いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

クロちゃんに感じる人間に対する“誤解”

クロか、シロか。 クロちゃんの流儀

 
今週の『水曜日のダウンタウン』SPにて、自分がプロデュースしていたアイドル候補生のカエデちゃんに告白し、フラれた安田大サーカスのクロちゃん。大いに笑わせてもらった。
 
何がすごいって、彼はフラれたあとに「説得」を試みようとするのである。
 
「待って待って! 嘘でしょ!?」
「冗談だ? あー冗談だ?」
「カエデの初めていっぱいもらったじゃん」(スタジオ悲鳴)
「待ってよ、落ち着いて?」(スタジオの面々「お前や」)
「お願いします! ほんっとに付き合ってください」(カエデ「ごめんなさい」)「なんでぇ!?」
(声色を変えて)「もう縁切るよ?」
「ペンダント返してよ!」からの「(あっさり返されて)本当に返すの? (崩れ落ちて)返すやつあるか!」など、見返して書き起こしていても呼吸困難になってしまうほど笑ってしまう。

昨年の同じ時期にも「MONSTER HOUSE」内で同様の光景が展開されていたが、まじで来年の「R‐1ぐらんぷり」、マネキンでも相手役に置いて「フラれ漫談」として出場してほしいぐらいだ。それぐらい芸として確立しつつある。
 
ぼく自身は実は、クロちゃんについて巷で言われているほどの嫌悪感を抱いていない。そのヘドが出るような言動、何食ったらそうなるんだという考え方にむせ返るときもあるが、基本的には「まあ、そういう人も世の中にはいるよ」というスタンスだ。
 
それはもしかしたら、同郷のせいかもしれない。ぼくと同じ広島出身のこの荒ぶるスキンヘッドは、負の県民栄誉賞をもらってもいいぐらい、存在そのものが広島のネガティブキャンペーンとかしている。
 
そんな彼の一見標準語に聞こえる言葉のふしぶしに、実は、九州方面でも関西方面でもない広島弁独特の「なまり」がかすかに残されている。それはおそらく広島出身者しか気づけないと思われる。そのかすかに残る広島弁の風味が、ぼくの共感を誘っているのかもしれない。
 
閑話休題
 
しかし同時に、今回の放送で、ぼくはこれまでのクロちゃんへの共感とは別に、人間理解について彼とは大きな断絶があると感じた。それがまさに冒頭から述べている「説得」についてである。
 
クロちゃんとぼくでは、「人は変えられる」と、「人は変えられない」というちがいがある。
 
クロちゃんが死にかけのタコのようになってまで、カエデちゃんを「説得」しようとした背景には、「人は(自分に都合よく)変えられる」という淡い希望があるはずだ。そうでなければ人間、死にかけのタコのようになってまで人の「説得」は試みない。
 
対するぼくはそうではない。人間は変えられないと思っている。中には変えられる微細な部分もあるだろうが、根本的な部分で人は変えられないと感じる。

だから説得を試みたところで無駄である、と考えてしまう。自分がクロちゃんの立場だったとしたら、フラれてショックは受けるだろうが、あっさりと身を引いてしまうことだろう。そこでゴネたところで、何も生まれないからだ。だから死にかけのタコみたいにはならない。
 
『水ダウ』でこれまでさまざまな角度からその酷さに脚光が浴びてきたクロちゃんであるが、このように「熱意を持って説得すれば人は変えられる」という素朴な人間理解も彼が有していることを指摘しておきたい。
 
あるいは、こういうことも言える。
 
人間社会は「贈与‐反対給付」でできている。人から贈り物をもらったら(贈与)、自分もお返し(反対給付)をしないと悪いような気がする。そういう「負い目」があるからこそ、この社会は成り立っている。

しかし、愛情は別である。こんなに愛しているのだから、こんなに尽くしているのだから、相手が愛してくれる…とは限らない。いや、もしかしたら相手だって愛し返したいかもしれない。でも、愛情が湧いてこないことには仕方がない。
 
とっておきのデートをエスコートした後の告白で、あっさり自分をフッたカエデちゃんに「なんで!? なんで!?」と信じられない様子で問い続けるクロちゃんは、愛情も「贈与‐反対給付」の経済圏にあると考えているといえる。
 
愛情は基本的には片道切符であり、戻ってくることを期待してはならない。
 
人は変わらないし、人に期待してはいけない。
同郷のよしみで、クロちゃんにはそのことを教えてあげたくなった。