いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

俺も許せないと言われてみたい

突然だけど「許せない」って、いいよねって、思う。
それはでも、公序良俗に背く行為を見つけたときの殺し文句としての「許せない行為」など、「一般的」なそれではない。僕が好きな「許せない」は、とくに女の人の「許せない」、これにつきる。


シチュエーションは千差万別あるだろうけれど、女が異性に向かって「許せない」と吐き捨てる。それには強い憎しみや悪意が込められているのだろうけど、だからといって「許せない」を叫ぶというのはあまり聞いたことがない。「許せない」はあくまで恨めしくつぶやかれるものなのだ。


「許せない」の不思議さ。考えてみればおもしろいのは、「許せない」というのは何も言っていないのと同じなのだ。そしてそれだからこそ、いい。これは対義語の「許す」というのを考えるとわかりやすい。許すというのは相手の過去にしでかした行いをちゃらにしてあげるということ。もうそのことについては、やんや言わないよ、と。許すにはだから、その確固たる定義があって、終わりもある。

でもその否定としての「許せない」には、その「どこまで(許せない)か」という定義がないし、終わりもない。「許せない」の向こう側には深遠な闇が広がっているのだ。「許せない」が言われた相手にずしんと来るとすればそれは、いわば「もし許されなかったらどうなるんだ」ということが提示されていないと言うこと、自分の「処遇」が宙づりにされるところにこそ、あるのだと思う。


その「処遇」とは、例えば相手の命を奪うということなのか。しかしおそらくは、世の「許せない」を告げる女性のそのほとんどは、そこまで考えちゃいない。言われる方はおろか言う方だって「許せないからどうする」をそこまで決めずに発してしまうから、発せてしまえるから、「許せない」というのは厄介なのだ。ほら、よく言うではないか「死んでも許せない」、そして、「死ぬまで許せない」。要するに「許せない」を前にしては、生死というのも相対化される。相手の生死云々に関わらず、やっぱりそこには「許せない」というぽっかりとあいた穴が口を開けている。


無害ゆえに無敵。だからこそ、許せないと言われたからといってなんら実害はなにのだけれど、「許せない」と言われた側には、相手が許してくれるまで、あるいは永遠に、「許せない」と言われたことが脳裏にこびりついている。


だからこうも言える。「許す」というのは、囚人を牢屋から出してやるということに似ている。もういいよ、と。それまで許していなかった者と許されていなかった者の関係は、そこでいったん途切れるか、希薄になる。
一方この「許せない」というのは、許せない者が許されない者と一方的に結ぶ、強力な靱帯だ。許せない者が相手を許さない限り、それはちぎれない。
「許せない」と泣きじゃくる女が、結局はその当の相手の男のいいように扱われる図が浮かぶのは、実はこういうことなんだな。


許されない者だからこそ許せない者が依存してしまうという構造(もちろん逆も然り)が、実はあるのかもしれない。