『アンカット・ダイヤモンド』のサフディ兄弟の兄・ジョシュ・サフディ単独監督作『マーティ・シュプリーム 世界をつかめ』。
実在の卓球選手、マーティ・マウザーをティモシー・シャラメが演じている。マーティは言うならばクズ。自分勝手で目的のためには軽く犯罪(といっても形的には強盗!)に手を染めてでも達成してやろうとする。その上、うそつきで女にもだらしない(どうやら避妊しないらしい)。
一方で、卓球に対してだけはやたら真摯(し)である。劇中では、やや揶揄ぎみに卓球を「ピンポン」と呼ばれる瞬間があり、そう呼ばれるたびに、マーティは律儀に「テーブルテニス」と訂正する。クソ野郎だけど卓球に人生をかける。マーティはいわば「魂のクソ野郎」である。
そんな魂のクソ野郎が躍動する本作。見ている途中から私は「ああ、たぶんこれ、俺が好きな映画だ」という予感がしており、実際に終わってみたら魂を撃ち抜かれてしまった。特に、日本人選手エンドウ(卓球のデフ選手・川口巧人が演じている。素晴らしい存在感!)とのラストバウトは、こんなにあっちこっちへと迂回する不思議な映画なのに、最終的には超どストレートな勝ち負けで感動するなんて! と驚かされた。以下、完全ネタバレで語りたい。
本作が私の心を掴んだのは、とてもわかりやすい理由だ。井筒和幸監督による1999年の映画『のど自慢』、あるいは、朝井リョウ原作の三浦大輔監督の2016年の映画『何者』にも通じるが、名作の一つの形のようなものがある。それは、「主人公に外的な変化はほとんどないが、内的には劇的な変化がある」というたぐいのストーリーである。
『のど自慢』で室井滋が演じるヒロイン、売れない演歌歌手・麗子も、『何者』で佐藤健が演じる内定がもらえない就活生・拓人も、物語の結末で大きな成功を手にするわけではない。
本作のマーティもそうだ。命の危険をかいくぐり、プライドをズタズタにされながら、彼が何とかたどり着いたライバル・エンドウが待つ、“約束の地”日本でのリベンジマッチ。しかし、その試合は単なるエキシビジョンマッチ、言い方を変えれば余興である。マーティは辛くもエンドウに勝利するが、勝ったからって何か得られるわけではない(むしろ失ったものの方が多い)。見届けた日本の観客たちも自国の選手が負けたことに少し残念がるがそれまで。ただそんな喧騒の中で、ただ一人、マーティだけはその場に大の字に倒れこんでその勝利を噛み締める。
『のど自慢』『何者』そして『マーティ・シュプリーム』、もしかしてシルベスタ・スタローンの『ロッキー』も該当するかもしれない。これらの作品では主人公が、第三者には分からない、「内的な勝利」を経験する。そしてそれが観客を感動されるのは、そこにいたるまでの彼らの内的な物語が、プロセスが、私たちの心を掴んでいるからだ。
マーティは卓球に人生をかけている。卓球しかないのである。そして、その卓球で敗れた相手エンドウ。その相手に二度も敗れる(しかも二度目は強き者に屈した“負けたフリ”である!)なんて、彼のプライドが許せなかった。彼には卓球しかないのだ。そのことを我々観客はあっちこっちに飛び火する映画の中で散々見てきている。だからこそ、ラストの「単なるエキシビションの勝利」がマーティにとっては「単なるエキシビション勝利」ではない、それは「彼だけの(観客だけが理解できる)栄光」であると強く思わされる。
帰国したマーティがまるで人が変わったように我が子の姿に涙するのは、おそらく「絶対に失いたくないもの」を守れたからだろう。卓球の世界一になったわけでも、巨万の富を得たわけでもない。「彼だけが知る内的な栄光」を守れたことが、彼にとって何よりも大切なことだったのだ。
