『メッセージ』、『ボーダーライン』、『複製された男』、『プリズナーズ』、そして約35年ぶりの新作となった『ブレードランナー 2049』を手掛け、さらに今年はSF超大作の再映画化『DUNE/デューン 砂の惑星』の命運を託された、今もっとも注目すべき監督、ドゥニ・ヴィルヌーヴ。
彼が2009年に母国カナダ制作で手掛けた長編映画第3作の『声なき叫び』は、物静かな大学構内の風景から始まる。
女子学生2人がつまらなそうに、ノートのコピーをとっている。予備知識なしで見ると、それはとても平和で、平和すぎてつまらない、とりとめのない日常の光景だ。だからこそ、次の瞬間、耳をつんざく銃声とともに、その2人が血を流して倒れることで、鑑賞するぼくらは驚いてしまう。
冒頭のそのシーンはまぎれもなく、実際の銃乱射事件への当事者の驚きと恐怖を、観客に追体験させようとする試みだろう。本作は、1989年にカナダ・モントリオール理工科大学で実際に起きた銃撃事件を描いた作品だ。
この銃撃事件の何よりの特徴は、犯人の動機が女性嫌悪だったという点だ。
マキシム・ゴーデット演じる男(クレジットは殺人者)について、映画は深くは語らない。彼が、女性への並々ならぬ憎悪を燃やしていることだけが描かれる。そしてその憎しみは、「女性が社会進出することによって男の居場所が奪われた」というものだった。標的に理工科大学という実学系の大学を選んだのも、その思いがあったからだろう
もちろん、彼の女性嫌悪は逆恨み以上の何者でもない(恨むべきは彼を幼い頃に虐待していた実の父親だろう)。そして被害女性たちには何の非もない。
しかし、得てして憎悪は被害者の顔をしてやってくるものなのだ。たとえそれが被害妄想であったとしても。
印象的なのは、犯人が最初に占拠した教室のシーン。彼は手に持ったライフルで学生たちを脅しながら「男は右側、女は左側に寄れ」と、ヒロインのヴァレリーら女子学生と男子学生に選別し、教員を含む男たちをあっさり教室の外に逃がしてしまうのだ。あくまでも凶行の標的は女性のみで、男には用がない。ここで犯人の女性に対する憎しみの執拗さが感じられ、余計に不気味だ。
女性の観客には当然、銃弾に恐れおののくヴァレリーら女子学生たちという感情移入先が用意されている。一方、本作は男性の観客側にも「席」を与えているという意味で卓越している。それは、ジャンという平凡な一男子学生。彼はヴァレリーと同じ教室にいて、ちょうどテロの直前、ヴァレリーからノートを借りるという形で彼女と知り合っている。
しかし、その凶行のとき、ジャンは彼女に何もしてあげられないまま、教室を後にすることに。映画では教室の閉まる扉の隙間からヴァレリーとジャンの目が合う。
彼女を救えなかった。そのことでジャンは酷く病むことになる。男性の観客は、「彼女に対して何もしてあげられなかった」という無力感とやるせなさ、後ろめたさを追体験することになる。
もっとも、映画は、事件を“イカレタ殺人者”(犯人は独白で自身をそう評している)の“単独犯”だったようには描かない。共犯者こそいないが、犯人の背後には銃口こそ向けていない無数の男たちがいるーーそのことを映画は、ヴァレリーが事件の前に面接で受けたちょっとしたハラスメントを描くことを通して、序盤から目配せしている。
数年後のシーン。生き延びたヴァレリーは恋人との間に子どもを授かる。彼女の「男の子が生まれたなら愛を教え、女の子なら世界に羽ばたけと教えます」という、短くも切なる願いは、本作を通して伝えたいことが凝縮されている。