公美(火口のふたり)

思ってたんと違う…でもなんか面白かったで賞
アス/US

立ち居振る舞いがひたすら美しかったで賞
長澤まさみ吉沢亮(同時受賞 共にキングダム)

最後は絶対応援したくなるで賞
ファイティング・ファミリー

あいみょんのことがちょっと好きになるで賞
空の青さを知る人よ

アクションへの愛が止まらないで賞
ジョン・ウィック:パラベラム

世界の現実を知った気になれるで賞
家族を想うとき、存在のない子供たち、バイス(同時受賞)

タイトル(そして内容も)最高にシブすぎで賞
運び屋(&日本の配給会社に)

新しい演出を見せられた気になるで賞
アメリカン・アニマルズ

誰が見つけたの? ロケーションが最高で賞
ドッグマン

 

なお、今年は「一番面白かったラジオ・ベスト3」もついでに紹介しておきたい。これらはすでにradikoで聞くことができないので、想像だけで楽しんでもらいたい。決して、キーワードなどで検索をかけないように。

第3位 「ダイアンのよなよな」(ABCラジオ)6月3日放送回

ダイアン・ユースケが提唱した「MAXの楽曲は絶対に『ボォーン』という爆発音で終わる」という説から始まるトーク。相方・津田による「小室さんご相談よろしいでしょうか(泣き顔で)」の付け足しも最高だった。

第2位 「火曜junk 爆笑問題カーボーイ」(TBSラジオ)11月12日放送、鬼越トマホークゲスト回

鬼越トマホーク、坂井のヤケクソ感のただようトークが、どん底から駆け上がっていっていたときの有吉の面影を漂わせ、最高だ。ヤバいと感じた太田がやや抑えに入り、逆にエンジンのかかって煽りまくるサイコな相方・田中を諌める、というレアな瞬間も垣間見えた。

第1位 「木曜junk おぎやはぎのメガネびいき」(TBSラジオ)12月12日放送、アンタッチャブル山崎弘也ゲスト回

アンタッチャブル10年ぶりの漫才が披露された興奮さめやらぬ中で実施された恒例企画。ザキヤマのテキトーな雰囲気と、ラジオのゲリラ的なテレフォン企画が完全無欠にマッチしていて、歩きながら聴いて、思わず笑ってしまった。ラジオ界最強のリーサルウエポンである。

 

以上。

来年もほそぼそとやっていきます。よろしくお願いいたします。

素敵なファン感謝祭 『男はつらいよ おかえり、寅さん』

 

映画「男はつらいよ お帰り 寅さん」オリジナル・サウンドトラック

シリーズ50周年を飾り、23年ぶりに製作された『男はつらいよ  おかえり 寅さん』は、旧来のファンが同窓会のようなムードが漂う、素敵な感謝祭となっている。

 

今よりはるか以前、本作の企画を聞いたとき、たしか、現実に思い悩む満男(吉岡秀隆)が、長い間帰ってこない寅さんを追想し、おじさんならなんて声を駆けてくれるだろうか、というようなコンセプトだったと思う。そのときは、「おお、これはもしかしたら『ゴドーを待ちながら』的な名作になるのではないか」という期待が湧いたものである。

結果的に見れば、少々その期待からは逸れたものの、ファン大満足の仕上がりではないか。その証拠に、ぼくは比較的客層が年配のTOHOシネマズ日本橋で鑑賞したのだが、上映中はときおりすすり泣くような音がそこかしこから聞こえた。クライマックスだけではない。それほど、全編において老人が「エモい」と感じてしまう場面が多かったのではなかろうか。

 

そんな本作の大きな特徴は、過去49作を回想シーンとして余すことなく、使いまくっているところだろう。ときにそれは過剰とさえ言える。さらに不自然な点もある。というのも、基本的にはストーリーは満男のナレーションで進むのだが、回想シーンの中には満男が登場しない、もしくは、満男が生まれる前のシーンさえある。誰がそのシーンを見ていたんだ。

そのほか、回想シーンの使い方の過剰はあるものの、目をつぶりたくなるのもまた、回想シーンが理由だ。というのも、本作を見て改めて思ったのは、『男はつらいよ』シリーズは、コメディーとしてもレベルは決して低くないのだ。ただの人情噺ではない。本作で白眉だったのは、回想に出てくる「満男の運動会」のシーン。こんなおもしろい会話劇を書ける脚本家が、現代にどれだけいるだろう。

 

先述したように、『ゴドーを待ちながら』的な要素は薄く、わりとストレートに、中年になった満男が、かつての寅次郎の台詞によって突き動かされる、という展開である。

 

本作を見ていて気づいたのだが、結局、『男はつらいよ』というシリーズにおいて、寅さんという存在はいつまでも不変であって、成長はしない。そんな彼を中心軸にするかのように、妹のサクラはひろしと結婚し、満男が生まれ・・・というふうに、周囲の人間は彼と対照的に、いや、彼の普遍性を掛け金にするかのように、人生が変化していく。

 

寅さんが不在でも成立する『男はつらいよ』。実はそれは、これまでの『男はつらいよ』シリーズの本質なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

史上最高の「M-1」は優しさに満ち溢れていた

M-1グランプリ the FINAL PREMIUM COLLECTION 2001-2010 [DVD]

終わった直後から「史上最高」との呼び声も高かったことしの「M-1」。

隠れキーワードは「優しさ」だったと思う。

 

和牛を破って最終決戦の3組に滑り込んだぺこぱは、ツッコミという概念を優しくシルクの布でくるんで別物にしてしまったような産物だ。あの田舎のボンボンのような見た目のシュンペイのボケを、ホストなのかヴィジュアル系なのかまだキャラが定まっていない松陰寺太勇がツッコむ、かと思いきやふと立ち止まり、思慮し、認めてしまう。新しい、新しすぎる。また、松陰寺に関しては下手な演歌歌手を凌駕するそのキャラの“苦節っぷり”がにじみでていて、否が応でも応援したくなってしまう。

 

そして、シンデレラボーイになったミルクボーイも、キモは「優しさ」ではなかったか。ボケの駒場孝の言わんとしている「なにか」を、昭和からタイムスリップしてきたかのようなビジュアルのツッコミ・内海崇が「○○やないか」「○○ちゃうやないか」といったりきたり。われわれ観客は、「コーンフレーク」でありながら「コーンフレークならざる何か」という「空集合」に釘付けにされる。

結局あれは、コーンフレークだったのかどうか、最後までわからない。とにかく言えることは、我々はおそらくコーンフレークをもってしてここまで笑わされるのは、後にも先にもこの日だけだっただろう。
しかし、あの漫才を受け入れられやすくしている土壌は、あの内海の角刈りと渋い色のスーツという昭和のおっさんビジュアルと、関西のおばはんのような物言い、つまり「懐かしさ」という「優しさ」である。

なお、筆者はミルクボーイの予選動画ですぐに「こ、こいつらやばい」と気づき、10本ぐらいネタを公式動画を漁った。すべて「やないか」「ちゃうやないか」という同じパターンなのだが、結構毒っ気の強いものもある。それらを避けて、「コーンフレーク」「最中」の比較的優しめな2本を選んだことも勝因だったのではないか。

 

そして、今回はM-1全体が「優しさ」に包まれていたとかのように思える。これは2015年~の新生M-1には特に感じてきたことだが、出場者も審査員をはじめとする出演者も、みなが「テレビ番組」として、協力的であることに毎度のことながら感動を覚えてしまう。例えば今回でいえば、トップバッターのニューヨーク屋敷が「笑いながらツッコむのが好みではない」というダウンタウン松本人志の指摘から、さまざまな笑いへと展開されていった。みな、芸人人生を駆けたネタ披露の直後なのに、各出演者がいろんな絡み方をして笑いをとっていく。大会開始からしばらくあった、「ある意味面白いけど、万人受けは絶対しない殺伐とした雰囲気」はどこにもない。

 

そこに、「史上最高」と言われても過言ではないレベルの高いネタが出揃った。
 
今回のM-1が「史上最高」と謳われるとしたら、「テレビ番組」というコンテンツとしての成熟、そして出場者らの質の成熟が、タイミングよく同じ大会で相まみえ、そしてそこで、ほぼ無名だったニュースターを誕生させた、ということにあるのだろうか。

 

何より、見終わったあとに今まで以上に漫才という文化が好きになり、見た者だれもが、漫才について誰かと語りたくなる。


もちろん、民放のテレビ局が開催している以上、営利目的であることは大前提である。

しかし、大会前、大会中、そして大会後のSNSなどでの盛り上がり、メディアでの報道規模を見れば分かることだが、一局の利益は軽く超えるほどの影響力、そして貢献度であることは言うまでもない。

漫才が何かの集団になっているわけではない。漫才のための漫才大会。今年のM-1の優しさが向けられているのは、何を隠そう漫才に対してなのである。

クロちゃんに感じる人間に対する“誤解”

クロか、シロか。 クロちゃんの流儀

 
今週の『水曜日のダウンタウン』SPにて、自分がプロデュースしていたアイドル候補生のカエデちゃんに告白し、フラれた安田大サーカスのクロちゃん。大いに笑わせてもらった。
 
何がすごいって、彼はフラれたあとに「説得」を試みようとするのである。
 
「待って待って! 嘘でしょ!?」
「冗談だ? あー冗談だ?」
「カエデの初めていっぱいもらったじゃん」(スタジオ悲鳴)
「待ってよ、落ち着いて?」(スタジオの面々「お前や」)
「お願いします! ほんっとに付き合ってください」(カエデ「ごめんなさい」)「なんでぇ!?」
(声色を変えて)「もう縁切るよ?」
「ペンダント返してよ!」からの「(あっさり返されて)本当に返すの? (崩れ落ちて)返すやつあるか!」など、見返して書き起こしていても呼吸困難になってしまうほど笑ってしまう。

昨年の同じ時期にも「MONSTER HOUSE」内で同様の光景が展開されていたが、まじで来年の「R‐1ぐらんぷり」、マネキンでも相手役に置いて「フラれ漫談」として出場してほしいぐらいだ。それぐらい芸として確立しつつある。
 
ぼく自身は実は、クロちゃんについて巷で言われているほどの嫌悪感を抱いていない。そのヘドが出るような言動、何食ったらそうなるんだという考え方にむせ返るときもあるが、基本的には「まあ、そういう人も世の中にはいるよ」というスタンスだ。
 
それはもしかしたら、同郷のせいかもしれない。ぼくと同じ広島出身のこの荒ぶるスキンヘッドは、負の県民栄誉賞をもらってもいいぐらい、存在そのものが広島のネガティブキャンペーンとかしている。
 
そんな彼の一見標準語に聞こえる言葉のふしぶしに、実は、九州方面でも関西方面でもない広島弁独特の「なまり」がかすかに残されている。それはおそらく広島出身者しか気づけないと思われる。そのかすかに残る広島弁の風味が、ぼくの共感を誘っているのかもしれない。
 
閑話休題
 
しかし同時に、今回の放送で、ぼくはこれまでのクロちゃんへの共感とは別に、人間理解について彼とは大きな断絶があると感じた。それがまさに冒頭から述べている「説得」についてである。
 
クロちゃんとぼくでは、「人は変えられる」と、「人は変えられない」というちがいがある。
 
クロちゃんが死にかけのタコのようになってまで、カエデちゃんを「説得」しようとした背景には、「人は(自分に都合よく)変えられる」という淡い希望があるはずだ。そうでなければ人間、死にかけのタコのようになってまで人の「説得」は試みない。
 
対するぼくはそうではない。人間は変えられないと思っている。中には変えられる微細な部分もあるだろうが、根本的な部分で人は変えられないと感じる。

だから説得を試みたところで無駄である、と考えてしまう。自分がクロちゃんの立場だったとしたら、フラれてショックは受けるだろうが、あっさりと身を引いてしまうことだろう。そこでゴネたところで、何も生まれないからだ。だから死にかけのタコみたいにはならない。
 
『水ダウ』でこれまでさまざまな角度からその酷さに脚光が浴びてきたクロちゃんであるが、このように「熱意を持って説得すれば人は変えられる」という素朴な人間理解も彼が有していることを指摘しておきたい。
 
あるいは、こういうことも言える。
 
人間社会は「贈与‐反対給付」でできている。人から贈り物をもらったら(贈与)、自分もお返し(反対給付)をしないと悪いような気がする。そういう「負い目」があるからこそ、この社会は成り立っている。

しかし、愛情は別である。こんなに愛しているのだから、こんなに尽くしているのだから、相手が愛してくれる…とは限らない。いや、もしかしたら相手だって愛し返したいかもしれない。でも、愛情が湧いてこないことには仕方がない。
 
とっておきのデートをエスコートした後の告白で、あっさり自分をフッたカエデちゃんに「なんで!? なんで!?」と信じられない様子で問い続けるクロちゃんは、愛情も「贈与‐反対給付」の経済圏にあると考えているといえる。
 
愛情は基本的には片道切符であり、戻ってくることを期待してはならない。
 
人は変わらないし、人に期待してはいけない。
同郷のよしみで、クロちゃんにはそのことを教えてあげたくなった。

【ショートショート】多夫多妻の世紀

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 1日の仕事を終え、スズキは安堵のため息をついた。彼がこの物語の主人公である。
 
 帰り支度をしていると、隣の席の同期タナカが「お、今夜は2号さんのところですか?」と声をかけてきた。
 
 これを読んだ21世紀のあなたは、なんて不躾な会話をするんだと憤慨したかもしれない。しかし、この物語は22世紀が舞台。22世紀にもなれば、これが日常会話なのだ。
 
 「いや、今日は金曜日だから4号の家なんだ」
 「あ、そうだそうだ。忘れてた」とタナカが返す。
 
 するとそこに、これまた同期のハラダが通り過ぎようとしているのが目にとまる。
 
 「お、今日は珍しく早いね」、スズキがハラダに声をかける。
 「フフ、実はね。今日は新しい彼氏とデートなの」
 「え、じゃあ…」
 「うん、もし相性が良かったら、3号の夫にしようかなって…」

 

 

 22世紀。世は一夫一婦制、ならぬ一夫多妻制、でもなく、多夫多妻制になったのである。
 
 ここからは順を追って説明しよう。

 21世紀も後半になると、日本の晩婚化、少子高齢化はついに最終局面を迎え、人口は2000万人まで激減。政府や有識者がけんけんがくがく議論した結果、たどり着いたのが多夫多妻制度だった。

 日本人の生き方の多様性が進み、そもそも一夫一婦制という制度が窮屈になっているのではないか。もし、人それぞれがそれぞれに合ったライフスタイルで、いろんな人と結婚できたなら、結婚する人が増えるのではないか。それが制度の理論的支柱だ。

 そんなバカな、と思われるかもしれないが、結論から言うと、多夫多婦制度は日本を救った。制度によって婚姻数は激増するとともに、出産数も激増。22世紀なかばには、日本人口は4億人に迫る勢いである。

 独身でいることはそれまで通りもちろん許されたし、一夫一婦制をつらぬきたいという人ももちろんいたが、今やほとんどの日本人は2人以上の配偶者を抱えているのが現状だ。

 なお、会話で家族の話をするときはややこしいので、タナカのように2号、3号、4号…などと結婚した順に番号をつけて呼ぶことが通例となった。20世紀の古臭い家父長制の中で婚姻外のいわゆる愛人を「2号」と呼ぶ習わしがあったらしいが、22世紀の現代では、男女を問わず、誰もが誰かの2号、3号である可能性があるのだ。

 なお、多夫多妻制度に反対運動は起きなかったのかというと、これが意外なことに起きなかった。21世紀前半までに一定数いた古い家族像を頑なに固執する政治的保守層は、その頃にはほとんどが死に絶え、もしくはヨボヨボの老人しか残っておらず、反対する元気もなく、制度はスムーズに施行された。

 

 なお、この物語の主人公スズキには現在7人の妻がいる。ちょうど割り振れるということで、7日間の曜日ごとに各妻と会う日を割り振っている。これが非常に分かりやすく、スズキ自身は今の妻7人との生活を気に入っているようだ。

 退社し、妻4号の家にたどり着いたスズキ。玄関を開けて「ただいま。ショウゴ、お父さん帰ったぞ」とリビングの方に声をかけると、奥から5歳ぐらいのやんちゃ盛りの子どもが駆けてきた。スズキは抱きしめて頭をなでてやったが、ふと違和感に気づいた。

 

 「お前、ショウゴでなく、さてはミツルだな?」
 
 イタズラをバレてキャッキャと笑うミツルとじゃれ合っていると、今度は奥から本物のショウゴが現れ、スズキはこちらも抱きしめてやる。
 
 ショウゴはスズキと妻4号の子どもだが、ミツルは妻4号とその2号、つまり妻が夫2号との間に設けた子どもなのだ。妻4号にとって、スズキは夫3号である。ショウゴとミツルは年子で、なおかつどちらも妻に目元がそっくり。つまり顔も背格好も2人はよく似ており、スズキは度々間違えてしまう。ショウゴとミツルはそれを逆手に取ってイタズラをスズキにしかけたのである。
 
 妻4号は料理が得意なので、スズキが帰る日は一緒に料理を作るのが一つの日課だ。 
 食卓には親と子ども、合わせて6枚のお皿がならぶ。スズキの妻4号はショウゴ、ミツルのほかに2人の娘がおり、彼女らはどちらも別々の夫との間にできた子どもだ。なお、長女のアカリの父親は、スズキの妻4号の夫1号、もとい、元夫1号で、2人はすでに離婚している。 
 スズキは実の子であるショウゴだけでなく、ミツルやアカリといった血のつながらない子どもとも分け隔てなく接する。それができるのが、この時代の大人の甲斐性とされている。

 

 スズキたち一家が夕食を食べながらテレビを観ていると、ある資産家の妻がシガ県の人口を超えたというニュースが終わったあと、今度は事件のニュースに切り替わった。
 
 「続いては、メグロ区で男性が殺害された事件の続報です…」
 
 「なんだ。まだこれ、やっていたのか。これって結局、妻の誰かが殺ったって話で終わったんじゃなかったんだっけ?」スズキが聞く。
 すると妻4号が眉をひそめ「ちがうのよ、これ、妻でなく、妻“たち”だったの…」
 「え…」
 
 ニュースによると、殺害された男性は妻8人と結婚していたらしい。8人もいるのに、妻たちは男性に全く不満をもっていなかった。それだけ、男性には甲斐性があったのだが、事件ではそれが仇となってしまった。

 男性の愛に溺れてしまった8人はそれぞれ、男性を自分だけのものにしたい、という独占欲にかられてしまった。8人は平和的に話し合いを重ねたそうだが、「私だけのものにならず、こんなに辛い気持ちを抱えるぐらいなら、いいわ。みんなで彼を殺して思い出にしましょう」という話がまとまってしまい、共同で夫を殺してしまったという。
 犯行時には、お互いがお互いのアリバイを融通し合うことで、警察の捜査をかなり困難にさせたようである。

 


 次の月曜、スズキが会社に行くと、オフィスの一角に人だかりができていた。
 スズキが外側からのぞきこむと、人だかりの真ん中で、後輩のヤマダが、あろうことか上司のサトウと取っ組み合いの喧嘩を始めているではないか。
 
 スズキはあわてて、近くにいたタナカに理由を聞く。
 
 「あの2人、同じ奥さんが1人いただろ?奥さんにはすでに別の夫との子どもが2人いて、もうそろそろ復職したいらしい。んで、『産むのはあと1人にしたい』って言ってるらしくて、その後1人をどちらが産んでもらうかで揉めてるようなんだよ」とタナカ。
 
 ヤマダは顔を真っ赤にして「あんたは俺よりあとに夫になったんだろ! 会社での関係がどうあろうと、先着順でゆずるべきだ!」と訴える。一方、ヤマダに鷲づかみされたカツラがとれかかっているサトウも負けじと「そんなことは関係ない。私はあの妻との子どもがほしいんだ」と言い返し、一歩も引く様子がない

 2人が大喧嘩になっていることで、スズキのここ最近起きていた出来事にも合点がいくところがあった。以前は仲が良かった2人だが、最近は社内でも些細なことでいがみ合い、うまく行っていないようだった。あれはきっと、妻からもう1人しか産まないと言われたあとだったのだろう。
 
 そのとき、スズキとタナカのそばを、すこしくすんだ人影が通り過ぎた。

 タナカが「あ、『ZERO』…」と口に出し、しまったとばかりに慌てて自分の手で口を押さえる。「おいお前、本人の前だぞ…」、スズキもタナカをたしなめる。
 
 多夫多妻制が敷かれた現在も、結婚しない人がいることは先にも説明した。しかし、独身であるにしろ、「結婚をあえてしない」のと、「結婚できない」の間には100万光年の差がある。
 
 いくら世の中が多夫多妻制になろうと、箸にも棒にもかからない、配偶者0人の人は存在した。いつしか、そうした人々のことを社会は「ZERO」という蔑称で陰で呼ぶようになったのだ。
 
 スズキとタナカの前を通り過ぎたのは、初老の「ZERO」。自分が「ZERO」と呼ばれたことに気づき、スズキたちのほうを悲しそうに一瞥をくれたが、何か言い返すようなことはせず、自席の方にトボトボと歩いていった。後ろ姿からでも、頭髪が薄くなっているのがよくわかる。彼は仕事もとりたててできるわけではない。むしろ会社の「お荷物」の側面すらある。定年まで、ずっと席を温めておくつもりなのだろうか。

 

 多様性の名の下、22世紀が生きやすくなったと言えばそうとは言い切れない。なぜなら多夫多妻の時代、「ZERO」みたいに売れ残ってしまう人はよりいっそう、「それでも結婚できない」という意味で、人間的な魅力の“なさ”が際立ってしまったのだ。

 


 スズキは自分の席につくと、ふとさっきのヤマダとサトウの喧嘩について思いを馳せてみる。金曜にみた殺人のニュースにしろ、ヤマダやサトウにしろ、スズキからしたら古臭い価値観に囚われた世迷い言だとしか思えなかった。
 
 今の時代、家族は所有するものではないのだ。所有という概念は遠い昔に消え去った。それに彼らは早く気づくべきだ。
 
 概念の消失といえば、22世紀になったら「きょうだい」の概念も消えつつあるかもしれない。
 
 
 そのとき、スズキの端末にコバヤシから着信があった。
 
 「スズキさん! お久しぶりです。最近どうですか? 今度飲みにでもいきましょう」
 
 コバヤシはもともとは取引先の社員だったのだが、一度会食した際に、実はスズキと「家族」だったことが分かり、それ以来、仕事以外でもたまに交流を持つ間柄になっている。
 
 どういう家族かというと、コバヤシの父親の妻3号がスズキの母親の夫6号と一時結婚していたことがあり、また、スズキの父親の妻8号が昔結婚していた夫3号の弟が、コバヤシの母親の夫5号だった、ということが分かったのだ。
 
 この時代、異母兄弟、異父兄弟が当たり前であり、「きょうだい」という概念は急速に意味を失われていった。言うならば、「きょうだい」と「友人」の中間の、新しい人間が劇的に増えたのである。
 
 コバヤシと週末に飲みに行く約束を取り付け、端末を切ったスズキは仕事を始めるまえにふと物思いにふける。
 かつて「人類みなきょうだい」と言った偉人がいるというが、22世紀になってそれは修辞などでなく現実になったのだ。

 ただし、「ZERO」をのぞいてだが。

映画『家族を想うとき』が描く「自由な働き方」の欺瞞

映画チラシ『家族を想うとき』5枚セット+おまけ最新映画チラシ3枚 ケン・ローチ

 ケン・ローチ監督については前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』が、かなり精神的にまいるような内容でオススメだ。今作も身構えて観に行ったが、期待通りというのか予想通りというのか、かなりヘビーな一作であった。

わたしは、ダニエル・ブレイク (字幕版)

わたしは、ダニエル・ブレイク (字幕版)

  • 発売日: 2017/09/06
  • メディア: Prime Video
 


 ローチ監督は、『わたしは~』で引退するつもりだったらしいが、作品のリサーチの際に、「もう一つ、撮らなければならないテーマが見つかった」と気づき、本作を撮ったという。見終わった今にして思うのは、この監督の「撮らなければならない」という決意は間違っていないと思うし、世界の多くの観客の目に触れなければならない映画だと言える。

 

 主人公は、ニューカッスルのある貧しい四人家族。父のリッキーが、マイホームを購入するために一念発起し、運送業フランチャイズになることを決意する。しかしそれが思惑から外れ…という展開だ。

 これまでの監督の作品と同様、ミディアムショットを多用し、音楽はほとんど使わない。シンプルで飾らない絵作りで、ともすればドキュメンタリーのような雰囲気。そうであるがために、真実味があってズシンと響く内容になっている。

 

 本作が強く印象付けるのは、「自由な働き方」という名の欺瞞である。


 リッキーは、運送会社に「転職」したわけではない。あくまでフランチャイズだ。フランチャイズについては映画の冒頭で、会社側の担当者マロニー(こいつがストーリーが進むにつれて怖い本性を現してくる)が裁量の自由を謳い、理想の働き方のように喧伝する。働き次第で稼ぎは増え、もうけは全て自分のものとなる。リッキーが今からなろうとしているのは、会社と対等な「一事業主」なのだ、と。
 しかし、蓋をあけてみれば、リッキーは10時間以上働き詰め。トイレなど行っていたら指定の時間帯に間に合わない。遅れれば制裁金をとられてしまう。そのため、おしっこは「尿瓶」にする始末。それだけではない。就業中の怪我の治療は自己負担で、配達に不可欠な高価な機器を壊せば信じられない額の弁償代を請求される。

 キツいならばやめればいい。と、思うかもしれないけど、リッキーは参入する際に、妻の出勤用のトラックを売り払った頭金で運送用にトラックを買ってしまった。そのローンも残っている。簡単にはやめられない…。実質は会社の下請けであり、立場は限りなく弱いのだ。

 

 「フランチャイズ」という用語については、コンビニの24時間営業問題などで本邦でもここ数年、悪いイメージがつきまとっている。それはイギリスでも同じなのかもしれない。リッキーがフランチャイズになったのはあくまでも彼自身の自由な選択によるものだ。しかし、貧しい人たちに残された選択肢は、そもそもが「貧乏くじ」であることそして、その選択の結果については「自己責任」として幕引きがなされる。そのことを本作は痛烈に描いている。
 一度狂った家族の歯車は、容易には戻らない。貧しい家庭には、戻すための支援の拠り所がなければ、戻すことに手をこまねいている時間さえない。

 

 終盤の印象的なシーンで、長男のセブが半泣きになりながら、無理をする父親に「僕は元の家族に戻れればいい」と訴える。高望みしているわけではない。ただ、もとに戻りさえできればいい。けどそれさえ望めない状況。本作は、日本と地続きで繋がる貧困の底なし沼が描いている。