いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「セクハラ」野次を放った議員はなぜ名乗り出ないのか?

18日の都議会で質問に立った塩村文香議員が、「早く結婚しろ」や「産めないのか」といったセクハラめいた野次を浴びていたことが、大きな問題になっている。

関心事は「誰が言ったのか」ということなのだが、未だに特定されずに宙吊りの状態が続いている。塩村議員が所属するみんなの党からは、声紋分析を行うという話まで出てきている。


なぜ、野次った議員は名乗り出ないのだろう?
答えは簡単で、名乗り出たら袋叩きにあうことが分かりきっているからだ。議員辞職もありえるだろう。


問いを少し変えよう。
ではなぜ、野次った議員は批判されるようなことを議場という公式の場で言ったのだろう?


それはおそらく、野次というものが原理的に抱える「姑息さ」に由来する。
ふつう我々は、面と向かって会話している相手を非難したり揶揄したりすることを「野次る」とは言わない。野次とは基本的に「聴衆」「観衆」といった「衆」の中からなされる発言で、「誰が言われたか」ははっきりわかるが「誰が言ったか」は不問に付される。野次はそんな一方通行の文化なのである。
つまり野次とは、そもそもが「責任を伴わない発言」の別名なのだ。いわば、ネットを先取りした「匿名文化」といえる。その証拠に、野次はいわゆる「不規則発言」のため議会の議事録にも記録されない。
だからこそ、本来公表するにはちょっとヤバめの「本心」がペロッとでてしまう。野次へのカウンターを受ける準備はできていないし、批判の矢面に立たされる覚悟などもさらさらない。基本的に「言い逃げ」が許されてきたからだ。

野次を習慣とする側からすれば、「誰が言ったか」を追及するいまの世論の流れの方こそが「ルール違反」なのかもしれない。


けれど本来これはおかしい。議会は公的な場であり、そこでなされる発言はすべて公的な発言であるべきなのである。「空調が寒い」「腹減った」などの何気ないつぶやきならともかく、発言者でもないのに議場で大きな声で野次る方こそが、脱議会的なのだ。


野次は「議会の華 」という古い言い回しがある。野次が飛ぶことで、無味乾燥とした議会の審議が活性化するのだという。
なるほどね。
野次のポジティブな効用はあるかもしれない。それは、使い方を心得た者が集う匿名掲示板が、見ていて気持ちがいいのと同じように。結局は使う者の素質に委ねられる。
ならば、お行儀の悪い都議会からは、即刻取り上げた方がよい。「華」なんだと言いはっても、吐瀉物や排泄物を塗りたくってくる輩がいれば誰だって怒るだろう。それと同じだ。


該当する議員(複数いる可能性もある)を抱える党は、速やかに名乗り出ることを促すべきだろう。
それができないならば、匿名で他人を中傷することを許す政党だと言っているのと、同じことだ。