いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

快作『ヤクザと家族 The Family』がヤグザという「令和のマイノリティ」を通して描いたもの

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藤井直人(みちひと)監督の最新作『ヤクザと家族 The Family』を観てきた。

圧倒された。間違いなく、今年の年間ベスト10争いに入ってくる一作だ。

SNSでは坂元裕二脚本の『花束みたいな恋をした』が絶賛され、大いに盛り上がっており、その中でこの作品をチョイスしたことは少し心細かったが、今となっては自分の選球眼を褒め称えたい(いや、『花束みたいな恋をした』もたぶん絶対にいい作品だと思うので、そのうち観に行きますよ…)。

 

ある小さな港町を舞台に、そこを縄張りとする2組のヤクザの抗争を、1995年、2005年、そして2019年という3つの時代区分で描いている。

主演の綾野剛が演じる山本は、地元のチンピラだったが、ある騒動をきっかけに地元の暴力団・柴咲組の組長・柴咲(舘ひろし)に認められ、組に入る。母親はすでに他界し、父親も薬物で喪った彼にとって、組は初めてできた「家族」になっていく。

出ている役者全員がカッコいい

ストーリーもさることながら、本作で特出すべきは、主要キャストほぼ全員がたまらなく印象的だということだ。

綾野剛は、最初は鼻っ柱が強いチンピラ、次は野心ギラギラで組の勢力拡大に邁進する若頭、と時代ごとに移り変わっていく山本の姿を見事に演じ分けるし、カリスマ性の塊が演技してる! といいたくなるほどの舘ひろしは、出番こそ多くはないが存在感がビンビンだ。

それから、個人的に大好きな俳優の北村有起哉の実直でマジメな昔気質のヤクザという役どころも最高だった。これまでは鬱陶しさと暑苦しさしか感じなかった市原隼人も、この映画でいい意味で驚かされた。めちゃくちゃいいのである。さらに今、乗りに乗っている磯村勇斗も、本作で新たな一面を見せている。

そのほか、敵役の豊原功補駿河太郎、そして、ある意味一番悪いやつを演じる岩松了もいい。

とにかく、出ている俳優全員が、「この映画に出てよかったなあ」と(たぶん)思っているだろうし、おそらく、らのファンの多くが喜ぶ作品となっている。

「正論」に表現で抗う術を観る

本作は藤井監督のオリジナル脚本だという。なぜ彼がヤクザを題材に選んだのか。ぼくなりに推測すれば、それは彼らが令和現在の今、もっとも「正論」から遠い存在だからなのではないか、と思う。

多くの人が知るように、時代の潮流として暴力団への締め付けは年々厳しくなっている。劇中の柴咲組も、2019年になるとケツ持ちをしていた店舗が次々と閉店し、シノギに困って密漁に手を出す始末。一大勢力を誇っていた組員の数は減少の一途をたどり、かつての勢いは観る影もなくなってしまった。

それだけではない。ヤクザというだけで非人間的な扱いをされ、「反社とのつながり」には世間が目を光らせる。かつてあった絆は分断されていく。映画はそんな彼らのやるせない現在を、説得的な脚本と、演者らの確かな演技によって描いていく。

 

だが、よく考えてみてほしい。普段ぼくらはその風景を「反社」だとか「コンプラ」といった言葉を通して、実は反対側から見ているではないか。大多数のぼくら観客は、「そうした状況」の恩恵を受けていた受益者だったはずなのだ。

たしかに、暴力団の存在を擁護する理は本来なら一切あり得ない。柴咲組だって、シャブは厳禁だとしても、後ろ暗い稼業で儲けていたはず。今まで散々甘い汁を吸ってきたのだろう。そんな彼らが、厳しくなった法律によって裁かれていくことは、本来ならなんのためらいもないはずだ。

しかし一方で、批判する余地のない「正論」によって苦しめられ、ほとんど誰にも擁護されない暴力団は、ある意味、現代が抱える究極のマイノリティだとも言える。藤井監督が今回ヤクザを題材に選んだのは、もしかしたら、そのマイノリティを通してだからこそ、まだ語るべきことがある、という勝算を見出したからではないだろうか。

柴咲組を通して本作が描こうとしているのは、「暴力団」あるいは「反社会勢力」といった言葉では語りきれない、どうしようもなく語り漏れてしまう「余剰」の部分だ。ろくでもない男たちが身を寄せ合い、拠り所にするしかなかった何か、それを本作は「家族」と呼ぶ。

 

ぼくが同じ藤井直人監督作でも、『新聞記者』に乗れなかったのは、同じ理由からだ。

新聞記者

新聞記者

  • 発売日: 2019/10/23
  • メディア: Prime Video
 

あの映画については、特にリベラル左翼の人々が「よくぞやった」と手放しで喜んでいたが、同じリベラル左翼のぼくとしては、まったくもって理解できなかった。

というのも、あの映画で描かれているのは、当時現実の政治で起きていたこととは、似て非なるものだったのだ。現実に起きたことを矮小化した「架空の絶対悪」をこしらえ、それを叩こうとする人々が描かれていたわけだ。

しかし、「『絶対悪』を叩く」というのはある意味一番の「支配的な価値観」だ。『新聞記者』、というよりも、あれを絶賛する人々に対してどうしても違和感をもってしまったのは、「支配的な価値観」(正論、と呼んでもいい)にただただ追認していることに、彼ら自身があまりにも無自覚だったからだろう。

 

それに対して本作は、「支配的な価値観」「正論」から最も遠い視点に立ち、別の見方=オルタナティブを提示しようとする。

でもそれは間違っても「正論」への「反論」ではない。「反論」でこそないが、「正論」からは絶対に語り漏れてしまうやるせない事象を描き、ぼくら観客に「ためらい」の気持ちを生み出す、いわば異物のようなものだ。

でもそれを描くことにこそ、表現する本当の意味があったのだと思う。 

誰かに認められたい! たとえそれが偽りの姿であっても…映画『ナンシー』がせつなすぎる(ネタバレあり)

 

ナンシー(字幕版)

ナンシー(字幕版)

  • 発売日: 2020/07/06
  • メディア: Prime Video
 

アマゾンプライム・ビデオで、レンタルが100円になっており、このサムネイルのインパクトに負けてポチった一作。ということで、大して期待はしていなかったのだけど、これがまたいい意味で予想外だったので紹介したい。

 

<<以下、ネタバレ全開>>

オブリビオン』から一転、孤独でさみしい女に

ヒロインのナンシーを演じるのはアンドレア・ライズボロー。はて、この顔、どこかで観たような? と思ってググったら、やっぱり観たことある。多くの人が一番記憶に残っているのは、トムクルのパートナー役を演じたSF大作『オブリビオン』かな。

オブリビオン(吹替版)

オブリビオン(吹替版)

  • 発売日: 2016/01/30
  • メディア: Prime Video
 

 

オブリビオン』では、ちょっと神経質でいて日和見主義的な相棒キャラクターを演じていたが、本作『ナンシー』ではまるでちがう、内気で孤独、派遣仕事で糊口をしのぐさみしい女性ナンシーを演じている。

ナンシーの歪んだ自己承認欲求

ナンシーはパーキンソン病で闘病中の母親と同居しているが、娘をこき使う母親とナンシーの仲はいいとは言えない。

孤独なナンシーは、孤独であるがゆえの強烈な病理を抱えている。それは「誰かに認められたい」という渇望に近い欲求だ。

そのためには、相手の見たいもの、聞きたいものにも自分を簡単に偽ろうとする。ネット上で知り合った、死産で我が子を失った男性に対しては、共感を誘うために自分を妊婦だと偽り、妊婦のふりをして実際に会いに行ってしまう。もし親しくならばいずれはバレてしまう、意味のない嘘である。それでもその場しのぎで嘘をついてしまう。常人には理解できない感覚だが、それこそが「自分を偽ってでも相手に認められたい」という彼女の病なのだ。

 

そんなナンシーに転機が訪れる。病の母親が突然死。さらに、テレビで運命的な夫婦を目撃する。

レオ・リンチとエレン・リンチというその老夫婦は、20年前、愛娘が行方不明になるという悲劇に見舞われたという。娘は未だにみつかっておらず、今も探しているというリンチ夫妻。テレビで2人の娘の20年後をCGで描いた顔写真を目にして、ナンシーは驚がくする。なんとそれは、ナンシー自身とそっくりだったのだ!

ここでナンシーの中で点と点が線で結びついていく。なぜ私には父親がいないのか、なぜ母親は私に冷たかったのか…。答えは、実の娘ではなかったからで、私の実の夫婦は、この2人だったんだ!

すぐに夫婦に連絡したナンシー。はじめは半信半疑だった夫婦も、ナンシーの顔を知って驚く。我が子そっくりではないか、と。

人が「貴種流離譚」に魅了される理由

貴種流離譚」という物語の型がある。本来身分の高いはずの子どもが、何らかのトラブルによって苦難を経験しながら、もともといたはずの場所へと戻っていく、というパターンの物語だ。実はあの『ドラゴンボール』さえもこれに当てはまる。それぐらいポピュラーな話型だ。

この話型が流行る背景には、ぼくらの期待、願望があるのではないかと思う。平凡な家庭に生まれた平凡な自分も、実は特別な存在だった、という期待や願望に応えてくれるのが、「貴種流離譚」なのだ。

ナンシーにも確実に「貴種流離譚」願望があった。おまけに、エレンは比較文学を教える大学教授だという。ナンシーは小説書きが趣味で出版社に送るほど。もしかしたら、小説を書く才能はこの女性から引き継いだものかもしれない。次第に、ナンシーの中で「貴種流離譚」への期待が高まっていく。

遺伝子検査を遅延…エレンのせつなすぎる夢

幸せムードが高まっていくなか、スティーブ・ブシェミ演じる夫レオだけは冷静で、感動の再会のはずなのにどこか淡白だ。観客もそうだろう。そんな上手い話があるわけがない。似顔絵が似ていたのは偶然の一致だ、と。

レオは早々に、妻とナンシーに遺伝子検査を提案する。これは至極まっとうな意見だ。検査さえすれば、白黒がはっきりつくのだから。

しかし、ここで印象的なのは、妻のエレンがそれを一度は拒否するのだ。別に今日ではなくていいではないか、と。ここでぼくら観客はハッと気づく。もしかしてエレンも、これが“夢”だというのを気づいているのではないか? そして検査を遅延させているのは、この幸福な夢が醒めるのを少しでも引き延ばそうとしているのではないか? と。そう思って観ると、J・スミス・キャメロン演じるエレンが、“娘”ナンシーと楽しそうに過ごす姿が、観ていられないほどせつなくなってくる。

その後、ついに遺伝子検査という「審判」が下される時が来る。ここまでくると、エレンの気持ちを思い、多くの観客は「万が一、実の娘であってほしい…!ハッピーエンドであれ…!」と思っていることだろう。しかし、遺伝子検査の結果は無情にも陰性。やはりナンシーはエレンらと何ら関係ない赤の他人だったのだ。

「この子は娘ではなかった」から「この子と知り合えてよかった」へ

悲嘆に暮れるエレン。どうしていいか分からず困惑するナンシー。

しかし、映画はここで素敵な展開を用意する。ナンシーとエレンが悲嘆に暮れながら歩いているところで、ある「人助け」をする機会に遭遇するのだ。

人の命に関わる状況で、必死になって相手を助けようとするナンシー。その姿を見ながら、エレンの顔が徐々にほころんでいく。

思えばナンシーの行動原理は最初から、自己承認欲求だけではなかった。妊婦を偽ったときも、傷ついた相手を癒やしてあげたいという気持ちが背景にはあった。「困っている人の役に立ちたい」「助けたい」という気持ちの延長線に、その上で「認められたい」という自己承認欲求だった。ナンシーの中では、人を助けたいという慈悲の気持ちと、自己承認欲求がコインの裏表だったのだ。

ナンシーが一心不乱で人のために動いている姿をみた瞬間、エレンの中で「この子は娘ではなかった」という悲しみは、「この子が娘だったらよかった」「この子と知り合えてよかった」という前向きな希望へと変わる。

せつないのだけれど、その中にもかすかな希望をにじませた余韻になっている。 

狂気の眼力に釘付け! 彼は善人なのか? 悪人なのか?『聖なる犯罪者』

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ポーランド発の映画『聖なる犯罪者』は、とある犯罪で少年院に収監されていた青年が、出所するところから始まる。この男、ダニエルは収監中に宗教に目覚め、カトリックの司祭になりたかった。しかし、罪を犯した彼に神学校の道は閉ざさされている。彼にはあてがわれた作業所で働くしか道はない。

せっかく目指す道が見つかったのに、諦めざるを得ないことに不貞腐れたダニエルくん。出所して早速、酒にドラッグに姦淫に、と堕落の満漢全席をキメてやさぐれる

ああチクショー面白くねえと思いながら、作業所の村を訪れたところ、ひょんなきっかけで、その村に新しく招かれた司祭だと勘違いされてしまう。

あれよあれよという間に信頼され、持病が悪化した年配の司祭に代わりに村を任され、ついには村人の告解を引き受けてしまう始末! そのまま、ええいままよと司祭になりすますことを決意する。

そんなダニエルに息を吹き込んだのは、28歳のバルトシュ・ビィエレニア。この人、普通にしていたらそこそこイケメンに思えるのだが、ときおりカッと見開いたときの目ヂカラが凄まじい。予告編でも使われているが、出所後のクラブのシーンでの(おそらく)ガンギマリで一心不乱に踊るシーンの顔面が怖すぎ(動画の1分6秒ごろから16秒ごろ)。自宅で人の生首をコレクションしてる狂人にしか見えないのだけれど、一方、一生懸命「司祭」を演じようとするぐう聖ダニエルくんは、まるで別人。そうした多面的な彼を、見事に演じきっている。

 

ここまでの展開ならば、「ある集団に異分子が紛れ込み、徐々に信頼を獲得しながら同時にその集団を乗っ取ってしまう」というよくあるパターンが脳裏に浮かぶのだけど、本作はそれらとはちょっと違う。本作のメインとなるのは、うっかり司祭になりきっちゃったダニエルくんの「バレる!?  バレない!?」というハラハラドキドキ要素なのだが、もう1つ別の要素がある。

それは、ダニエルくんが村を訪れる1年前に起きたある悲惨な事故だ。この事故をめぐり、村人たちは「加害者」への憎しみを忘れられないでいた。偽司祭のダニエルくん、何をトチ狂ったのか、この紛争を仲裁しにかかるのだ。おまけに、宗教的な素養はほとんどないはずの彼だが、どこから学んだのか謎の絶叫療法みたいなのを考案して、悲しみに沈む遺族たちを癒やしちゃったりする。まさに嘘から出た真!

 

事故につい手調べていくうち、ダニエルはその多面的な真相にたどり着くことになる。それは、どちらかが一方的に正しいとは言えない真相だ。その状況は、彼自身にも通じている。邦題である「聖なる犯罪者」。「うんこ味のカレー」のようなものだが、果たして彼は聖人なのか邪人なのか。どちらとも言えないし、どちらでもある。

予想していたほど直接的な残虐な描写や人間の醜さが描かれることは希薄だが、強烈なインパクトを残す1作だ。

愛する人、故郷を奪われた者たちの壮絶な復讐劇 『ナイチンゲール』

映画の感想について、ここ数年はあまり書かなくなっていたのだけど、書かずにいることで起きる最大の悲劇は、「あんなに衝撃を受けたのに、感動したのに、内容を覚えていない…!」ということである。

今年は毎月必ず、その月に見た映画で面白かったものを1~2本ピックアップして紹介していきたい。

ということで、今年1本目はこの『ナイチンゲール』だ。

ナイチンゲール (字幕版)

ナイチンゲール (字幕版)

  • 発売日: 2020/04/30
  • メディア: Prime Video
 

看護師の方ではない。あれは治す方であるがこれは殺す方のナイチンゲール。全編、曇り空のようなジメジメした灰色のシーンが続く、陰惨な復讐劇だ。

舞台は19世紀のタスマニア。軽犯罪でアイルランドから流刑で運ばれてきたクレアがヒロインだ。彼女自身の刑期はとっくの昔に終わっていたが、彼女の夫・エイデンは釈放されることなく、身勝手な英国軍将校ホーキンスの命により囲われていた。夫と共に自由になりたいクレアはホーキンスに直訴。しかしそれは、ホーキンスの怒りに火を付けてしまう…。

 

すべてを奪われた者たちの復讐劇

残忍な支配者によって愛する夫、まだ生まれてまもない我が子、すべてを奪われたクレアを、『ゲーム・オブ・スローンズ』でリアナ・スタークを演じたアイスリング・フランシオシが熱演。彼女の悲しみと、怒りの演技が、復讐劇の開幕を高らかに宣言しているようだ。

性暴力を受けた末にクレアが意識を失っている間、上官の係留地へと出発したホーキング。この恨み、晴らさないでおけようか。クレアの復讐を賭けた追撃が始まる。

彼女の旅をサポートするのは、先住民族の黒人ビリー。例により、最初は乗り気でなかった彼も、半ば強制的に雇われて復讐劇に巻き込れていく。

しかし、途中からはこれがクレアのみならず、ビリーの物語でもあることが分かってくる。なぜならこれは彼の復讐劇でもあったのだ。彼は何を奪われたか? 白い入植者たちにすべてを奪われたのだ。家族を、仲間を、故郷を。

 

“ビフォー差別”のおぞましい世界

こうした映画で目を引くのは、「人権」以前の世界のエグさだ。19世紀といえば、歴史的にはすでに「人権」は発明されていたのだが、当然、まだ「普及」まではしていなかった。そのため「人権がない人間」がいた。つまり女性や子ども、有色人種、そして奴隷だ。彼らがいかにモノとして扱われていたかも、本作は容赦なく活写する。

「人権がない人間がどのように扱われてきたか」は、『それでも夜は明ける』など過去にもさまざまな映画で描かれてきたが、本作での描かれ方もまたおぞましい。余興のようにささいなことで殺されていく人々。

本作を観ると、「差別は人権が普及したからこそ生まれた」のではないか、とさえ思えてくる。それは「人権がない方がよかった」と、言いたいのではもちろんない。人権を持たない、道具や商品として扱われていた人々に人権が付与されたからこそ、それ以前の時代を“懐かしむ者たち”が、「差別」という形をとり、以前の時代の名残惜しんでいるのではないか、ということだ。

 

「ここは俺の故郷だったんだ…」印象的な涙

暴力的なシーンが幾重にもある本作だが、印象的なシーンはまた別にある。それは、クレアとビリーが心ある白人老夫婦の家に匿われたシーンだ。クレアが老夫婦とテーブルで食事をしている際、壁際で地べたに座っていたビリー。椅子に座るよう促されたビリーが食事を取り始めてしばらくして、不意に泣き始める。なぜか? 「ここは俺の故郷だったんだ…」。そう、彼は丁重に招かれたゲストであるが、そもそもここは彼の“ホーム”だったはずなのだ。

 

クレアが何人仇を討ち取ったとて、そこにカタルシスは用意されない。復讐したとて愛する者たちは帰ってこないのだ。オペラ歌手でもあるフランシオシが、劇中で「私は願い続けている 愛しうる人にまた会いたい」と歌うアイルランド民謡は、その切なさを体現している。

「男女の友情は存在するか?」がなぜ愚問なのか

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神スイングのときから大ファン(かなりベタな導入)である稲村亜美ちゃんが直火で炙られる程度にはヤフコメで炎上していたので、今年初エントリーとして猛烈擁護フルスイングエントリーをしたためたいと思う。

 

「男女の友情は存在するのか?」という問いがある。

しかし、お題目を自ら掲げておいて早速で申し訳ないのだが、この問いを、ぼくはそもそもバカにしている。正確には、この問いを立てる人間を、だ。

未だに、飲み会でこの話題に言及しようとする輩がいる。あーだこーだしょーもないことを散々述べたあげく、「やっぱり永遠に答えの出ない問いだよね~」などと勝手に結論付けるバカである。そういうのに遭遇すると、反射的にそこにあるなんこつの唐揚げを2つの鼻の穴にぶちこんでやろうかと思ってしまったものである(自粛前の話です)。

 

だから、ここでぼくがつづっていきたいのは、「男女の友情は存在するか」ではない。「未だに『男女の友情は存在するか』という問いで盛り上がるやつはなぜバカなのか」だ。

肉体関係/友情というゼロサム関係の誤謬

彼らがなぜバカなのか。それは「自分の立っている前提に気づいていない」ことに由来する。

 どういうことかというと、「男女の友情は存在するか」という問い立てには、まるで「男女の友情」と「セックスをする関係」がゼロサムの関係(あちらが立てばこちらが立たず)にある、という発想、というよりも思い込みが前提に隠されている。

図にすると、つまりこういうことだ。

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「男女の友情は存在しない」とする人の脳内の図解

そのように、「友情」に関する“要件定義”を暗黙裡に受け入れているがゆえに、「男女の友情は存在するか」という問いが成り立つのである。

しかし、「セックス」と「友情」は両立し得ないというのは思い込みで、ある意味「現代の心身二元論」といえる。

この前提のもとにある「男女の友情は存在するか」という問いを立てていること自体、その人は自分の偏狭な倫理観であることを問い直さなけばならない。それに気づいていないから、ここで「バカ」だというのである。

 

こうした思い込みから自由な人間からしたら、「男女の友情は存在するか」という問い自体がいかにナンセンスで、「問いとして成立していないか」が分かるだろう。そもそも、それは二者択一ではないのだ。

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「男女の友情は存在するか」という問いを立てる人は青い網目の部分が想像できない

 

さらにいえば、セックスだけではない。

セックスすること“も”ある友人関係もありえるし、キスすること“も”ある友人関係も、ペッティング“も”する友人関係もあり得る。それぐらい、人間と人間の関わり方は多様なのである。

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そのことを問い返すこともなく、令和の時代に相変わらす「男女の友情って成立すると思う?」と厚顔無恥にも問いかけるのは、自身の保守的な性倫理を開陳しているにほかならない。

 

「セフレ」という言葉が生む認知の歪み

もっとも、彼らがこうした誤謬に陥ってしまう要因もあるように思える。彼らの認知に歪みを生じさせているのは、もしかしたら「セフレ(セックスフレンド)」という言葉かもしれない。

セックスもある友人関係というと、直感的に「セフレ」という言葉が思い浮かぶと思うが、実際のところ「セフレ」の内実は「セックス“も”する友人」とは程遠い。

どちらかというと、「セックスが主目的の関係」であり、実際のところ友人と呼べるほど親密ではない、という場合が多い。「セフレ」という言葉に匂い立つ独特の「冷たさ」の本質的な理由は、単刀直入に言うと「友達ではないから」なのだ。フレンドというほど仲がいいわけではなく、連絡がつく知人程度、セフレというより、いわば“セ知人”である。

しかし、世の中には「セックスもする友人関係」だってありえるし、その関係性は現状の「セフレ」という言葉がカバーする語彙の外にある。

 

だから、「男女の友情は存在するか」という問いはそもそも成り立たない。言えることがあるとすれば、「俺/私は友達とはセックスできない」あるいは、「俺/私はセックスした人とは友達になれない」という個別の価値観のみなのだ。

 

ここまで書いて重大なことに気づいた。この記事は稲村亜美ちゃんの擁護にも何もならなくなってきている。擁護フルスイングは大きく空振りしてしまった。

稲村亜美ちゃんは、2人旅をしても何も起きない男友達がいる、と言いたいだけなのであった。 しかし、これだけは言える。旅先でなんやかんやがあったとしても、その人本人が「男女の友情」といえばそれは「男女の友情」なのである。

【450本観た上で決定!】2020年度いいんちょ映画祭ベスト10

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2020年もあと10分というところで駆け込み更新!

今年の劇場鑑賞数が73本。昨年が114本だったので、だいぶ減りました。やっぱりコロナの影響は否めない状況です。

ただ家にこもりっきりだった分、全鑑賞数はついに450本ジャスト。自分で言うんもなんですが、頭がおかしいです。

 

これだけの本数観ることの効用が1つだけあります。それは「本当にいい映画以外は覚えていられない」ということ。なので、今年のランキングは昨年ほど悩まず決まりました。

なお、昨年トップ10だけを決めて順不同にしたところ、一部から「ずるいぞ」「それでも男か」「人でなし」「このまま朽ち果てるがいい」などというクレームを受けまして、今年から再び順番も決定します。

それでは、今年日本初公開作品、ならびに今年配信スタートの作品から決めるトップ10です。その下の部門賞もありますのでお忘れなく。

それでは、イッてみましょー!

 

【過去7年のランキング】
2012年シネマランキング

2013年シネマランキング

2014年シネマランキング

2015年シネマランキング

2016年シネマランキング

2017年シネマランキング

平成30・31年版シネマランキング

https://iincho.hatenablog.com/entry/2019/12/31/185221title=2019年シネマランキング

 

① フォードvsフェラーリ

凸凹コンビ、期待されていないチームが、自分たちの信念を曲げずに常勝軍団に挑み、打ち負かしていく様は最高。そうそう、こういうのだよ、こういう単純なのでいいんだよ。本番のルマンより、国内でチーム内ライバルを打ち負かすデイトナが一番熱かった。サントラも最高。

 

② 透明人間

誰もが知る、知りすぎて「いまさら?」という透明人間を、見事に「今観るべき透明人間(見えないけど)」として蘇らせた!

 

③ リチャード・ジュエル

クリント・イーストウッド翁が、いつものようにシンプルに、ちゃちゃった肩の力を抜いた風に撮っているけど、これまたどうして、心を揺さぶられる作品になっている。もはや達人というか、仙人の粋なのではないか。サム・ロックウェル演じる弁護士がひたすらカッコいい。

 

④ ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー

青春映画の新しい扉をバン!っと開いた一作。カーストだとか悪者だとか、ムリに作らなくても青春を語れるってことを教えてくれた。いつもゴキゲンで、いつも「あんたサイコー!」って褒め合ってる主人公コンビの微笑ましい雰囲気は、一生観ていられる。

 

⑤ シカゴ7裁判Netflix配信)

法廷映画の最高峰。これだけ込み入った事実を、よくぞここまで練り上げたなと、脚本に驚くばかり。『ボラット』続編が配信されたサシャ・バロン・コーエンが普通にいいキャラやっててびっくり!

 

⑥ TENET テネット

初見殺しの難解SF。これを思いついて、実際に映像化した時点でノーラン、あんた狂ってるよ!

 

⑦ ジュディ 虹の彼方に

「ムラっ気のある天才」の話ですな。ロンドン来てわがまま言って散々グダリながら、ステージに出てきて圧巻の"by myself"がめちゃくちゃカッコいい。歌に人生を乗せる感じがまるで演歌。昭和かよ。いい意味で。不恰好なのがカッコいい。

 

⑧ アンカット・ダイヤモンドNetflix配信)

ダメダメ男の人生を賭けた大一番。アダム・サンドラーの出る映画で一番好きかもしれない。全然ハッピーエンドではないけど、なぜかふわふわした最後の浮遊感もいい。

 

⑨ さよならテレビ
観終わってしばらく考え込んでしまった! 「ドキュメンタリーのドキュメンタリー」。


三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実

50年前の時を経た映像という資料的価値もさることながら、今を生きる当事者たちがここまで赤裸々にしゃべってくれていることが、感動的でさらに価値を高めている。今年いろいろあった東出昌大くんが読み上げる的確な脚注もあり、知らない人でも理解しやすい内容に。

 

■ ラストシーンの演出が最高で賞(2作同時受賞)
佐々木、イン、マイマイ

燃ゆる女の肖像

 

■ さすが野木亜紀子! 最後までドキドキ・ワクワクだったで賞
罪の声

 

■ 残念! 劇場でちゃんと観たかったで賞

劇場(劇場公開を待たずアマプラで配信されたことでも話題に)

 

■ 子役にはひたすらハードだったで賞

異端の鳥

 

■ 外見はとっつきにくいけど中身はめちゃくちゃ俺好みだったで賞

バクラウ 地図から消された村


■ その男泣きにもらい泣きしたで賞

アンカット・ダイヤモンド(アダム・サンドラー

 

■ サントラが最高で賞(1年目のデントナでかかる曲)
フォードvsフェラーリ

 

カムバック賞
ハスラーズ(ジェニファー・ロペス

おぎやはぎ小木さんの声がよく出ていたで賞&この映画の町田啓太は中毒性が高いで賞
前田建設ファンタジー営業部

 

以上となります。

来年も引き続きよろしくお願いします!

連休はこれ観とけ! Netflix・アマプラで観られる厳選映画8選【配信限定掘り出しもの編】

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前回のドキュメンタリー編に続き、今回は劇映画で掘り出し物を紹介したい。

アイリッシュマン』『マリッジ・ストーリー』『ROMA/ローマ』みたいにすでに世界的に評価されているもの、『ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから』『シカゴ7裁判』『オールド・ガード』みたいにSNSで散々盛り上がったものは観ている前提で、紹介しませんよ。義務教育やないんやからね。『もう終わりにしよう。』は優れた考察ブログがあるからそちらへGO!

ということで、「有名ではないけどこれも面白いよ」というものを8本(10本以上は前回で懲りたのでやめます)をピックアップ。では行ってみましょう。

(1)「無音」という表現の可能性 『サウンド・オブ・メタル』【AP】

サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~

サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~

  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: Prime Video
 

ジェイク・ギレンホール『ナイト・クローラー』で悲惨な目に遭う助手を演じていたリズ・アーメッドが、ある日突然耳が聴こえなくなるメタルドラマーを好演する。
健聴者が突然聴こえなくことの恐怖、そして、ろう者コミュニティで最初に味わう孤独感を繊細に表現していく。主人公は埋め込み式の機器を使って再び聴こえるようになるけれど、そこにもまた別の「孤独」が待っている。

ラストシーンの「静寂」が、それまで彼が味わってきた辛い「無音」とまったく別物に感じられる不思議。映画にはまだ無限の可能性が隠されていると実感できる。

(2)『ゼロ・ダーク・サーティ』は嘘だった!  『ザ・レポート』【AP】

ザ・レポート

ザ・レポート

  • 発売日: 2019/11/15
  • メディア: Prime Video
 

オサマ・ビンラディン殺害に至るまでの経緯を、気の遠くなるような作業を通してアダム・ドライバー・演じる調査員が洗い直す。暴かれたのは、あまりにもずさんで、残虐な尋問プロセスだった。

印象的なのは、本作がCIAをヒーローとして描かれた『ゼロ・ダーク・サーティ』への反論となっていること。劇中には同作の映像も出てくる。当時、あの映画を観て感心してしまった人ほど観るべき一作。

(3)息子がいなくなった…緊迫の密室劇『アメリカの息子』【NF】

 ある夜、10代の息子が姿を消した――心配で警察署に母親が駆けつけたところから始まるサスペンス。

ブロードウェイ作品の映画化で、「警察署の待合室」というほぼ1シチュエーションで、息子の母、父、そして警察職員のほとんど3人の会話劇で進む。男/女、白人/黒人の違いから生まれてくる視点の違いが、息子の危機というスリリングな状況の中で、緊迫した口論を生んでいく。

(4)アニメの力、可能性を感じる『失くした体』【NF】

今年のオスカーの長編アニメ部門にノミネートされ、密かに応援していた。惜しくも受賞とはならなかったけれど、その表現力はぜひ多くの人に確認してもらいたい。ひと目見て、日本のアニメーションとは全く別の場所から生えてきた、ということを理解せざるを得ない表現力。ストーリーも独特で、どうやったらこういう話が思いつくんだろう? さらに、このストーリーの良さは、実写では出せないだろうとも感じる。「アニメにしかできないことがある」。アニメの力とその可能性に思いを馳せてしまう1作。

(5)ポン・ジュノが贈る“豚ファンタジー”『オクジャ okja』【NF】

工事畜産への批判を、“スーパーピッグ”というファンタジーを通して描く、『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノによる『命の教室』。オクジャのかわいいのかグロいのかよくわからないのかわからなくなってくるビジュアルや、「ここ、笑っていいのか分からない(でもちょっと面白い)」というポン・ジュノ独特のブラックユーモアに溢れる1作。

(6)ダメ男が一世一代の大勝負『アンカット・ダイヤモンド』【NF】

エチオピアで掘り当てられたアンカット・ダイヤモンド。これさえ売れれば、これさえ売ることができれば、今まで何もいいことがなかった俺の人生、一発逆転ができる…。アダム・サンドラーが、借金まみれのマンハッタンの宝石商ハワードを熱演する。

本人のダメさと不運も相まって、予想通り取り引きがダメになりかけたところで、ついにハワードが彼女相手に泣き崩れるところは、否が応でも共感してしまう。アダム・サンドラーという俳優は、これまで個人的にピンとこない存在だったけれど、これが彼のベストアクトかもしれない。サイケデリックな音楽の趣味もいい。ふわふわした雰囲気で不思議な余韻を遺していくラストシーンも印象的。

(7)プレイする映画『ブラック・ミラー: バンダースナッチ』【NF】

ネトフリのオリジナルドラマシリーズ『ブラック・ミラー』のスピンオフ映画だが、本作の特異な点は、視聴者(プレイヤー?)が視聴中に主人公の選択を選ぶということ。

PS4の『Detroit become human』が「プレイするドラマ」だとしたら、本作は「鑑賞するゲーム」といえ、両者の距離が限りなく近くなっていることを感じるエポックメイキングな1作。

(8)タフなガンアクションが観たいならおすすめ『タイラー・レイク -命の奪還-』【NF】

マイティ・ソー”としては、近年コメディリリーフを担うことが多くなっているクリス・ヘムズワースが、久々に魅せてくれたガチガチのアクション映画。生きる意味を失った主人公が、誘拐された麻薬王の息子奪還のミッションを受ける「プライベート・ライアン in バングラディシュ」のような内容。

話は脳筋で単純明快だが、火薬の匂いがしてきそうなガンアクションがすごい。特に途中に出てくる擬似ワンショットの逃走&アクションシーンは圧巻で、ふと、アクションゲームのムービーシーンのような錯覚に囚われたのたけど、もしかして今、映画には「ゲームのような映像体験」が求められているのかもしれない。

 

いかがでしたか?

もちろん上記8作以外にも、ネトフリ・アマプラには配信限定の作品が気が遠くなるほどの数埋まっている。引き続き、網膜が摩耗してツルツルになるまで監視し、またここで報告したいと思う。