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85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

『花束みたいな恋をした』 あまり語られない「出自」の話

ノベライズ 花束みたいな恋をした

ノベライズ 花束みたいな恋をした

ノベライズ 花束みたいな恋をした

  • 作者:坂元 裕二
  • 発売日: 2021/01/04
  • メディア: 単行本
 

 菅田将暉有村架純がダブル主演し、坂元裕二が脚本を書いた映画『花束みたいに恋をした』。猛烈に「誰かとしゃべりたい欲」を掻き立てるこの作品において、案の定、ネット上にはもう無数の考察や感想がある。

個人的にも、開幕してすぐの「イヤホン」のくだりで早速「坂元裕二節~」とうならされたり、「共通の好きなものを通してを相手を知った気になる」ことへの危うさだったり、やっぱり資本主義はクソ! 時代は革命的連帯や! といったさまざまな切り口から語りたいのだけど、そういうのは他の人に任せて、ぼくは地方出身で上京してきた者の目線から本作の感想を語りたい。

 

<<以下ネタバレ全開>>

本作の脚本の出来栄えについて、「男女を逆にしても成り立つからすごい」という評を目にした。確かに言われてみたらそうなのだ。菅田演じる麦と、有村演じる絹は入れ替えが可能で、ジェンダーセンシティブであるがゆえに普遍的な物語となり、多くの人の琴線に触れているのかもしれない。

 

ただし、引っかかるのは、このストーリーは男女はともかく、麦と絹のステータスを逆にしてもなりたつのだろうか、ということ。具体的にいえば、それは生まれについてだ。

 

“無理解な親”のちがい

ここで思い出してもらいたいのは、絹と麦が同棲を開始した部屋に、2人の親がやってくるというパートだ。岩松了戸田恵子、そして小林薫のベテラン3人が存分の存在感をはっきして、唯一といっていいほど、菅田と有村が受けの芝居に回る場面だ。

コッテコテの代理店レトリックで娘たちを丸め込もうとする戸田と、世界一ミーハーな「ワンオク」「五輪」の使い方をする岩松、そして長岡の花火大会のことしか頭にない小林と、3人にはゲラゲラ笑ってしまった。

 

ただ一点、この場面は「無理解な親たちから自分たちのユートピアを守るために悪戦苦闘する2人」が描かれ、麦の父親、絹の両親も同等に「無理解な親」として受け止められているフシがある。

しかし、実は麦と絹の親には少し差異がある。

東京で、メディアを介する華やかな仕事につく絹の両親と、朴訥とした麦の親。「文化資本」の観点からいえば、両者には明確な違いがあるようにしか見えない。そしてそれは、麦と絹のバックボーンに反映されている。

劇中でも明かされず、パンフレットをざっと読み通しても書いていないので、これはあくまで推測なのだが、おそらく絹は東京出身者で、麦は地方(おそらく新潟)出身者だ

そして、調布市飛田給に戸建ての実家がある絹にとって「東京(とそこに広がる文化)」とは、「生まれたときからそこにあったもの」であるのに対して、麦にとってのそれはおそらく「上京して手に入れたもの」だったのだ。

 

同棲後、麦はイラストレーターとしての道に行き詰まり、就職活動を開始。苦労した末にゴリゴリの物流ベンチャーに就職する。そこで仕事に忙殺され、以前のようにカルチャーに頭の容量を割くことができなくなっていき、絹との間に次第に心の距離が生まれていく。

この映画を一度観た者ならば、コリドー街で麦からの電話を受けた絹から携帯電話をひったくってでも、彼に「おい麦! その会社だけは辞退しとけ!」と待ったをかけたくなる場面だ。

 

戻る場所が「東京」の人 そうでない人 

けれど、この場面にも絹と麦の「生まれ」の違いが浮き彫りになったように思える。

資格をとって始めた事務職だが、知り合いに誘われた、楽しそうな、でも給料は今より少し下がるイベント会社にあっさり転職した絹。一方で麦くんにはもう後がなかったのだ。

東京出身者の絹にとっては、もし「今」が立ち行かなくなっても、そして、どんなに嫌がったとしても両親に連れ戻されるとしたら、そこもまた「東京」だ。

一方、麦に「東京」に戻る場所はない。仕送りを止められた今、生活が立ち行かなくなったとき、彼は「東京にいてもいい」という根拠を喪ってしまう。だからこそ、決して要領が悪くないはずの麦であればあの会社のヤバさはわかりそうなものを、(ここからは推測だが)目をつぶって飛び込んだのではないだろうか。

「就職」に対して、麦と絹の間に性差による考え方のちがいはなかったといえよう。そうではなく、2人の考えのちがいは、東京生まれかそうでないか、それによって生まれたのではないか。

 

麦がストリュー“掲載”に歓喜した理由

ここからは少し蛇足だが、麦がGoogleストリートビューに自分が写っていることに、異常なまでに執着している意味も勘ぐってみたくなる。

麦のかわいらしいミーハー心がさく裂するくだりだが、実はここにも、非東京出身者の悲しい性があったのではないか、と思う。麦くんにとっては「ストビューに写る」ということそれ自体が重要なのではなく、あくまでも「東京のストビュー」だったことが彼を熱くしたのではないか。

ストビューに自分が載るのは手っ取り早く、自分が「東京にいる」ということの永遠の証明だ(ストビューは人口密集地対では数年に一度撮り直すそうだが、過去の写真も閲覧可能だ)。

ぼくだって、地方から関東の大学に進学し、学内に掲示していた自分の作品が偶然ストビューに載っていたのを目撃したときは歓喜し、こうしてスクショを撮ってしまっている。これは地方出身者の悲しい性なのかもしれない。

 

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今回見返してみてまだあった! 母校に掲示していた巨大漫画

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しかも同時に2作も! こちらは巨大スクール水着のポスター


映画のクライマックス。麦くんは人生2度目のストビュー掲載を知ることになる。もしかしたらあの後、麦くんは下心なしで一度、絹さんに連絡しているかもしれない。「俺たち載ってたよ(笑)」と。そこで東京出身の別れた元カノ、絹がどういう返事をするか、ぼくは怖くて想像したくない。

 

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なお、本作については下記ネットラジオでも一度語っているので、相当時間に暇がある人だけ聴いてみてほしい。

今回書いた地方出身の話については、ここまで書いておいてなんだが、相棒のパーソナリティの話の影響を多分に受けている気がする。