いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

すべては元帥様のために! 全体主義国家の“検閲”を隠し撮りした異色作『太陽の下で -真実の北朝鮮-』

 

独断と偏見で言えば、優れたドキュメンタリーは必然、「ドキュメンタリーについてのドキュメンタリー」になっていると思う。昨年衝撃を受けた『さよならテレビ』もそうだった。 

ドキュメンタリーというジャンルには、ジャンルが成立したその瞬間から「いかがわしさ」という宿命が影のようにつきまとう。だからこそ、優れた、というより、誠実なドキュメンタリーはその「いかがわしさ」自体と対峙し、「ドキュメンタリーについてのドキュメンタリー」にもなっているわけだ。

 

本作『太陽の下で -真実の北朝鮮-』も、そのことが言えるのではないかと感じる。本作はロシアの映画監督ヴィタリー・マンスキーさんが、北朝鮮当局の共同制作で1年の期間をかけて、8歳(撮影時)少女リ・ジンミちゃんと、その家族に密着しようとした一作。

 

「しようとした」と書いたのは、マンスキーさんの目論見どおりには事が進まなかったからだ。密着対象として選ばれたジンミちゃんとその家族そのものが、北朝鮮当局からの多大なる演出(検閲)を受けていることを察知したマンスキーさん。撮影途中で制作方針を転換し、撮影前後に密かにカメラの録画スイッチを入れたまま放置し、北朝鮮側による演出の場面をまるごと映し続け、それをそのまま「映画」として完成させた。つまり、「ねつ造されそうになったので、ねつ造しているところまで撮ってみました」という異色の制作過程を持つ作品だ。

 

「演出」は、何もジンミちゃん一家が全体主義国家に対して反逆的な態度をとっていたからなされているわけではない。むしろ、ジンミちゃん一家は体制に従順なほうで、撮影者側からの指示に一切逆らわない。 

にも関わらず、「演出」はなにげない日常まで事細かに張り巡らされる。一家の何の変哲もない朝食シーンでも、一言一句、その場の「演出家」か「ディレクター」に指示を出し、さらに何が気に入らないのか座る位置をも代えながら、何テイクも撮り直しを命じる。「さっきのテイクとどこが違うんだw」と笑えてしまうほどささいな語句の違いも、逐一撮り直しさせている。生真面目に台本を読み込むジンミちゃんの両親が健気だ。

 

しかし、彼らがいくら熱心にテイクを重ねて事実を脚色しようと努めても、その努力はその意図のまま届かないことが確定している。なぜならぼくら観客がその撮影過程までをも観てしまっているからだ。「本編にしてメイキング」そして「メイキングにして本編」、それがこの作品の特異性だ。

 

演出=ねつ造は、ジンミちゃんたちの発する言葉尻だけではない。ジンミちゃんの両親は、職業というステータスまで撮影のためにねつ造されてしまう始末だ。本当の職業は記者だというジンミのお父さんは、 工場の従業員ということにされ、実際に働いているところを撮るシーンも描かれる。

 

そんな風に全編、演出された北朝鮮の一般家庭とその撮影プロセスが映し出された本作。

 

しかし、北朝鮮の国民だって人間だ。本作のカメラには、当局側の検閲をすり抜けてきた、北朝鮮の国民たちの「素顔」も収められている。

例えば、ジンミちゃんのお母さんの撮影で出てきた工員たち。命令に従いはするけども、横一列に立たされて撮影を待っている最中には「めんどくせえなあ」か「早く仕事に戻りたいなあ」という気持ちなのかつまらなそうな顔があれば、バツが悪いのか苦笑いする顔、さらには眠たそうにあくびをする顔もある。皮肉なことに、撮影と撮影の合間の瞬間こそが本作においてもっともドキュメンタリー性を帯びている。

「演出家」が熱心に演技指導する声に、彼ら彼女らの死んだ目をした表情が重ねられ、その光景はどこか滑稽ですら思えてくる。

 

そのように、全体主義国家の滑稽な横顔を皮肉たっぷりに詰め込んだ本作だが、クライマックスではやはり、笑えない実情に戻ってくる。

すべての発言を統制された上でしゃべるジンミちゃんが、カメラの前で耐えきれなくなって泣き出してしまうのだ。それは本物の涙と言えよう。

しかし、大人たち(画面には映らない)が冷徹な声色で「落ち着かせろ」「好きなことを考えてみて」と指示を出すと、「よくわかりません」と困惑するジンミちゃん。「好きな詩」を聞かれると、テープレコーダのようにスラスラと体制賛美の言葉を紡いでいく。

ドキュメンタリー監督がプライドをかけた隠し撮りが切り取るのは、全体主義国家の滑稽さと恐ろしさだ。