いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

“青春映画”の皮を被った世界観をめぐる壮大な戦い『町田くんの世界』

町田くんの世界

 

毎回、ここで映画について書く前は、いちおうウィキペディアなどスタッフやキャストの略歴を調べてみたりもするのだが、今回は監督がまだ37歳だということに驚いた。俺とたった2つ違いかよ…。今回は、石井裕也監督の才覚に舌を巻いた、『町田くんの世界』を紹介したい。

 

世界は愛に満ちているのか、悪に満ちているのか

主人公の町田くんは、誰に対しても別け隔てなく親切に接し、気にかける、パラメータがアガペー全振りの男子高校生。そんな彼の前に、「人が嫌い」と吐き捨てる、休みがちなクラスメイトの猪原奈々が現れ、2人の不器用ながらの交流が始まる。

本作は、青春映画の体裁をとりながも、そのテーマは広く、普遍的だ。それは、この世界は愛に満ちているのか、悪に満ちているのか。

人が好きな町田くんはもちろん前者を代表している。自分と同じように、みんながみんなを愛しているはず、と信じてやまない、ちょっとヤバいぐらいの優しい男である。

一方、世界は悪に満ちている、と捉える考え方も当然ある。本作ではそれを、芸能人のスキャンダルを追うことを飯の種にする週刊誌記者を演じる、池松壮亮が代表する。

 

「老け込んだ高校生たち」の持つ意味

キャスティングが面白い。町田くんとヒロインの猪原さんを演じる2人は、当時新人だった細田佳央太と関水渚。この2人は撮影当時実際の10代だ。

しかし、2人を取り巻くそのほかの高校生役にキャスティングされているのは、前田敦子に岩田剛典、太賀(現・仲野太賀)、高畑充希など、その多くが明らかに実年齢では成人しており、ぶっちゃけた話、高校生役にしては老けているし、制服姿が不自然だ。

これを過去作へのアンチテーゼと意地悪に解釈することもできる。実際、彼らと年齢がそう変わらない20代の俳優が、こうした3ヶ月に1作ペースで量産される学園恋愛ものに、順列組み合わせの要領でキャスティングされているからだ。

 

しかし同時に、彼ら「老け込んだ高校生たち」には、ストーリー上の意味があると思える。 

町田くん、猪原さんの周囲の「老けた高校生たち」は、老けていると同時に、言動も相まってどこか世慣れたようにも見て取れる。それは、単に経験豊富で老成しているというより、自分、そして他人に対して「はいはい、どうせこの程度でしょ」という見限り、期待値の低さからくる「老け」に思えてくるのだ。

 

ここで本作が、単なる性善説性悪説の対立ではないということも分かってくる。

性悪説の背景にあるのは、「所詮、人間なんてその程度のもんでしょ」という「知ったかぶり」の所作だ。

一方、性善説の背景にあるのはなにか。

素敵なシーンが随所に散りばめられている本作だが、印象的なシーンの一つが、町田くんと、アマゾンから一時帰国したお父さん(北村有起哉)が語りあう場面だ。

お父さんは町田くんにお母さん(松嶋菜々子)を好きな理由を聞かれ、「分からないこと」だと明かす。そして息子に「分からないことがあるからこの世界は楽しい。分からないことがあるからこの世界は素晴らしい。分からないことから目をそらしちゃダメだ。分からないからこそしっかり向き合わなければならない」と諭すのだ。

また、その息子である町田くん自身がたびたび口にするのが「想像」だ。 

性悪説が「“どうせ”という知ったかぶり」であるなら、性善説はきっと「どうせ」と即断せずに、理解できない他者に理解できないまま向き合うこと、そして、想像することといえるのだ。

誰にでも優しい人は、誰にも優しくないのと同じ

町田くんは町田くんで、欠点がないわけではない。彼の優しさの前に、猪原さんの「人間嫌い」の鎧はもろくも崩れ去り、彼のことを好きになってしまう(ここでパニックになってしまう関水の演技がたまらなくかわいい!)。

しかし、猪原の好意に町田くんがストレートに返答することはない。なぜなら彼の優しさは、誰に対しても手向けている優しさだからだ。

つまり、見返りを期待しない町田くんは、見返りがあっても戸惑ってしまうだけ。誰にでも優しい町田くんは、誰にも優しくないのと同じだったのだ。エロスをともなう愛情は、必然的にエゴイズムを伴う。町田くんのそれは近いようで最も遠かった。このことが猪原さんを深く傷つけることになる。

 町田くんはそこで、自分の気持ちをもう一度見つめ直す。そして、「選ぶ」というエゴイスティックである意味残酷なことを受け入れるに至る。

…それでも、他人への気遣い、優しさを捨てきれないのが、町田くんのいじらしくてたまらなくかわいいところなのだが。

度肝抜かれるクライマックスの持つ“意味”

多くの観客が、クライマックスの展開に驚くことだろう。

ぜひ、ぼくと同じように最初から最後まで鑑賞して驚いてもらいたく、詳しくは書かないが、ボカして明かすならば、本作のクライマックスでは、それまでのリアリズムとは全く異なる、ファンタジーな出来事が巻き起こる。町田くんか猪原さんの夢や空想かと思ったが、「ガチ」で起きたことのようだ。

この突拍子のない、ファンタジーなクライマックスは「奇跡」の隠喩なのだろう。

本作では「奇跡」という言葉が一度出てくる。猪原さんが言っているのだ、「好きになった人が、自分を好きになってくれるわけないでしょ。それってもう奇跡みたいなもんだから」と。

自分が好きになった相手が、同じように自分のことを好きになってくれる。それはたしかに「奇跡」のように尊い出来事だけど、誰のもとにだって起きる可能性がある。それを許さないまで、世界は厳しいわけではない。本作のクライマックスが教えてくれるのは、たぶんそういうことだ。

 

ネガティブな感情に支配されて、「どうせ」と世界を見限りたくなったとき、町田くんの優しいほほ笑みを思い返してみよう。もう一度「奇跡」を信じてみたくなるかもしれない。