「ルビンの壺」というイラストがある。心理学者エドガー・ルビンが考案したイラストで、一見、壺が描かれているように見えるが、よくよく見ていると2人の人が向き合っている図にも見えてくる。逆に、2人の人が向き合っているイラストだと思った人が、ふとした瞬間に壺に見えてくることもあるだろう。
重要なのは、「壺の絵か、2人の人の絵か。どちらでもあるしどちらでもない」ことと、「見た人は、“壺”と“2人の人”を同時にイメージすることはできない」ということだ。
2000年代に話題となった「騒音おばさん」をモチーフにした映画『ミセス・ノイズィ』を鑑賞しながら、ぼくはルビンの壺を思い浮かべていた。
薄い壁一枚で隔てられた2つの「世界」
長いスランプに陥っている小説家の真紀(篠原ゆき子)は、夫、まだ幼い愛娘と共に集合住宅に引っ越してきて、再スタートを切る。
原稿の締め切りに追われている早朝、隣家から「バンバンバン」という、けたたましい布団叩きの音がする。音の主は隣人の美和子(大高洋子)だった。
娘をめぐるちょっとしたトラブルもからみ、しだいに隣人との間で高まっていく緊張関係。新しい小説を書きあぐねていた真紀は、そのやっかいな隣人自体を扱った小説を書くことを思い立つ。
まず最初に観客に提示されるのは、ヒロイン・真紀越しの現実で、それゆえに、美和子が得体のしれないモンスターに思えてくる。演じる大高洋子が素晴らしい。「あ~これはあんまり関わったらあかん系の人かもなあ~」という説得力の強い、存在感と演技である。
しかし、ここで物語は視点を一変して、美和子側から語り直されることで、多面的な世界が展開していく。
結局、薄い壁一枚で隔てられているだけで、真紀と美和子はお互いがお互いに同じ絵を観ながら、「全く別の世界」を観ているだけだったのかもしれない。それはまるでルビンの壺のように。しかし、そのことは真紀も美和子もお互い知る由もない。
本当の「あたおか」は誰なのか?
そこに「ネット社会」「マスコミ」という第3局がどやどやどやと分け入ってくる。ささいな隣人トラブルは、一知半解した「野次馬」たちの好奇の目にさらされ、物語は悲劇的、破滅的な方向へハレーションを起こしていく。
ネット社会は「非常識」や「あたおか(頭がおかしい人)」に敏感だ。麻薬を嗅ぎ取る警察犬のように鋭く察知し、現場に急行すれば、お得意の「常識」を振りかざして相手を叩きまくる。
しかし、その「常識」は気ままで、とても移ろいやすい。本作でも、ある出来事がきっかけで、ネットでの風向きは180度変わる。そのリアリティには、日頃ネットに慣れ親しんだ者からすれば、居心地の悪さすら感じる。
結局、本当に「あたおか」なのは誰なのか? 映画が大団円を迎える直前、美和子のある「絶叫」(咆哮、と呼んだ方が適切かもしれない)は、はっきりとその対象に向けられているような気がした。
インターネットの“ソウホウコウセイ”という詐称
インターネットという便利な道具によって、「ソウホウコウセイが高まった」と偉い人たちはいう。でも、本当にそうだろうか? と最近は特に思う。
実際のところ、かえって一方的に眺める側(笑い者にする側)と、一方的に眺められる側(笑い者にされる側)という多対一の「一方向性」が強まった気もする。その感覚は、動画コンテンツ全盛のここ数年、よりいっそう感じる。
ツイッターでたまに「ネットやSNSを使ってなさそうな(もしくは存在自体を知らなそうな)中高年」の公共の場での不始末を勝手に撮影し、アップロードした投稿がバズっている。肖像権の問題はもちろんだが、それ以上に「反撃してこなさそうな者を一方的に笑い者にしている」の構図がとても感じが悪い。
本作では、美和子がネットを使っている形跡がないため、ネット社会に対して同様の感じの悪さが強調されている。
鑑賞後、エレベーターを待つ間にもう一度この映画のポスタ―を観たら、鑑賞前とは前と全く違ったインスピレーションを与えられる。
もしかしたら、このポスターの真紀と美和子はベランダから“ぼくら”を見返しているのかもしれない。