先週、『プロデューサーズ』という映画を観た。
- 出版社/メーカー: ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
- 発売日: 2010/04/16
- メディア: Blu-ray
- 購入: 1人
- この商品を含むブログ (7件) を見る
すでに公開から10年近くたっているし、展開を知ったとしても十分に楽しめると思うのであらすじを書く。
鳴かず飛ばずになってしまったかつての売れっ子ブロードウェイプロデューサーが、プロデューサーを夢見る会計士と組み、最低最悪のミュージカルを作ってわざと早期の上演中止にもちこみ、残った製作費をネコババしてトンずらしようと企むのである(早く終われば製作費が浮くというのは、映画と違って上演回ごとにギャラが支払われる舞台ならではの理由?)。
集められたのは、最低の台本に、最悪の演出家。
そしてとうとう上演初日が訪れた。台本に選ばれたのは、もしもナチス・ドイツが戦争に勝っていたらという可能世界を描く「ヒトラーの春」。幕が開き、ナチスとヒットラーを賛美する内容に観客は顔をしかめ、早々に退席している人たち。ここまではプロデューサーたちの狙いどおりだった。
しかし、主人公のヒトラーが出てきた途端、観客が笑い出した。ヒトラー役は当初、台本の作者であり狂信的なネオナチ男がやる予定だったのだが、上演の直前に足を骨折。かわりにゲイの演出家が演じていたのだ。
内股で腰をくねらせ、どうみてもゲイにしか見えない総統の演技に場内は爆笑に包まれた。プロデューサーたちが最低最悪の作品を目論んだ「ヒトラーの春」は、あろうことか大ヒットしてしてしまうのである。
そのあとの展開はこの文章にあまり関係ないので省く。興味を持った人はぜひツタヤにでもいって借りてみてほしい。
さて、そんな本作だが、この劇中劇で観客が笑い出したのは、当たり前のことながらヒトラーがゲイっぽかったからである。
先に書いた通りこれは製作者側がわざとやったわけではなく、彼らにとっては「不運」にもそうなってしまったわけで、結果として観客に大ひんしゅくを買うどころか、大喝采を浴びてしまった。
この「ヒトラーの春」という(思想的に)最低最悪のミュージカルは、最後の最後でヒトラーのキャラクターにひねりが加わったことで、観る者の絶妙な「皮肉」として受け取られることになったわけだ。
実在のヒトラーは優生学を信望し、劣等であるとしてユダヤ人とともに同性愛者をも虐殺したと記録に残っている。
そんなヒトラーをゲイのように演じる。これ以上に彼を笑い者にできる皮肉があるだろうか。
皮肉が皮肉として受け取られるには何が大切かというと、それはまじめにやることだ。まじめにやった表層に、その表層とは全く反対のメッセージを加えられたことで起きる「分裂」(皮肉は英語でアイロニーだが、アイロニーとは「分裂」をも意味する)こそが、皮肉を皮肉たらしめる。
真面目なナチスとヒットラーへの賛美が続き、そして、出てきた全く男らしくないヒトラーの熱演があったらからこそ、その皮肉のおかしみは増幅したのである。
皮肉の扱いは難しい。
劇中ではまちがって皮肉を生んでしまうことになるが、そんな風に言葉通りの言葉が期せずして皮肉と受け取られることもあれば、反対に意図した皮肉が皮肉として受け取られなかったりすることもある。それに、前提として言外の知識が必要となる場合もある。『プロデューサーズ』でいえば、ヒトラーが優生学支持者であることは、必要不可欠な知識だ。
どちらにせよ、皮肉は送り手の側にとっても、受け手の側にとっても、取扱注意な物件なのである。
振り返ってみて、今のネット文化はどうだろう。皮肉のかわりにあふれているのは、(笑)やwwwといった符牒である。これらの符牒は、ネット上での「コミュニケーションの効率化」を考えるうえで、なくてはならないものだ。
ネット上では「表現の民主化」が起きていて、誰もが不特定多数の人に何かを文字をとおして伝えられるようになった。しかし皮肉に関して言えば、それは誰もが自由自在にあつかえるものでないし、誰もがそれをそれとして受け取れるわけでもない。
ネットの世界に流通している(笑)やwwwは、誰もが扱えるようにした「皮肉の加工品」といえるのかもしれない。
ところで、ネット文化が「コミュニケーションの効率化」を考えたうえで皮肉のかわりに(笑)やwwwを取り入れたのに対して、文芸の世界では未だにこれらの符牒が使われることはまれだ。
ウェブ上の文言という設定で出てきたり、変化球的な使い方でまれに出てくることもあるだろうが、大半の小説ではいまだにこれらの符牒を使うことは一般的ではない。
これがどうしてかというと、それらが文芸っぽくないというしごく当然な理由に行きつくわけだけれども、もうすこし突き詰めて考えてみたい。
なぜ(笑)やwwwは文芸において使われにくいか。
先に「コミュニケーションの効率化」と書いたが、おそらくこれらの符牒は文芸にとって「効率がよすぎる」からではないだろうか。
ここでいっちょまえに文学論を披露する気はないのだが、文芸の醍醐味というのは、「好き」という気持ちを「好き」という言葉を使わずに、「怒り」の気持ちを「怒り」という言葉を使わずに表現することだと思うのだ。
それに対してこれらの符牒を使うというのは、そうした文芸の醍醐味の試みに逆行することだと思うのである。
そんなまどろっこしいことの何が面白いのか?
好きなら好きと言ってしまえばいいし、怒っているなら怒っているといえばいい。そういう意見があるのもよくわかる。
ただ一点いえるのは、そういう人がいたとすれば、ぼくにはその人がなぜ小説を楽しめないのかがよくわかってしまうということである。