家から駅に行く道すがら、246の反対車線に懐かしい“もの”を見かけてしまい、思わず声をあげ、ついでにスマホで写真まで撮ってしまった。
それはある引っ越し業者のトラックである。○○引っ越し社―――その名前をつぶやいただけで、ぼくの脳裏にあの凄惨な、おぞましい、“事故”の記憶がありありと蘇る。名前こそ伏せるが、ぼくはこの○○引っ越し業者を利用して散々な目にあったことがあるのだ。
Chapter1:「引っ越し費用6万円」という悪魔のささやき
ときは2015年。当時付き合っていた彼女が大学を卒業し、就職を機に都内へと引っ越すことになった。とっくの昔に卒業し、大学付近に住む意味を完全に失っていたぼくだが、同じタイミングで引っ越して同棲することになった。
引っ越しにはお金がかかるもの。敷金・礼金、さらに家具を新調するなど次々資金が飛んでいく。なので引っ越し費用はなるべく抑えたい。そういう腹づもりでネットで探すうち、彼女が約6万円でやってくれる業者を見つけてきてくれた。
これが何を隠そう、冒頭の業者になるわけだ。横浜→東京というルート、単身者1ルームの引っ越しを6万円という価格帯ですべてやってくれるという業者はほかにない。ぼくは喜んでその業者に飛びついたわけだが、全てを知っている今のぼくなら、当時のぼくを羽交い締めにしてでも止めていたことだろう。
Chapter2:誰もやってこない見積もり ストビューを送付するだけで楽チン★
引っ越し費用が格安なのはすぐに分かった。人件費をゴリゴリ削っているのだ。通常、引っ越しを申し込むと、営業担当者が家にやってきて見積もりを出してくれるのだが、その業者は当日まで一度も来なかった。誰一人。その代わりに、電話で自宅周辺のストリートビューを送ってほしいと指示をされた。
ストビューで自宅を検索し、メールで送ってハイ終わり。こんなに簡便に事が進むことも早々ない。今にして思えば、このあたりでもう怪しいと勘付き、引き返しておくべきだったのだが。
Chapter3:約束の時間にも誰もやってこない
そして引っ越し当日。段ボールに荷物を詰め、外にまで出して、準備は万端。手伝いにきてくれた彼女と家で待ち構えていると、早速問題が発生する。来ないのだ。約束の時間になっても引っ越し業者が来ない。正確な時間は忘れたが、たぶん約束は14時ぐらいだった。しかしその時間になっても、待てど暮らせ業者はやってこない。遅れるという連絡もないものだから、お腹が空いたぼくと彼女は、引っ越しする部屋を放り出して近所のガストにいって昼食を取ることにした。この時点では、「これが6万のクオリティか。ちゃんと安いだけの対応をしてくるな」と、妙に感心したことを覚えている。
ガストで山盛りポテトフライをつまんでいるところで、ようやく先方から折り返しの連絡がきた。電話をとった彼女が、「え? そんなことってあるんですか…。わかりました」と、驚きと困惑の表情で電話を切る。業者からは、その日、午前に本牧の方でその日1件目の引っ越しを終えたところ、渋滞に捕まり身動きがとれなくなり、おそらくこちらに着くのは18時ぐらいになる、と言われたんだそうだ。
14時と約束して18時。そろそろ6万円のやばさをしっかり自覚していたぼくだが、もうここまで来たなら彼らを待つしかない。なぜなら、その部屋はその日の23時59分までに完全に出なければならない。不動産業社とはそういう約束なのだ。もう、このポンコツの引っ越し業者に頼むほかない。彼らが頼みの綱なのだ。
Chapter4:たった2人の引っ越しスタッフ。しかもそのうち1人が減る
3月末、横浜の18時台はもうかなり暗くなっている。そろそろ焦り始めていたとき、ようやく業者がやってきた。4時間の遅刻で、本来なら怒ってもいいぐらいなのだろうが、そのときのぼくのむしろ感謝していた。その頃にはもう誰も来ないのではないかとすら思い始めていたからだ。なんなら、ここまでやってきてくれただけでホッとした。なにせ、この引っ越し業者の“中の人”と会うのはこの日が最初である。実態のない架空の業者であってもおかしくなかったのだ。
しかし、来てくれたはいいものの、すぐに不穏なことに気づく。スタッフが少なすぎるのだ。大人しそうなおじさんのトラック運転手と、もう1人、髪を明るく染めたハツラツとした若者、少し成宮寛貴に似ている。そんな男性2人組。ここでも、6万円という安さのやばさを痛感するとともに、後悔の念がじわじわと押し寄せてくる。
基本的に、作業についての話は成宮くんがしてくれたのだが、しばらくして次なる異変に気づく。最初の方こそ荷物を運び出してくれていたおじさんスタッフがいなくなり、いつの間にか運び出しているのは成宮くん1人だけになっていたのだ。
話を聞くと、ぼくの住んでいたアパートの立地の問題らしい。そのアパートは向かいに交番があり、あたりに駐車場はない。トラックは必然的にその目の前の国道脇に駐車することになる。それしか方法がないのだ。そのため、運転手のおじさんが路駐の罰金が怖いと言い出してトラックから出ることを拒否し始めた、というのだ。ここでも、ストビューだけで済ませた雑な見積もりがしっかり爪痕を残す。見事な伏線回収だ。
ただでさえ少なかった2人のスタッフが、ついに実質1人になってしまった。こんな絶望的な状況ってある?
驚いたのは、1人になった成宮くんが、誰に助けを求めるでもなく、1人で冷蔵庫も洗濯機も運び始めたことである。これほど「重」の字が似合う重労働も中々ない。青筋を立て、鬼のような形相をし、冷蔵庫を背負って玄関を出ていった成宮くんの姿は、今でも忘れられない。気の毒すぎてもう少しで危うく「絶対転職したほうがいいですよ」と声をかけるところだった。
Chapter5:半ギレのスタッフ
当然、そんな状況だから、成宮くんの機嫌はみるみる悪くなっていく。怒りの矛先はいくつもあるだろう。無茶な人員で仕事を振ってくる会社、トラックから籠城を決め込んだ同僚、そして、非人道的な安さに引かれてそういう仕事を生み出す消費者のぼく。全員が悪い。
最後の方ではついに成宮くんが半ギレになり、ついにぼくに「ちょっと手伝ってもらいます?(怒)」と凄んできたのだ。ぼくはぼくで言い返すこともなく、「はいっ!」と二つ返事でこたつテーブルの解体を手伝う。もはや、現場を取り仕切っているのは彼なのだ。
6万円はそうした雑務も含めた値段だったはずなのだが、もうこのときはそんなことを言っていられる状況ではなかった。どちらがサービスの受益者で、どちらがサービスの提供者か、そんな関係性は、この部屋を23時59分までに出払わなければならないという絶望的な状況下の中で、とっくの昔に吹き飛んでいた。元はと言えば、お前らが4時間もの大遅刻をかましたからだろ、という言い分も脳裏をよぎったが、誰のせいかといいう責任の所在などこの際どうでもいい。とにかく、23時59分までに、まだ物がうず高く積み上げられたこの部屋は、すっからかんにならなければならないのだ。
全てが嵐のように過ぎさった22時ごろ、トラックが引っ越し先に向けて走り去っていった。
ぼくは、残って半分泣きながら、部屋を雑巾がけし、ゴミを集積場所まで運ぶ。何度も何度も。
続いて、部屋のオーナーが管理を委託している横浜駅近くにある不動産屋にまでタクシーで急行し、鍵の返却へ。こんな時間に誰もいるわけないだろ、と半ば諦めの気持ちで店のドアノブを回すと、なんとドアは開いた。さらに、店の中には、まるで昼間の営業時間のように、多くの社員たちが涼しい顔をしてまだ働いていた。その不動産業者の闇については深く詮索することもせず、急いで終電間際の東横線に乗り込み、0時頃、やっと新しい我が家に着いたのだった。
とまあ、こんな具合で散々な目にあったのが冒頭で見かけたトラックの引っ越し業者なのだ。あんなオペレーションで続くはずないだろ、とぼくの中では勝手に終わった会社になっていた。だから、まだ企業として存続していることに驚いたのだ。
その悲劇の引っ越しの前日か前々日、実は恋人の部屋の引っ越しにも立ち会っていた。それは動物のマークが目印の例の大手業者の仕事で、1ルームに何人ものスタッフがやってきて、梱包から何から全てやってくれていた。手際も華麗で、それはそれは見事な仕事だった。
この経験から学んだのは、「費用が人件費にダイレクトに直結するサービスに対しては出し渋りせずに対価を払おう(でないと、仕事の質にダイレクトに直結する)」ということである。
そうした学びもあって、散々であり、惨めであり、悲しくも切なくもある経験をさせてくれた件の引っ越し業者には今は感謝をしている。もう2度と依頼しないが。ぼくの洗濯機を青筋を立てながら背負ってくれた成宮くん似の青年。彼はいま、どこで何をしているのだろう。