いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

100メートルの記録はいつ止まるのか

今日の昼、テレ東で『隣のリッチマン』というなんともバカバカしいコメディー映画がやっていて、何の気無しに視ていたのだけれど、主演がベン・スティーラーとジャック・ブラックという陣容で面白くないわけがなく、きっかけは何の気無しだったので見終わって少し得した気分だ。


それでだ、この作品で二人は「フンこらほい」といううんこを溶かすスプレーを発明して大もうけする。そんななか、あるおばさん(おばあちゃん?)がそれをめぐってジャックの妻にかみつくシーンがある。スプレーは「うんこが消えて無くなる!」というキャッチフレーズで売れまくっている設定なのだけれど、彼女は「消えるわけないじゃないの!」と主張するのだ。


そうなのである。「雑菌が消えて無くなる!」などのフレーズは、コマーシャルなどでよく耳にすると思うが、あれは正真正銘消えているわけではない。僕らの目には見えなくなるほど小さく分解されているだけなのだ。そこから無くなったわけではない。ちゃんとある。彼女は裸の大様の裸を告発したわけだ。
それは、数学で言うところの微分の発想だ。どんなに細かくしていっても、絶対的にそれはある。なくなることはないのだ。


こういうことを考えていると、前から僕の中にあったある不安が、頭をよぎる。みなさんは、例えば陸上短距離の100メートル走の「将来」について、考えを巡らしたことはあるだろうか。僕は常日頃から不安で仕方ないのである。いつ、人類はそれ以上速くならなくなるのかが。


昨年の北京五輪、ジャマイカのウサイン・ボルトなる選手が余裕かましながらぶっちぎりで優勝し、同時に世界記録をも更新した。これからも彼自身の手によって、あるいは後進の選手たちの手によって徐々にその記録を「0.00」に近づけていくに違いないだろう。しかし、これだけは言えるというのは「0.00」になることだけは、絶対的にありえないということ。そしておそらく「0.00」に行くまでもなく、きっとどこかで人類の記録の更新は、完全にストップするはずなのだ。


いつか絶対に、その「どこのだれがどうやってもそれ以上縮まらないタイム」というのに人類は行き着くはずなのである。おそらく、僕の生きているうちはまだ「どこのだれがどうやってもそれ以上縮まらないタイム」に到達はできないだろう。けれど、いつか絶対に来るという意味では、地球の石油燃料の総量と同じだ。

僕が気になる「将来」とは、まさにその「どこのだれがどうやってもそれ以上縮まらないタイム」にたどり着いて後の、人類社会について。いったいその事実を、人類はどのように受け入れるのだろう。


僕の中に今ある、この事態に直面したときの人類のとりうる反応の「予想」を、今日は特別にいくつかご披露しよう。
まずひとつは、人類が100メートル走という「競技自体をやめる」というものだ。


が、この予想は外れるような気も、実はする。なぜなら「どこのだれがどうやってもそれ以上縮まらないタイム」は、人類自身にそれが本当の「どこのだれがどうやってもそれ以上縮まらないタイム」なのかどうか判断する術がないからだ。どんなに記録更新から遠ざかろうと、「まだ伸びるかもしれない」という期待だけはできるのだから。

またそれを判断できたとしても、人類自ら「どこのだれがどうやってもそれ以上縮まらないタイム」という限界を明示する経験は、辛いものになるに違いない。


予想はもう一つある。それは人類自体が滅びるのではないか、というもの。
どうしてだ?と言われれば、僕は「なんとなく」としか答えようがないんだけれど、そうなるような気もする。「どこのだれがどうやってもそれ以上縮まらないタイム」にたどり着いたことで、全世界的に人がみな発狂しだし、そろって首くくるとか、いろいろその「滅び」のバリエーションはあり得るのだけど、「どこのだれがどうやってもそれ以上縮まらないタイム」に直面して、人間が正気でいられないのではないか。「なんとなく」という気分で人類の絶滅を決めつけるなよと言われるかもしれないが、僕にはなんとなく、そこで人類が滅びるような気がしてしまうのだ。


あるいはこういうこともあるかもしれない。
「どこのだれがどうやってもそれ以上縮まらないタイム」もやがて、更新される。それはまた、人類ではない別のものによって。ただしそれは、チーターやヒョウによってではない。自分ではまだ自分のことを「人類」だと思っているのだけれど、もはや人類とは呼びがたいほどの身体能力を獲得した「人類の進化形」によってだ。

結局のところ、「どこのだれがどうやってもそれ以上縮まらないタイム」に直面すればどっちにしろ、「人類」は一度滅びなければならないわけだ。。