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85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】吉本隆明という「共同幻想」/呉智英

吉本隆明という「共同幻想」

吉本隆明という「共同幻想」

ものを知らないのは恥ずかしいが、もっと恥ずかしいのは知らないことを知ったかぶりし、それがバレることだ。
この話題で思い出すのが放送作家高須光聖氏の話だ。関西出身の彼が東京に上京したてのころ、知り合いのプロデューサーに「高須くん、今日はシータク?」と訊かれた。「シータク」とはいわゆる業界用語でタクシーを指すが、そのあまりにも自然な感じの問いかけに「シータクって何ですか?」とは訊けず、高須氏は瞬間的に知恵を振り絞り「というか、どうなんでしょう?」と答えたのだそうだ。
笑い話ではあるが、当時の高須氏の立場を想像すると顔から火が出そうになる話である。


本書『吉本隆明という「共同幻想」』も、知ったかぶりについての一冊と言えるかもしれない。著者の呉智英氏は学生時代、先輩からマウンティングされたくないという思いから吉本の著作を頑張って読んではみたが、周囲の絶賛に反して、何が言いたいのかがずっとわからずにいたという。
本書はそうした著者が、「戦後最大の思想家」と謳われ、とくに1960〜70年代のインテリ青年の間で絶大な影響力をもった吉本の主著を読解し、その「幻想」を解体していくという内容だ。


特に重要なことは、第一章の「評論という行為」と第三章の「『大衆の原像』論」に集約されていると思う。
著者は、最初期の「マチウ書試論」から一貫している吉本の文章の読みにくさ、構成のいびつさ、それとキリスト教の「マタイ伝」をわざわざ「マチウ書」とするような謎の言い換えの特徴をあげ、吉本の著作が異常に読みにくくなっていることを指摘する。その上で、読解してみるとありふれたことしか言っていない、とも。
けれど、そうした吉本の読みにくい著書が「難解という値打ち」をもってしまい、戦後の左翼的なインテリ青年たちを「よくわからんが、とにかくすごい」「よくわからんところだが、なんといってもすごい」と魅了していったのでは、と推測する。本書自体が指摘するが、まさにこれは、後に起きる「ソーカル事件」と同じ系統の問題といえる。

吉本のキータームの一つである「大衆の原像」については、著者はそもそも吉本の褒めそやす「大衆」の定義が曖昧だと指摘する。それだけなら、言論界隈ではよくあることだが、ぼくが面白いと思ったのは、吉本による大衆の扱い方。吉本にとって大衆は不可侵な存在で、知識人による彼らの啓蒙を「侵襲」であると断罪している、というところだ。知識に毒されることなく、大衆は大衆としてあり続けねばならないとして、彼らを"擁護"するのだという。この言説をいびつだと感じるのは、ぼくだけだろうか?


周知のように吉本は2012年の3月に亡くなった。
読んでいて思ったのは、「吉本さんは生まれた時代がよかったのだなぁ」ということ。たらればは不毛ではあるが、もっと遅く吉本隆明が生まれていたら、ここまでの影響力は持ち得なかったのではないだろうか。
そう思う理由の一つには、「読みにくい」ということそれ自体が価値を持ち得なくなったということがある。読解が困難な文章でも、書かれたからには何か重要な意味があるのではと好意的に解釈して読み進めてもらえるのは、書いて表現することがそれだけ特権的な時代だったからだろう。いまは、読みにくいならばただ単に読まれなくなっていく時代なのだ。
そしてもう一つ、おそらく今の時代に生まれ、TwitterFacebookにでも手を出していようものなら、おそらく吉本さんももっとその言説にツッコミを入れられていただろう(この問題は、A浩紀だとかそのあたりの「Twitterがない時代に生まれたらもっと持ち上げられていただろうに……」という人の問題と表裏にあるが……)。


もちろん、本書の解説はあくまでも呉氏による「吉本像」だ。ぼく自身、恥ずかしながら吉本の著書は『共同幻想論』しか読んだことがなく、これを機に吉本の著作を手に触れてみたくは……ならなかったのだが、呉氏からの伝聞のみで「吉本像」を構築するのは危うい。気は進まないが、いつか手にとってみるのではないかな、たぶん。