いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

それは本当に“放送禁止歌”か? 加害者遺族の葛藤描く映画『君が生きた証』が投げかける難問

コーエン兄弟の『ファーゴ』などでおなじみで、目がギョロッとした顔が印象に残る俳優、ウィリアム・H・メイシー。彼が2014年にメガホンを取った『君が生きた証』という映画がある。本作は表現することについて、その倫理についてとても興味深い問いを投げかける。なお、ここからは都合上、ストーリーの核心部分に容赦なく触れるので、できれば回れ右して、観てから呼んでほしいぐらいだ。

君が生きた証(字幕版)

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主人公は、やり手広告マンのサム(ビリー・クラダップ)。重要な商談が決まり、大学生の一人息子・ジョシュ(マイルズ・ハイザー)を意気揚々とランチに誘うが、あっさり断られてしまう。その後サムは、ランチを断ったジョシュが向かった大学で銃乱射事件が起こり、ジョシュは亡くなったことを知る。

一人息子を失い自暴自棄になったサム。2年後、湖畔に浮かぶボートハウスで荒んだ生活を送る彼の姿があった。サムは事件の後に仕事を辞めて、妻とも別れ、隠とん生活を送っていたのだ。

そんな彼に転機が訪れる。元妻から半ば押し付けられる形で受け取った息子の遺品の中には、彼の作詞作曲のノートとデモ音源が。近くのライブバーで飲んでいたサムは、ふと思い立って飛び入りでステージに立つと、息子の遺した楽曲を歌う。作ったのが亡き息子であることを伏せて歌ったその曲に、オーディエンスは聞き入ることになる。そして、その1人、心を掴まれたロック青年のクエンティン(アントン・イェルチン)に誘われ、サムは渋々ながら、バンド「ラダーレス」を組むことになる。

アントン・イェルチン演じるロック青年はいいキャラだし(この人は本当に亡くなるのが早すぎた)、ローレンス・フィッシュバーンも味のある楽器屋の店主として出演。また、監督のメイシーもちょい役だが出演している。

そんな本作だが、中盤以降で大きな展開が待っている。

中盤で観客をあっと言わせるミスリード「そういうことだったのか」

サムがジョシュの曲であることを言いそびれたまま、「ラダーレス」は次第に地元で人気を高めていく。そんな折、サムの前に現れたのは、ジョシュの恋人だったケイト(セレーナ・ゴメス)だ。ケイトは、亡き恋人の父親の前に現れお悔やみの一つでも言うのかと思いきや、自分がいまケイトという名を隠してアンというミドルネームで生きていると恨めしそうに訴えると、「よく歌えるわね! 恥知らず!」と吐き捨てて去るのだった。

この時点では、ケイトの怒りが、サムが亡き息子の楽曲を黙って自作であるかのように歌い演奏していることへの怒りかともみてとれるのだが、サムが、ジョシュの墓石に容赦ない落書きを認める次のシーンで、映画の観客には巧みなミスリードが仕掛けられていたことが分かる。

ジョシュは銃乱射事件の被害者ではない。加害者だったのだ! 彼は父親のランチを断ったその足で銃を持って大学を訪れると、何の罪もない同窓生たち6人を殺し、そして自らも死んでいたのだ。

それが分かると、冒頭から節々に仕掛けられていた絶妙な違和感の謎も解けていく。例えば、ジョシュの葬式のシーン。葬儀場の近辺には何人もの報道陣がたむろし、上空には報道ヘリが飛び交っていた。よくよく考えてみたら、被害者の遺族にそこまで取材が殺到する必要性もないので変だ。また、サムが元妻から「隠れるように生きている」と指摘されたことも理解ができる。今まで、ジョシュ=かわいそうな被害者、という認識で物語を追っていた観客の頭の中で、オセロの白が全て黒に反転するかのように、鮮やかに認識が変わる瞬間だ。

その後、注目が集まるイベントのオファーを受けた「ラダーレス」。メジャーデビューも見えてきた最中、その当日になって事件が起こる。ケイトが会場に乗り込んで、クエンティンをはじめとするバンドメンバーに、サムの楽曲は全て息子のジョシュの手によるものであり、また、ジョシュが大学で6人もの学生を殺害した銃乱射犯なのだ、とバラしてしまう。クエンティンは「もうあれは歌えない」とイベント出演を辞退し、バンドは解散状態になってしまう。

それは本当に“放送禁止歌”なのか?

こうした劇的な価値転倒が起こる語り口によって、最後まで観客の目を釘付けにする名作となっている本作。世間にとっては無垢なる若者たちを殺し、全く擁護できない、死んだとしても誰にも惜しまれない大悪党。自分にとって世界でたった一人の我が子が、そんな存在になってしまった…。胸を締め付けられるような主人公の葛藤が、「息子の作った曲を黙って弾き語る」という本当にささやかな方法によって表出したとしたら、それはとても切ない。

一方で、サムがやったことは、本当に許されないのだろうか。そんなことを、本作の鑑賞中にもずっと考えてしまった。犯罪者の手によるものだったら、どんなに素晴らしい作品でも公開(演奏)しては駄目なのだろか? しかし、世の中には犯罪者による作品なんて五万とある。では、黙って演奏することが駄目だったのか。それは確かに、著作権法上、少し問題かもしれない。ただ、そこだけクリアすればいい話だったのか? 被害者遺族の気持ちを考えると、配慮が必要? 確かにそれは一理ある。では、ほかの作品と同様、時限的には(たとえば被害者遺族のほとんどが死に絶えたあと、とか?)ジョシュの歌はいつか演奏されて然るべきことになるのだろうか?

そんな風に、非常にレアケースではあるが、表現倫理的な難問も投げかけているように見える。ラストシーンでは、サムが、最初に歌ったライブバーの舞台にまた一人で立ち、自分が今まで歌った楽曲は全て亡き息子の手によるもので、彼は何人もを殺害して死んだ、ということを全て打ち明けたうえで、彼の曲を弾き語る。ビリー・クラダップその人による弾き語りは本当に名演(なぜ向こうの俳優はみんな歌も楽器も上手いんだ!)なので、絶対にエンドロールまで見てほしい。世界中に憎まれた我が子がほとんど唯一遺した「生きた証」を歌う主人公の姿には、心をぐっと掴まれるはずだから。