いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「書くぼく」と「読むぼく」 この困難な同居


文章を書くコツとして「読み手の気持ちになって書きなさい」というのはよく言われることだ。
「書き手が書きたいこと」と「読み手が読みたいこと」は、得てして重ならないものだ。例外として、一部の大天才が「書きたいこと」を書いて、読み手をまったく知らない世界に引き込んでしまうこともある。
けれど、基本的には文章は読み手があってこそなのだから、「読み手が読みたいこと」に書き手の方が擦り寄っていく必要がある。そうなったときに、「読み手の気持ちになって書きなさい」ということになる。


だから、書き手は書きながらアクロバティックな行動を強いられる。書きながら読み手に「変装」するのだ。書くことはすなわち読むこと(書きながら読まないとそもそも書くこと自体できない)ではあるけれど、書き手にとって書いた文章は子どものようなものだが、それに読み手という他人として振る舞わなければならない。

ぼくはそういう意味で「読み手の気持ちになって書きなさい」を理解していたし、それが自分でもできていると思い込んでいた。な、の、だ、が。


最近、ありがたいことに、いろんな人に文章を読んでもらい、添削してもらう機会が増えた。そうした機会を経験するにつれ、「書くぼく」の「読むぼく」への「変装」が、もうどうしようもなくド下手であることに気づいた。

ド下手の原因は、また文章への愛着も全然抜け切れていないことにつきる。それは喩えるなら、はじめてのおつかいにいったわが子(文章)が心配で、他人(読み手)のフリをして尾行するが、親(書き手)としての愛着を封印できていないから、わが子のピンチのたびについついアシストしてしまう、みたいなもんだ。

同じように、「書くぼく」が装う「読むぼく」は、まったくもって文章への愛着が抜け切れていない。書き手の文章への愛着というのは中々厄介なもので。書き手にとっては丹精をこめた箇所であっても、読み手にとっては全然どうでもよかったりする。この両者間の絶望たるギャップの原因こそ、文章への愛着にほかならない。

「書くぼく」から「読むぼく」への変装は、まさにその愛着そのものを脱臭しなければ成し遂げられない作業だが、ぼくはそれが全然できていなかった。


おそらく、「書くぼく」にとってもっとも有益な読み手は、「アホな読者」であったり「書き手と敵対する読者」であったりすると思われる。そのような読者を相手にしてこそ書き手の腕は試される。

たとえはじめてのおつかいにでた実の子が、町中でけつまずいて転んでも、動じずに遠くから観察できる親。本当にいたらギョッとするけれど、文章に関してはことにそれぐらいがちょうどいい。