いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

平穏でとりとめのない、でもかけがえのないアイツとの日々。『パドルトン』が描く“親友”のオルタナティブ

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今日はネットフリックス映画『パドルトン』を紹介したい。

www.netflix.com

冒頭の医師との会話なども含め、アレクサンダー・ペインの映画のような、全編ちぐはぐな会話が笑えるコメディーなのだけど、観終わったら胸がいっぱいになるような、不思議な映画だ。

 

主人公はマイケル、アンディーという2人のみすぼらしい独身おじさん。2人が知り合ったのは、偶然にすぎない。アンディーが住んでいるアパートの真下にマイケルが引っ越したてきたのだ。

しかし、よほど気が合ったのだろう。2人は休日になると寂れたドライブイン・シアター跡地の壁に向かって「パドルトン」というスカッシュにような謎の球技(これについては深く調べないで映画を観たほうがよい)で汗を流したり、マイケルの部屋に集まってピザを片手に(たぶん)くだらないB級カンフー映画『殺人拳』を鑑賞したりする。夜になると、アンディーは冷え切ったピザをもらって自室に帰っていく。それの繰り返しだ。

何か刺激的で新しいことが起きるでもない。日常のとりとめのない出来事を共有し、あーでもないこーでもないと語り合う日々。でも、その平凡な毎日が楽しいんだよな。分かるよ。

 

しかし、あるときマイケルに転機が訪れる。末期がんで余命が半年であることが分かるのだ。

余命半年を切った者には、安楽死するためのピルが買える権利があるという。マイケルは、そのピルが買える街まで一緒に来てほしい、とアンディーに頼む。

思いの外さっぱりした様子のマイケルに比べて、静かに、でも確実に動揺しているアンディー。ことあるごとに、マイケルをピルから遠ざけようとする。直接言葉にはしないけれど、その気持ちが痛いほど伝わってくるアンディーの姿に、たまらなく切なくなってくる。

 

観ていると、2人の関係性がうらやましくなってくる。2人はときに大の親友のように、恋人のように、夫婦のように、じゃれ合い、喧嘩する。途中で立ち寄った場所でゲイ・カップルと勘違いされて、「いや、そういうんじゃないんです…。別にゲイの人を差別しているんじゃないんですけど、僕たちは違うくて…」と否定するバツの悪い感じも、どこかほころんでしまう。

 

マイケルとアンディーを簡単に「親友」だとか「ブラザーフット」と呼んでしまうと、どこかちがう気もする。

 

マイケルとアンディーの関係は、 

チング 永遠の絆

 

こういうのや、

 

Brotherhood

こういうのでもない。

ましてや、大勢でジャンプ漫画の真似事をして後ろ姿で片腕を突き上げたり、砂浜で一斉にジャンプしたりした瞬間を写真に収め、それをSNSのヘッダーにするような華やかなものでもない。 

マイケルとアンディーの、あくまでも平熱で穏やかな関係性は、それらの熱苦しい部類のそれとは少し違う、親友という在り方のオルタナティブを提示してくれる。 

 

2人の着ている服はダサいし、お金もそんなにはなさそう。仕事もまあ、楽しくはなさそう。劇中を見る限り、申し訳ないがどうやら異性にもモテてはいないようだ。

でも、本当はそれらのことはどうでもいいのかもしれない。人生に大切なものなんて実はそんなに多くはなくて、この2人はまさにそれを手にしたのだ。この関係性そのものを。

 

ぼくの人生に親友がいたことはない。作らないと固く決めたわけではない。フツーに人望がなかったのだろう。

彼らを観ていると、親友もいいもんだなと思う。

でも、1人好きのぼくはきっといつか親友さえも疎ましくなってくるのだろうな。相手が親友なのに最低なヤツだ。だから、こうした映画を観て親友欲を満たせればそれでいいのかもしれない。