人の葬式で笑ってしまうことでお馴染み、終身名誉クズ人間こと漫画家の蛭子能収が、「ひとりぼっち」についてつづったエッセイ集。
全編、蛭子さんが頭をかきながら困ったような笑顔をしゃべっているいつもの感じが目に浮かぶようだった。
クズ人間とは書いたが、言っていることはぼくもほぼ同意してしまうから困ってしまう。やはりぼくもクズ人間なのだろう。
蛭子さんは人と群れるよりは独りでいるのが好きで、自分の自由が大切だからこそ、他人にも寛容でいたいという。まったくもって、ぼくもそのとおりなのである。
アマゾンレビューをのぞいてみても、好意的な声が並び、共感している人が多かった。
ただし、本書を単なる「生き方本」みたいに捉えるのはちょっと違う。
蛭子さんの考え方は、地方のしがらみから逃れてきた都市生活者にとって、むしろ当たり前だったんじゃないだろうか。
事実、蛭子さんはこう書いている。
正直に言うと、僕が長崎から東京に出てきたのは、漫画家になるためではありませんでした。当時働いていた看板屋の仕事から、どうしても抜け出したかったんです。
仕事は多少きつかったけれど、社長もよくしてくれたし、同僚にも恵まれていました。でも、このままずっとそこにいたら、どんどん自分の自由が奪われていくように感じたんですよ。その場所から抜け出して、とにかくもっと自由になりたかった。
p-118
自分の意思で東京に出てきた人の中には、蛭子さんと同じような気持ちだった人が少なくないと思う。そもそも「ひとりぼっち」=自由になりたいから都会にやってきたのである。
時が経ち過ぎてなのか、当たり前過ぎてなのか、そこんところはわからないけれど、そのことが忘れられている。
それが今になって、つながりが希薄だなんだと焦り始める。ぼくからすれば、「何を言ってんだ」である。
「都会ではお隣さんの名前すら知らない」って言うけれど、ではお隣さんのゴシップまで聞こえてきた地元が良かったのか? 極端な言い方をすれば、「孤独に死にたい」がために、あなたは都会にやって来たのではなかったか?
蛭子さんの本は、そんな忘れられがちな地方生まれの都市生活者の初期衝動を代弁してくれている。
ただ一点だけ、文句をつけたいことがある。
人の葬式では笑ってしまうのに、急死した前妻が大好きで、葬式で涙が止まらなくなっちゃったなんて書かれたら、クズ人間だなんて言えなくなっちゃうよ。そこだけはズルすぎる。